最近、世界遺産、日本遺産、更には、未来遺産、そして最近この地域で 進めようとしている文化的景観と呼ばれる生活と自然を組み合わせた資産など 様々な地域の持つ資産継承の活動が言われているようだ。 変わり行く日本であるが、変わってもらいたくないものもある。人は自然との 調和の中で生きている。これは、都市生活と呼ばれる機能性と便利さを重視 した生活とは、ある面、対極にあるものでもあろう。しかし、自然をそのままに 活かし、人がその中で過ごせることが肝要ではないのだろうか。人口減少に よって多くの市町村が消滅の危機にあるという話がよく聞かれるようになった。 多くの市町村が都会と同じ生活を目指し同様の市民サービスをしてきたが、 コンクリートだらけの無機質な世界を造るのではなく、自然の資産、資源を 活かした自分たちの実力に見合った運営をしてくれば、このような姿とは違った ものになった可能性もある。だが、自然を壊し高速道路や様々な施設を造る事が 住民サービスだという遅れた意識と行動がまだまだある。人と自然は一体の もののはずだが、人の尽きない欲望が優先し、それを壊す事に専念してきた時代 でもあった。 この旧志賀町辺りは、様々な文化的な遺構、遺跡、そして比良山系と琵琶湖の 織り成す自然がまだまだ生きている地域でもある。 その環境に魅かれて様々な人々が移住して来ている。 出来れば、この良さを未来につないで行きたい、と思う人が多い様だ。 1.重要文化的な景観の認定に向けて まずは、地域の資産を自ら見直し、それらを見える形にして行くことを目指す この地域の特長である石を中心とした「重要文化的景観」へ取り組みについて 直接関わりがあるわけではないが、概要を述べて行きたい。 1)文化的景観とは、 まず「文化的景観の定義」ですが、 文化財保護法第2条に「地域における人々の生活 又は生業及び当該風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため に欠くことのできないもの」と定義されている。 この「地域における」という部分が重要で、 名勝地のように国のレベルで高い評価 を得ているということだけではなく、地域に残された固有のものを積極的に保護対象 にしていこうという法律なのです。 また、 法律自体はその生業や生活を保護するものではない。 しかし、その生活・ 生業を営んでいく中で結果として形成された景観地を保護対象とすることになっている 。 この制度の中で「どのような」景観を「どのように」選ぶのか重要となる。 「どのような」の部分については、選定基準を設けている。地域がそれを文化的景観 であると考えれば、どのような景観でも保護対象になるとは考えられるが、 やはり地元の中で合意を得ているということが重要となり、それを重要文化的景観 選定基準という形である程度明らかにしている。 まずは、 選定基準の第一項で「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の 風土により形成された次に掲げる景観地のうち我が国民の基盤的な生活又は生業の 特色を示すもので典型的なもの又は独特のもの」と定められている。 これらのうち、 特に「基盤的な生活や生業の特色を示す典型的なもの又は独特な もの」について、具体的には次のものが選定基準になっている。 ①水田・畑地などの農耕に関する景観地 ②茅野・牧野などの採草・放牧に関する景観地 ③用材林・防災林などの森林の利用に関する景観地 ④養殖いかだ・海苔ひびなどの漁ろうに関する景観地 ⑤ため池・水路・港などの水の利用に関する景観地 ⑥鉱山・採石場・工場群などの採掘・製造に関する景観地 ⑦道・広場などの流通・往来に関する景観地 ⑧垣根・屋敷林などの居住に関する景観地 2)この地域は石の文化が生活に根付いている 比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した多くの歴史的な構造物が今も 残っている。これらは、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための堤防、獣害を 防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物などであり、高度な 技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた遺産である。さらには、 個人の家の庭や道には、石畳として使われたり、生活用水のための石造りのかわと など生活の一部に溶け込んでもいる。神社の狛犬、しし垣、石灯篭、家の基礎石、 車石など様々な形でも使われて来た。 古くは、多数存在する古墳にも縦横3メートル以上の一枚岩の石版が壁や天井に 使われている。古代から近世まで石の産地としてその生業として、日々の生活の 中にも、様々に姿を変え、関わってきた。 また、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があった ようで、八屋戸地区は守山石の産地で有名であったし、木戸地区も石の産地と しても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」には名産の一つに木戸石が出ている。 コンクリートなどの普及で石材としての使われる範囲は狭まってはいるが、石の 持つ温かさは、我々にとっても貴重な資源である。ここで、文献などから石や石工 など石に関することに、の様子などを少し見て行きたい。 「旧志賀町域の石工たち」の記述より、 明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」には、県内の各町村における 農・工・商の軒数や特産物などが記録されている。ただ、「滋賀県物産誌」の記述は、 滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではない。 「滋賀県物産誌」の石工に関する記述の中で特筆すべきは、旧志賀町周辺の状況 である。この地域では「木戸村」の項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが 挙げられているなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。 木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比率も高く、明治時代初めに おける滋賀県の石工の分布状況として、この地域が特筆されるべき状況であった。 江戸時代の石造物の刻銘等の資料では、その中で比較的よく知られている資料と ・「雲根志」などを著した木内石亭が郷里の大津市幸神社に、文化二年(1805)に 奉納した石燈籠の「荒川村石工今井丈左衛門」という刻銘。、、、」ともある。 しかし、重要文化的景観の選定に向けては、以下の三つが必要で有る。 ・地元の人がどうしようとするのかの想いと位置付けを明確にする ・その位置付けを研究者が明確にする ・景観法に沿ったまとめ(大津市) この選定の活動は、始まったばかりのようであり、この三つの要件をキチンと 満足させられる体制作りが今後重要となっていくようだ。 2.日本遺産とは、 「日本遺産」は各地に点在する有形・無形の文化財を、地域的なつながりや時代的な 特徴ごとにまとめ、その魅力を国内外に発信していこうと、文化庁が今年度新たに 設けた。第1回の認定を目指して83件の申請があり、審査の結果、18件が 選ばれた。 このうち、水戸市と栃木県足利市、岡山県備前市、それに大分県日田市が合同で申請 した「近世日本の教育遺産群」は、水戸藩の藩校だった「旧弘道館」や、国内で現存 する最古の学校とされる「足利学校跡」などが含まれていて、武士だけでなく、庶民 も対象にした学校の普及が高い教育水準を支え、日本の近代化の原動力になった としている。 また、織田信長が発展させた岐阜城の城下町や長良川の鵜飼の観覧など、岐阜市一帯の 景観や文化は、「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町として認定された。 さらに、石川県能登地方の「キリコ祭り」は、巨大な灯籠が町を練り歩く伝統行事で、 夏になるとおよそ200の地区で行われるという。 「日本遺産」に認定された18件には、文化庁がガイドの育成や外国語のパンフレット の作成などにかかる費用を補助することにしていて、観光客の増加や地域の活性化を 支援していく。 申請をしてもらうにあたり、文化庁は一つの自治体で完結する「地域型」と各地の遺産 をひとまとまりにする各地の遺産をひとまとまりにする「ネットワーク型」の2つの タイプを想定した。「日本一危ない国宝鑑賞」として認定された鳥取県三朝町の申請 は地域型。水戸市、栃木県足利市、岡山県備前市、大分県日田市の4市が共同 で申請した「近世日本の教育遺産群」はネットワーク型にあたり、水戸藩校だった 「旧弘道館」や、日本最古の高等教育機関とされる足利学校跡、庶民教育の場だった 旧閑谷学校、私塾の咸宜園跡で構成される。 滋賀の日本遺産認定 滋賀県は提案した7件から「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」 が認定を受けた。湧き水を家に引き込む「川端(かばた)」など水と生活が 調和した景観や、いかだ乗りを川の魔物から守るシコブチ信仰などの宗教、 ふなずしに代表される食など「水の文化」の深さをアピールした。 文化庁は、「びわ湖の水と人々が織りなす文化」を認定した。 滋賀県からは、びわ湖の水と人々が織りなす文化を集めた「琵琶湖とその水辺 景観ー祈りと暮らしの水遺産」を認定した。具体的には、 びわ湖に面する県内6つの市にある、 ・国宝に指定された寺院 ・国の重要文化的景観に選定された近江八幡市の水郷 ・大津市の延暦寺は、比叡山から臨むびわ湖を最澄が理想郷とたたえて 建立したとされている。 そのストーリーの概要 穢れを除き、病を癒すものとして祀られてきた水。仏教の普及とともに東方 にあっては、瑠璃色に輝く「水の浄土」の教主・薬師如来が広く信仰されてきた。 琵琶湖では「水の浄土」を臨んで多くの寺社が建立され、今日も多くの人々を 惹きつけている。また、暮らしの中には、山から水を引いた古式水道や湧き水 を使いながら汚さないルールが伝わっている。湖辺の集落や湖中の島では、 米と魚を活用した鮒ずしなどの独自の食文化やエリなどの漁法が育まれた。 多くの生き物を育む水郷や水辺の景観は、芸術や庭園に取り上げられてきたが 近年では、水と人の営みが調和した文化的景観として多くの現代人をひきつけている。 ここには、日本人の高度な「水の文化」の歴史が集積されている。 個人的に気になる日本遺産として、福井県(小浜市,若狭町)がある。 テーマは「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群~御食国若狭と鯖街道」 ・ストーリーの概要 若狭は,古代から「御食国(みけつくに)」として塩や海産物など豊富な 食材を都に運び、都の食文化を支えてきた地である。 湖西もその交通要路としてその役割が大きい。 大陸からつながる海の道と都へとつながる陸の道が結節する最大の拠点 となった地であり、古代から続く往来の歴史の中で、街道沿いには港、城下町、 宿場町が栄え、また往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化が街道沿い から農漁村にまで広く伝播し独自の発展を遂げた。 近年「鯖街道」と呼ばれるこの街道群沿いには、往時の賑わいを伝える町並み とともに豊かな自然や受け継がれてきた食や祭礼など様々な文化が今も 息づいている。 湖西のこの地域は小浜や若狭と深いつながりがあり、また多くの渡来人が小浜 などからここを通過して様々な文化や生活の技術を伝えたのであろう。 3.プロジェクト未来遺産 日本ユネスコ協会連盟が新しいプロジェクトを始動した。 その名も「未来遺産運動」。 http://www.unesco.or.jp/mirai/ 「100年後の子どもたちの為にできることって何だろう?」 その答えのひとつとして、ユネスコが新たに手がける「未来遺産運動」は、 地域文化や自然遺産を未来へ伝えていこうとする活動を「プロジェクト未来遺産」 として登録、それを推進する地域を支援できるような仕組みを作るもの。 プロジェクト未来遺産は公募で選び、応募条件は「原則として2年以上の活動実績 があること」「非営利団体であること」「地域の人々が主体となって運営して いること」の3つだという。 さて、ユネスコというと、世界遺産をイメージする人も多いはず。世界遺産との 違いは、世界遺産がものを指定するのに対し、未来遺産運動ではそれを守る人々 を応援しようという点にあるということだ。 ちなみに、2009年から2011年 プロジェクト未来遺産の重点テーマは、 「危機にある遺産」と「生物多様性」。プロジェクト未来遺産に登録されると、 総額500万円の助成金が想定され、専門家の派遣などの支援が得られるという。 となれば地域が元気になり、日本全体ももっと元気になるというもの。 ぜひとも奮って応募してほしい。 この未来遺産運動は、ほかにも子どもたちがふるさとの伝統と文化の素晴らしさ を学び、紹介する「私のまちのたからものコンテスト」、社会全体でこうした活動 を支えていくための「未来遺産募金」も行うという。 ありそうでなかった運動。明るい未来を作ろうという、人々の意欲を活性化する いいカンフル剤となるだろう。 滋賀では、残念ながらまだ1件が登録されたのみである。比良山系の自然と古墳や 城跡のような文化資産の多く残る滋賀では、まだまだ多いとはいえない。 地域の人々が自分の住んでいる場所、生まれ育った地域を再認識する事で、行政に 頼らない新しい「結い」の世界を創って欲しいものである。 滋賀で選定されたのは、湖国の原風景権座(ごんざ)水郷を守り育てる活動 (日本の里百選)である。 団体名:権座・水郷を守り育てる会 場所:滋賀県近江八幡市 琵琶湖の内湖である西の湖・長命寺川辺周辺は、日本で唯一とされる「権座」と 呼ばれる内湖にある湖中水田の風景などが、文化財保護法に基づく「重要文化的景観」 に選定された。またラムサール条約湿地として西の湖・長命寺川が琵琶湖の拡大 として登録され、「日本の里百選」にも選ばれた。当会では水郷景観の保全活用 を推進するとともに、純米吟醸酒「權座」の生産・販売、魚のゆりかご水田の設置、 魚道設置、親子陶芸教室や田植え・稲刈り体験、収穫感謝祭や権座・水郷コンサート の開催など、持続可能な地域農業経営と景観保全活動を展開している。 私も2回ほど地域支援の関係で権座を訪ねたが、地域全体の活動として根付いている事 を感じた。しかし、限られた人数で、色々な催しをしたり、保全作業をすることは かなり厳しいようである。 昔は、内湖にも同様の水田があったそうであるが、埋め立てなどで旧来の姿は、失われ て来ている。これらを踏まえ、今後も継続的活動をどう進めて行くかが課題でもある。 これらの活動はいずれも、その地域に住む人々が永年にわたり育てて来たものである。 旧志賀町には、文化的景観で目指す「石の文化」が生活の場の彼方此方に見られるが、 まだ地域の人々がそれを充分認識しているとは言い難い。また、比良山系をその 母体とした湧水や山からの生活用水活用などの「水の里」でもある。「石と水」 この当たり前の情景を更に見える化し、その遺産を次の時代へ伝えて欲しいものだ。 |
2016年1月30日土曜日
比良の「石と水の文化」これを見える化する
楽浪(さざなみ)の里、司馬遼太郎より
楽浪(さざなみ)の志賀と言う言葉を聞いたのは、 司馬遼太郎の「街道をゆくの第一巻」であった。 私自身も、此処に移り住んで、まだ、20年も過ぎていない。 しかし、琵琶湖の畔で、比良山の麓で、その自然と人との 温もりを感じてきた。 司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から始めましょう、 と言っている。近江には、かなりの思い入れがあるのだろう。 その一文から少し、志賀を感じてもらおう。 ーーー 近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われる ようになった。国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。 もっとも、遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和に近い、 つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたりをさした時代もあるらしい。 大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして 自動車の走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の 大和人の距離感覚を心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。 、、、、、 我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。 叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の 道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という 感じがする。古くは、この湖南地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。 いまでは、滋賀郡という。 、、、、、 この湖岸の古称、志賀、に、、、、 車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、 真野を過ぎ、さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押し かぶさってきて、車が湖に押しやられそうなあやうさを覚える。 大津を北に走ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、 気象の上では北国の圏内に入る。 小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、 北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、 その赤は、須田国太郎の色調のようであった。 ーーーーー また、白洲正子も、近江については、「かくれ里」など、数冊の本を 書いている。その中でも、「近江山河抄」では、この志賀周辺を 「比良の暮雪」の章で、更に、詳細に書き綴っている。 同様に、その一文から、もう少しこの周辺を感じてもらおう。 ーーーー 今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、 その裾野に重なるようにして、比良山が姿を現すと、景色は一変する。 比叡山を陽の山とすれば、これは、陰の山と呼ぶべきであろう。 ヒラは古く牧、平とも書き、頂上が平らなところから出た名称 と聞くが、それだけではなかったように思う。、、、、、、 が、古墳が多いと言うことは、一方から言えば早くから文化が開けた ことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。、、、、、、 小野神社は二つあって、一つは道風、一つは?を祀っている。 国道沿いの道風神社を手前に左に入ると、そのとっつきの山懐の 岡の上に、大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐白山 古墳は、この岡の尾根続きにあり、老松の根元に石室が露出し、 大きな石がるいるいと重なっているのは、みるからに凄まじい 風景である。が、そこからの眺めはすばらしく、真野の入り江 を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から湖東の連山、湖水に 浮かぶ沖つ島山も見え、目近に比叡山がそびえる景色は、思わず 嘆声を発してしまう。 ーーーー このような景観と自然の営みは、多くの人を誘うのであろうか? 画家、陶芸家の方々が、居住して来ている。 創作への意欲と同時に、心の安らぎが得られると、懇意にして いる画家の方も、言っている。 更に、湖岸での静かなひと時と母なる琵琶湖の水に、誘われるのか、 多くの保養所が軒を連ねている。小奇麗なカフェとヨット遊び、 現代と自然が上手くマッチしながら、此処では、静かな時を 刻んでいる。
司馬遼太郎の「街道をゆく」にも、この北小松の風情が描かれている。
ーーー
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。
ーーーー
確かに、注意して、少し回りを見渡せば、他のところと違い、石積み
の堀が結構多い。漁港の周辺も、石積みで出来ている。
小さな砂浜に下りてみる。
少し朽ちた杭に藻が幾重にも、絡まり、数10匹の若鮎たちがその
間を縫うように、泳いでいる。五月の風が吹き、遠くの沖島のざわめきが
此処まで、聞こえて来るような静かさ。
静寂の中でのひと時の安らぎ、まだ、出発して、10km前後だというに
既に、疲れがじわりと身体を這い上がってくるようだ。
日差しが熱く身体を突き抜けていく。
道路も、少し狭まばり、車が横をすり抜けていく。
何か背後から黒い刃物が、己の身体を突き刺すのでは、恐怖を感じる。
先に「ようこそ、高島へ」の看板、道路もかなり広くなり、まるで、
看板が手招きしている。湖からの風も柔らかく頬を撫ぜ、きらきらと
した湖面が、「さあ、まだその一歩を踏み出したばかりじゃないの」
と言っている。
横を走っていた湖西線も、別れを惜しむように、そこから山懐の
トンネルに吸い込まれ、消えていく。
権現崎の鳥居が見えて来た。
白鬚神社が湖岸の道を大きく湾曲した先にある。
昔は、比良の大和太と呼ばれていたとの事。
この周辺も、我が家の近くと同じで、多くの古墳群がある。
また、近くには、苔むした中に、48体の阿弥陀如来の石仏がある。
昔、来た事があるが、寂寞とした中に、時の流れを感じたものである。
白洲正子も、近江山河抄、の中で、
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する以上に
近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて
南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要したと思うが、
初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せずにはいられない。
ーーー
安曇川の手前を左手に、周辺より少し高い武奈ヶ岳に向かっていくと
「日本の棚田百選」に選ばれた畑地区の広く広がる棚田や
これも、「日本の滝百選」に選ばれた八ツ淵(やつぶち)の滝
、その名前のとおり、8つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、
障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、
七遍返しの滝があるのだが、その道を横目に見て、安曇川に
向かい、ひたすらに歩く。
格子戸のある軒先を、チョット古びた酒屋の横を、行き交う人は、
ほとんどいない。数台の車が、静かに横をすり抜けていく。
既に、陽は真上にあり、私の小さな影が、その歩みとともに、
ゆっくりと付いてくる。
安曇川の流れを遡り、のどかな平野をゆっくりと西へと進む。
今の朽木は、温泉もあり、道の駅もあり、観光客が押し寄せて来るので、
やや騒がしいものの、行く道の森と林、そして渓谷は、多くの旅人
が見た景色とかわらないのであろう。
少し先の畑では、何やら数人の人が、のどかにこちらを見ている。
道端には、小さな蓮華、黄色く色付き始めた野菊、がこちらを見ている。
春の長閑さを現す言葉に、春風駘蕩、と言うのがあるそうだが、今まさに
その風情を味わいながら、ゆっくりと、その歩みを進める。
朽木は、京都大原から途中峠を通り、花折峠に続いている。
社会の波は押し寄せてくるもの、ここを比叡山の回峰行者と比良山の
回峰行者が、この世に別れを告げる、として、その荒行により、
即身成仏をなし得ようとした様に、いまでも、その気配を感じる。
まだ、残る日本の原風景ではあるが、多くの観光客は、車と言う
道具で、忙しく道の駅により、先を急ぐのみ。
何かを忘れているのであるが、それも分からないままなのであろう。
ーーー
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。
ーーーー
確かに、注意して、少し回りを見渡せば、他のところと違い、石積み
の堀が結構多い。漁港の周辺も、石積みで出来ている。
小さな砂浜に下りてみる。
少し朽ちた杭に藻が幾重にも、絡まり、数10匹の若鮎たちがその
間を縫うように、泳いでいる。五月の風が吹き、遠くの沖島のざわめきが
此処まで、聞こえて来るような静かさ。
静寂の中でのひと時の安らぎ、まだ、出発して、10km前後だというに
既に、疲れがじわりと身体を這い上がってくるようだ。
日差しが熱く身体を突き抜けていく。
道路も、少し狭まばり、車が横をすり抜けていく。
何か背後から黒い刃物が、己の身体を突き刺すのでは、恐怖を感じる。
先に「ようこそ、高島へ」の看板、道路もかなり広くなり、まるで、
看板が手招きしている。湖からの風も柔らかく頬を撫ぜ、きらきらと
した湖面が、「さあ、まだその一歩を踏み出したばかりじゃないの」
と言っている。
横を走っていた湖西線も、別れを惜しむように、そこから山懐の
トンネルに吸い込まれ、消えていく。
権現崎の鳥居が見えて来た。
白鬚神社が湖岸の道を大きく湾曲した先にある。
昔は、比良の大和太と呼ばれていたとの事。
この周辺も、我が家の近くと同じで、多くの古墳群がある。
また、近くには、苔むした中に、48体の阿弥陀如来の石仏がある。
昔、来た事があるが、寂寞とした中に、時の流れを感じたものである。
白洲正子も、近江山河抄、の中で、
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する以上に
近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて
南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要したと思うが、
初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せずにはいられない。
ーーー
安曇川の手前を左手に、周辺より少し高い武奈ヶ岳に向かっていくと
「日本の棚田百選」に選ばれた畑地区の広く広がる棚田や
これも、「日本の滝百選」に選ばれた八ツ淵(やつぶち)の滝
、その名前のとおり、8つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、
障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、
七遍返しの滝があるのだが、その道を横目に見て、安曇川に
向かい、ひたすらに歩く。
格子戸のある軒先を、チョット古びた酒屋の横を、行き交う人は、
ほとんどいない。数台の車が、静かに横をすり抜けていく。
既に、陽は真上にあり、私の小さな影が、その歩みとともに、
ゆっくりと付いてくる。
安曇川の流れを遡り、のどかな平野をゆっくりと西へと進む。
今の朽木は、温泉もあり、道の駅もあり、観光客が押し寄せて来るので、
やや騒がしいものの、行く道の森と林、そして渓谷は、多くの旅人
が見た景色とかわらないのであろう。
少し先の畑では、何やら数人の人が、のどかにこちらを見ている。
道端には、小さな蓮華、黄色く色付き始めた野菊、がこちらを見ている。
春の長閑さを現す言葉に、春風駘蕩、と言うのがあるそうだが、今まさに
その風情を味わいながら、ゆっくりと、その歩みを進める。
朽木は、京都大原から途中峠を通り、花折峠に続いている。
社会の波は押し寄せてくるもの、ここを比叡山の回峰行者と比良山の
回峰行者が、この世に別れを告げる、として、その荒行により、
即身成仏をなし得ようとした様に、いまでも、その気配を感じる。
まだ、残る日本の原風景ではあるが、多くの観光客は、車と言う
道具で、忙しく道の駅により、先を急ぐのみ。
何かを忘れているのであるが、それも分からないままなのであろう。
比良の自然
季節をよく現しているのに、二十四節気の考え方がある。
元々、二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、
季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区分手法の1つで、1年を
12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前が
つけられている。
なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、元々二十四節気は、
中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もある
との事。そのため、それを補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、
半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、
日本の旧暦となっている。
二十四節気の名称は、発明された当時の物がほぼそのまま使われている。
節気名称は実際の気温よりは太陽の高度を反映したものとなっている。このため、
日本では独自に雑節が設けられたり、本朝七十二候が作られたりした。
名称の由来を種類別に分けると以下のようになるだろう。
昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の中間点) - 春分・夏至・秋分・冬至
昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の始期) - 立春・立夏・立秋・立冬
気温 - 小暑・大暑・処暑・小寒・大寒
気象 - 雨水・白露・寒露・霜降・小雪・大雪
物候 - 啓蟄・清明・小満
農事 - 穀雨・芒種
しかし、冬の終わりから周りの変化を見ていると、特に 雨水、啓蟄、小満、
穀雨、芒種には納得感がある。草花の成長、農作業の動きが何と無く
伝わってくるからだ。冷雨が少しづつ暖かさを増し、虫や人々に次への活動
の源となっていくのだ。
東北を旅した柳田國男の文章からは、それがよく伝わってくる。
「ようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも
超越する。例えば、奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、
風は柔らかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日
が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一斉に花を開き、その花盛りが
一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、
袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇もない
うちに艶麗な野山の姿は次第にしだいに成長して、白くどんよりした
薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに啼いて
水田苗代の支度を急がせる。」(雪国の春より)
さらに、山から流れ出てくる感のある水と拓けた大地を見ると、あらためて、
水への尊敬の念が芽生え出てくる。唐木順三、柳田國男、白洲正子、いずれも、
日本の原風景を求める中では、水に対する関心、水への尊敬の念は、
「日本文化の一つの特色を成しているようだ」と言う。
水は、生活条件の1つではあるが、同時に日本では、それが、文化や芸術の条件
でもあった、と言っている。
山水という言葉が直ちに風景を意味するということは、日本人の自然観、
風景観を物語ってもいるだろう。水墨画、墨絵には水は殆どつきものといってよい。
寒山詩の中に以下の一句がある。
「尋究無源水、源窮水不窮」
人は、結果から原因を探り、根本原因まで遡る。
水源は、探求され、解明されたが、水は相変わらず滔滔と湧き出ている。私の周辺でも
そのような光景が散見される。
<唐木順三より>
私の好きな寒山詩の中の一句は次のようなものである。「尋究無源水、源窮水不窮
(じんきゅうむげんすい、げんきゅうすいふきゅう)」人は水源を訪ね求める。
下流から遡って、次第に上流に上る。そして、遂に水源を探し出す。
それはあたかも科学の研究方法に似ている。
結果にはならないところの、いわば第一の原因を探り、原因の原因を探り、原因では
あるが決して結果にはならないところの、いわば第一の原因、根本原因にまで遡るだろ
う。
それが寒山の第一句、「尋究無源水」の具体的また人性的意味と言ってよい。
人性的と言ったのは、人は窮極原因を探し出すまでは不安だが、それを窮め尽くせば
安心してそこに腰おろすという習性を持っているからである。
人は原因不明の出来事に対しては不安であるが、これこれしかじかの原因によって
この結果が起こったということが判明すれば、そこでひと安心する。
科学の進歩とは原因解明の進歩と言ってよい。例えば癌の発生原因はまだ不明である
から、癌は治り難く、したがってこころを不安にしている。癌の原因が判明すれば
治療の方法も可能になる。その原因を探求することに現代医学は最大の努力
傾けながら、いまだにそこまで進歩していない。しかしいつの日かその原因は
探し当てられるだろう。それもまた「源窮水不窮」のケースである。
(唐木順三『寒山詩』から)
源はわかるが、水は止まることはない。
源はさらなる源になる。「無の場所」において情意で描き、空を背景にそれを観る。
先ほどの柳田國男も「雪国の春」の中で、さらに以下の様な想いを語っている。
幸い、私の周辺は、まだその自然の息ぶきが少しながら残っている。
有難い事である。
「要するに日本人の考え方を1種の明治式に統一せんとするが非なる如く
海山の景色を型に嵌めて、片寄った鑑賞を強いるのはよろしくない。
何でもこれは自由なる感動に放任して、心に適し時代に相応した新たな
美しさを発見せしむに限ると思う。島こそ小さいが日本の天然は、色彩
豊かにして最も変化に富んでいる。狭隘な都会人の芸術観をもって指導
しようとすれば、その結果は選を洩れたる地方の生活を無聊にするのみ
ならず、かねては不必要に我々の祖先の国土を愛した心持を不明なら
しめる。いわゆる雅俗の弁の如きは、いわば、同胞を離間する悪戯
であった。
意味なき因習や法則を捨てたら、今はまだ海山の隠れた美しさが、蘇る
望みがある。つとめて旅行の手続きを平易ならしむるとともに、若くして
真率なる旅人をして、いま少し自然を読む術を解せしめたい。人の国土
に対する営みも本来は咲き水の流るると同じく、おのずから向かうべき
一節の路があった。、、、、、緑一様なる内海の島々を切り開いて、
水を湛え田を作り蓮華草を播き、菜種、麦などを畠に作れば、山の土
は顕れて松の間からツツジが紅く、その麦やがて色づく時は、明るい
枇杷色が潮に映じて揺曳する。ひばりやキジが林の外に遊び、海
を隔てて船中の人が、その声を聞くようにな日が多くなる。」
人への便利さは重要であるが、このような情景との共存はありえないので
あろうか。
元々、二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、
季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区分手法の1つで、1年を
12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前が
つけられている。
なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、元々二十四節気は、
中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もある
との事。そのため、それを補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、
半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、
日本の旧暦となっている。
二十四節気の名称は、発明された当時の物がほぼそのまま使われている。
節気名称は実際の気温よりは太陽の高度を反映したものとなっている。このため、
日本では独自に雑節が設けられたり、本朝七十二候が作られたりした。
名称の由来を種類別に分けると以下のようになるだろう。
昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の中間点) - 春分・夏至・秋分・冬至
昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の始期) - 立春・立夏・立秋・立冬
気温 - 小暑・大暑・処暑・小寒・大寒
気象 - 雨水・白露・寒露・霜降・小雪・大雪
物候 - 啓蟄・清明・小満
農事 - 穀雨・芒種
しかし、冬の終わりから周りの変化を見ていると、特に 雨水、啓蟄、小満、
穀雨、芒種には納得感がある。草花の成長、農作業の動きが何と無く
伝わってくるからだ。冷雨が少しづつ暖かさを増し、虫や人々に次への活動
の源となっていくのだ。
東北を旅した柳田國男の文章からは、それがよく伝わってくる。
「ようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも
超越する。例えば、奥羽の所々の田舎では、碧く輝いた大空の下に、
風は柔らかく水の流れは音高く、家にはじっとしておられぬような日
が少し続くと、ありとあらゆる庭の木が一斉に花を開き、その花盛りが
一どきに押し寄せてくる。春の労作はこの快い天地の中で始まるので、
袖を垂れて遊ぶような日とては一日もなく、惜しいと感歎している暇もない
うちに艶麗な野山の姿は次第にしだいに成長して、白くどんよりした
薄霞の中に、桑は伸び麦は熟していき、やがて閑古鳥がしきりに啼いて
水田苗代の支度を急がせる。」(雪国の春より)
さらに、山から流れ出てくる感のある水と拓けた大地を見ると、あらためて、
水への尊敬の念が芽生え出てくる。唐木順三、柳田國男、白洲正子、いずれも、
日本の原風景を求める中では、水に対する関心、水への尊敬の念は、
「日本文化の一つの特色を成しているようだ」と言う。
水は、生活条件の1つではあるが、同時に日本では、それが、文化や芸術の条件
でもあった、と言っている。
山水という言葉が直ちに風景を意味するということは、日本人の自然観、
風景観を物語ってもいるだろう。水墨画、墨絵には水は殆どつきものといってよい。
寒山詩の中に以下の一句がある。
「尋究無源水、源窮水不窮」
人は、結果から原因を探り、根本原因まで遡る。
水源は、探求され、解明されたが、水は相変わらず滔滔と湧き出ている。私の周辺でも
そのような光景が散見される。
<唐木順三より>
私の好きな寒山詩の中の一句は次のようなものである。「尋究無源水、源窮水不窮
(じんきゅうむげんすい、げんきゅうすいふきゅう)」人は水源を訪ね求める。
下流から遡って、次第に上流に上る。そして、遂に水源を探し出す。
それはあたかも科学の研究方法に似ている。
結果にはならないところの、いわば第一の原因を探り、原因の原因を探り、原因では
あるが決して結果にはならないところの、いわば第一の原因、根本原因にまで遡るだろ
う。
それが寒山の第一句、「尋究無源水」の具体的また人性的意味と言ってよい。
人性的と言ったのは、人は窮極原因を探し出すまでは不安だが、それを窮め尽くせば
安心してそこに腰おろすという習性を持っているからである。
人は原因不明の出来事に対しては不安であるが、これこれしかじかの原因によって
この結果が起こったということが判明すれば、そこでひと安心する。
科学の進歩とは原因解明の進歩と言ってよい。例えば癌の発生原因はまだ不明である
から、癌は治り難く、したがってこころを不安にしている。癌の原因が判明すれば
治療の方法も可能になる。その原因を探求することに現代医学は最大の努力
傾けながら、いまだにそこまで進歩していない。しかしいつの日かその原因は
探し当てられるだろう。それもまた「源窮水不窮」のケースである。
(唐木順三『寒山詩』から)
源はわかるが、水は止まることはない。
源はさらなる源になる。「無の場所」において情意で描き、空を背景にそれを観る。
先ほどの柳田國男も「雪国の春」の中で、さらに以下の様な想いを語っている。
幸い、私の周辺は、まだその自然の息ぶきが少しながら残っている。
有難い事である。
「要するに日本人の考え方を1種の明治式に統一せんとするが非なる如く
海山の景色を型に嵌めて、片寄った鑑賞を強いるのはよろしくない。
何でもこれは自由なる感動に放任して、心に適し時代に相応した新たな
美しさを発見せしむに限ると思う。島こそ小さいが日本の天然は、色彩
豊かにして最も変化に富んでいる。狭隘な都会人の芸術観をもって指導
しようとすれば、その結果は選を洩れたる地方の生活を無聊にするのみ
ならず、かねては不必要に我々の祖先の国土を愛した心持を不明なら
しめる。いわゆる雅俗の弁の如きは、いわば、同胞を離間する悪戯
であった。
意味なき因習や法則を捨てたら、今はまだ海山の隠れた美しさが、蘇る
望みがある。つとめて旅行の手続きを平易ならしむるとともに、若くして
真率なる旅人をして、いま少し自然を読む術を解せしめたい。人の国土
に対する営みも本来は咲き水の流るると同じく、おのずから向かうべき
一節の路があった。、、、、、緑一様なる内海の島々を切り開いて、
水を湛え田を作り蓮華草を播き、菜種、麦などを畠に作れば、山の土
は顕れて松の間からツツジが紅く、その麦やがて色づく時は、明るい
枇杷色が潮に映じて揺曳する。ひばりやキジが林の外に遊び、海
を隔てて船中の人が、その声を聞くようにな日が多くなる。」
人への便利さは重要であるが、このような情景との共存はありえないので
あろうか。
比良の石、石仏
旧志賀町は、以前風の街と描いたが、石の街でもある。神社の狛犬、石灯篭、家の基礎 石、 車石など様々な形で使われて来た。小野にある古墳には縦横3メートル以上の石版が 壁や天井に使われている。古代から近世まで石の産地として頑張ってきている。 例えば、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴があったよ うで、 八屋戸も守山石の産地でも有名であった。此処で、文献などから志賀地域の様子を 概観していく。 4.車道とは 昭和6年から8年にかけて京津国道改良工事が施工された。逢坂峠切り下げ工事中(昭 和6年5月)、在来道路下から車石列が出土している。この時、目撃した人は、「二列 の敷石の幅は一間ほどある、昔の車は大きく一間位の幅があった」と証言している。ま た、また同年12月頃、日ノ岡峠道の壁面に「旧舗石」とはめ込み、二列の車石を復元 している。その中心軌道幅は136、7cmある。車石列が出土した頃に復元されてい るから、かつての車道の幅に正しく復元されていると考えるのが妥当のように思われる 。が、確証がない。昭和9年に、出土車石についての詳しい報告が出されている(『滋 賀県史蹟調査報告』第6冊)が、石の大きさや、えぐられた溝幅、溝の深さの記録はあ るものの軌道幅の計測が欠落している。 文化年間の車石敷設工事の仕様書は、古文書(比留田家文書や横木村文書)に残されて いる。それによると、牛道は、3尺(90cm)とってあり、その両脇に、2尺5寸の 車石を据える溝を掘るよう記されている。牛道よりに、標準大つまり二尺の車石を据え 、真ん中に車輪が通ると考えると、軌道幅は4尺5寸(135cm)ほどになる。筆者は、 この5尺が軌道幅であっただろうと考えるが、さらに検討の余地がある。 5.車石の石材 現地調査の結果、東海道でよく見られるのは、第1に木戸石(滋賀県志賀町)であり、 第2に、藤尾石(大津市藤尾)であり、次いで少数の白川石(京都市北白川)であった 。他に、チャート製のものが見られる。 (1)木戸石(比良花崗岩) 木戸石は、白川石と同じく、色の白い黒雲母花崗岩である。白川石に比べると、粗目で 黒雲母の散らばり具合や色合いに特徴があり、見慣れてくると比較的簡単に判別するこ とができる。また、木戸石は、白川石に比べ早く赤いさびができやすいように思われる 。木戸石といっても北小松、近江舞子、南小松、比良から志賀にかけて比良山系の花崗 岩(山陽帯比良花崗岩)で、谷によって石の質はちがっている。 つまり、比良付近には、以上のような粗目の黒雲母花崗岩だけでなく、細粒、中粒黒雲 母花崗岩や石英ひん岩(石質の緻密な青石)もみられ、いずれも車石の石材として使用 されている。 (2)藤尾石 藤尾石は、衣笠山から長等山、藤尾にいたる大岩脈から産出する石英斑岩であり、細か い石基や長石の地に大きな石英の粒が斑状にみられる。岩質が硬く、敷石や石垣石とし てよく使用される石である。われたところをちょっとみると、ざらめ状になっており、 褐色や灰色・青・緑などの地に石英の斑点がみられ、判別しやすい。花の模様に見える ことから「花紋石」の俗称がある。 この石製の車石は、三条街道の東、横木~大谷にかけて、とくに横木付近でよく見られ る。これは、この地の付近に藤尾石の採石場があったことから当然のことと思われる。 (3)白川石 それでは、これまで考えられていた白川石製の車石はどうだろうか。 白川石は、比叡山から大文字山の間で産出する花崗岩(山陽帯比叡花崗岩)である。一 般的に中目の黒雲母花崗岩で、鉄分が少なくあまり「さび」が出ないといわれる。また 、すべての白川石がそうではないが、石英や長石、黒雲母の他に副成分として、シャー プペンシルの芯のような長柱状の褐簾石を含むことがあり、それが判別の決め手になる と言われている。つまり、京都近辺で褐簾石が含まれていればまず白川石と決めて間違 いないという(京都滋賀自然観察会編『総合ガイド⑧比叡山・大原・坂本』)。 (4)その他―チャート 京都周辺には、全国的にもチャートが多いと言われる。チャートは、河原でよく見られ る。触るとなめらかで、息をかけたり水にぬれたりするとつやが出て美しい。鉄よりも 固く、鉄片で打ち続けると、削られた鉄の小片が摩擦熱で瞬間的に燃える。火打ち石に よる火起こしの原理である。当然、加工には向かない。出っ張りを少しずつうちかいて 加工するぐらいである。 したがって、チャートを石材として使用したとは考えられないし、事実文献にも記され ていない。ただ、工事中、車道に岩盤があったり、所有石(ところあり石)あったりし たところは、それらの石を使用している。川の中を通ることになっていた四ノ宮河原な どでは、河原の硬いチャートが使われたであろうことは十分に考えられる。 このチャートの車石は、その硬さ故に外の花崗岩製、石英斑岩製の車石とちがい、溝が 浅いことが特徴である。深くて3cmほどである。また、他の車石の溝に細かい筋がみ られるのとはちがい、一見して筋が見られない。指で溝面をさわって感じるぐらいであ る。 3.滋賀郡北部(旧志賀町域)の石工たち 明治十三年(1880)にまとめられた『滋賀県物産誌』に は、県内の各町村における農・工・商の軒数や特産物など が記録されている?。明治時代の資料であるとはいえ、産 業革命によって生産流通体制に大きな変化が生じる以前の 記録であり、江戸時代後期の様相を類推する手がかりにな るものである。ただし、『滋賀県物産誌』の記述は、たと えば長浜町のような戸数の多い町については「百般ノ工業 ヲナセリ」と「工」の業種の内訳がまったく不明な場合も あって、滋賀県内の石工を網羅的に記録している訳ではな い点には留意しておく必要がある。 『滋賀県物産誌』の石工に関する記述の中で特筆すべき は、滋賀郡北部の状況である。この地域では「木戸村」の 項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが挙げられてい るなど、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。 木戸村・北比良村では戸数の中において「工」の占める比 率も高く、明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況 として、この地域が特筆されるべき状況であったことは疑 いない。 江戸時代の石造物の刻銘等の資料を見てみても、当該地 域の優位性を窺い知ることができる。管見に触れた資料を 表1に記したが、その中で比較的よく知られている資料と して、『雲根志』などを著した木内石亭が郷里の大津市幸 神社に、文化二年(1805)に奉納した石燈籠の「荒川村石 工 今井丈左衛門」という刻銘がある。 滋賀郡から琵琶湖を隔てた湖東地域においても、東近江 市五個荘川並町の観音正寺への登山口に建てられている常 夜燈に「石工 南比良 孫吉」という刻銘があり、「享保 二十乙卯歳(1735)正月」という紀年は、近江における石 工銘資料としては、比較的早い段階のものである。この 「孫吉」は、享保十五年(1730)に八幡堀の石垣が築き直 された際の施工業者としても「石屋比良ノ孫吉」として名 前が見える?。また、『近江神崎郡志稿』には、寛政五年 (1793)に滋賀郡南比良村の「石や七右衛門」が、東近江 市五個荘金堂町の大城神社の石鳥居再建を請け負ったこと が記録されている?。 湖北地域でも、安永十年(1781)に「志賀郡荒河村 石 屋 嘉右衛門」が長浜市早崎所在の竹生島一の鳥居の注文 を受けたことが、竹生島宝厳寺文書から確認できる?。な お、居住地が明示されていない刻銘資料であるが、野洲市 三上山中腹の妙見宮跡地に残る文化六年(1809)建立の石 燈籠に刻銘のある「石工 志賀郡 嘉右衛門」や、大津市 建部大社の文政九年(1826)建立の石燈籠に刻銘された「石 工 嘉右衛門」も、同一人物もしくはその家系に連なる石 工である可能性がある。 また、明治時代に下る資料では、野洲市永原の朝鮮人街 道沿いにある「明治十三年(1880)九月」建立の大神宮常 夜燈に「製造人 西江州木戸村 仁科小兵ヱ」と刻銘され た事例などが挙げられる。 これらの資料から、少なくとも江戸時代中期以降には、 滋賀郡北部は石造物の製作において近江を代表する存在で あり、石鳥居のような大規模な製品を中心に、琵琶湖を隔 てた遠隔地の村々からも、この地域の石工に発注すること が多かったものと考えられるのである。 なお、江戸時代に東海道の京・大津間に敷設された車石 については、文化二年(1805)の工事に際して、主として 木戸石が使用され、これにかかわった人物として「南小松 村治郎吉」と「木戸村嘉左衛門」が連名で石運送に関する 請状を提出したことが紹介されている?。また、日野町大 窪に所在する南山王日枝神社には、豪商として著名な「京 都 中井良祐光武季子 中井正治右門橘武成」が寄進した 「文化十二年(1815)乙亥三月建」の石燈籠に「斯奇石所 出江州志賀郡南舩路村獲之以造 京都石工近江屋久兵衛」 と刻まれた例もあり、京都の石工が滋賀郡北部で石材を得 たケースがあったことが分かる。 以上のように、滋賀郡北部は「木戸石」に代表される良 質な花崗岩産地として、近世における石造物の一大産地だ ったのである?。 4.「石場」の石工とその周辺 江戸時代には松本村に含まれる存在であった「石場」の 石工については、筆者が以前に近江の近世石工について概 観した時点では、『近江輿地志略』の記事は知られている ものの、刻銘や文書資料によって具体的にその作例を確認 できる事例を未見であった?。しかしながら、近年刊行さ れた『石山寺の古建築』において、石山寺宝蔵の文化五年 (1808)建立板札に記された「石細工 石場住 小松屋久 助」と、石山寺境内の明治三十八年(1905)石碑にある「大 津市石場 鐫刻 奥村利三郎」という2例が紹介された?。 また、愛荘町史編纂事業にともなう文書資料調査の中で、 正徳三年(1713)に石場の石工に、石燈籠が発注された記 録が確認されている?。 これらの新出資料に刺激を受け、筆者が改めて大津市周 辺の石造物を調査してみたところ、草津市野路町所在の新 宮神社において、宝暦三年(1753)建立の石燈籠に「石場 作人市兵衛」と刻銘がある事例を確認できた。また、石 場に隣接する大津市松本に所在する平野神社の宝暦甲戌 年(1754)建立の石燈籠には「作人市兵衛」とあり、これ も同一人物である可能性が高いと考えられる。また、大き く時代は下るが、草津市新浜町龍宮神社の明治三十四年 (1901)の狛犬に「大ツ石場 石工石市」とあるのも、同 一系譜に属する石工であるのかもしれない。江戸時代には 対岸の草津市矢橋と結ぶ渡船場として賑わった石場の石工 の作例が、琵琶湖を隔てた草津市域において見られること は興味深い。 ところで、現在の大津警察署付近の打出浜に建てられて いた弘化二年(1845)建設の大常夜燈(通称「石場の常夜 燈」)は、現在はびわ湖ホール西のなぎさ公園内に移設さ れて残されている。この常夜燈の基壇部分には、発起人で ある「伴屋傳兵衛 船持中」をはじめ多くの人名等が刻ま れているが、その中に「石工棟梁 近江屋源兵衛 肝煎市 治郎」と製作に関わった石工の銘も読みとれる。石工の居 住地が明示されていないが、この明示されていないという 事実から、石場の地から遠くない場所に居住していた石工 であることが推定される。 実は、この「近江屋源兵衛」の居住地については、京都 市北野天満宮境内に建てられた「天保十四年(1843)癸卯 九月」銘の石燈籠に「大津石工 近江屋源兵衛」と刻まれ た資料によって、確認することができる?。「大津梅寿講」 が奉納したこの石燈籠には、講のメンバーと考えられる多 くの町人たちの名前が刻まれているが、その中にも「近江 屋源兵衛」の名前がみられる。『大津市志』に記されてい る安政元年(1854)の冥加金上納者の中に名前の見える「近 江屋源兵衛」も、おそらく同一人物と考えてよいのであろ う?。これらの資料から「近江屋源兵衛」は、大津に居住 する町人のひとりであったことが分かるのである。 石場の常夜燈の現在地から西へ約400mの地点に位置す る大津市指定文化財「小舟入の常夜燈」は、石場の常夜燈 よりも先行する文化五年(1808)の建立であるが、こちら には「石工 池田屋嘉七」銘が確認できる。この「池田屋 嘉七」については、これまで他の作例は知られておらず、 建立者が「京都恒◯藤講」であり、京都の町人も多く名前を 連ねていることから、地元の石工ではない可能性も考えら れたが、筆者が改めて周辺の寺社に存在する石造物の刻銘 を調査してみたところ、逢坂一丁目の若宮八幡神社境内の 文政七年(1824)建立の石燈籠や、木下町に所在する和田 神社の慶應二年(1866)の狛犬に「石工 嘉七」銘の類例 があり、これらの資料にも居住地の明示はないものの、近 隣に居住する石工であったと推定して間違いないと考える に至った。 以上のように、石場とその周辺には江戸時代に石工が居 住し、よく知られている「石場の常夜燈」や「小舟入の常 夜燈」は、近隣地域に居住する石工がその製作にあたった ものであることを確認することができた。 ところで、江戸時代の石場には瓦職人が居住しており、 その中には膳所藩御用達の瓦師であった「清水九太夫」も いたことが、大津市内やその周辺地域に残された瓦の刻銘 等によって確認されている?。江戸時代における近江の石 工は、石材産地に居住地を構える場合が多いのに対して、 石材産地ではない石場に居住していた石工は、瓦職人と同 様に膳所城下あるいは大津宿といった都市における需要に 答えるべき存在として活躍した「都市居住型」の石工で あったと位置づけることができよう。 5.田たな上かみ 地域の石工たち 上記のほか、『近江輿地志略』には記述がないが、現在 の大津市域に居住していた石工として、栗太郡田上地域の 石工たちについても取り上げておきたい。 『滋賀県物産誌』には、栗太郡羽栗村の項に「農 六三 軒(傍ラ製茶及ヒ炭焼採薪ヲ事トスルアリ或ハ石工ヲ業ト ス)」と、兼業農家であった石工について記載がある。刻 銘資料では、「文政九丙戌(1826)八月」に「羽栗邑 石 工市右ヱ門」が石山寺境内の敷石を施工したことが確認で き、同じく石山寺門前の「文政七甲申年八月十八日」銘の 石燈籠に銘のある「石工 市右衛門」も同一人物であろう と考えられる。時代は下るが、大津市田上地域の中野に所 在する荒戸神社境内の明治四年(1871)建立の石燈籠にも 「羽栗 石工市右エ門」と刻まれたものがあり、石山寺に 作例を残した「市右衛門」の子孫によるものであろう。 この羽栗村の石工のほかにも、東海道の唐橋東詰に存在 する寛政十二年(1800)銘の道標に見られる「田上 治兵 衛」の事例が早くから知られている?。この「治兵衛」は、 『近江栗太郡志』に紹介されている文化十四年(1817)の龍 門村八幡神社棟札に「田上森村住 石屋治兵衛」という資 料があることから、羽栗村の西に接する森村の石工であっ たことが分かる?。 ところで、この道標と同じ交差点の北西角にある明治 十三年(1880)建立の常夜燈には「石工浅川喜久松」とい う刻銘がある。草津市新浜町の龍宮神社の明治三十九年に 建てられた石燈籠には、同一人物と考えられる「石工 森 村 浅川喜久松」という刻銘があり、この「浅川喜久松」 は「治兵衛」からやや時代は下るが、同じ森村の石工であっ たことが確認できる。「浅川喜久松」の作例は、ほかにも 田上枝天満宮にある明治二十六年の狛犬の「石工 浅川喜 久松」銘や、年代不明ながら石山南郷町の立木観音の石段 の柵に「モリ村 石工喜久松」と刻まれた例を確認してい る。 また、東海道から草津市野路町の新宮神社への参道に建 てられた文政八年(1825)建立の石燈籠には「中ノ 石工 増兵衛」という石工銘があり、この「中ノ」も田上地域の 中野村を指すものと考えられる。 以上のように、『滋賀県物産誌』に石工の居住が記録さ れている「羽栗村」のほかにも、花崗岩産出地域である田 上地域には、江戸時代後期から明治時代にかけて、いくつ かの村に石工が居住していたことが刻銘資料等から確認で きるのである。 6.まとめにかえて 以上、現在の大津市域に居住していた石工たちについて、 主として石造物の刻銘を資料として、大きく3地域にまと めて紹介してきた。最初に述べたとおり、筆者が実際に訪 れて刻銘を確認済みの石造物は、大津市内に数多く存在す る資料のごく一部に過ぎない。そして、本稿で紹介した刻 銘資料は、大半がこれまで紹介されていなかったものであ ることから推定すれば、未発見の刻銘資料は今回紹介した 資料の何倍にも上ることは疑いない。現在の調査状況を発 掘調査に例えていえば、遺跡のごく一部を試掘調査したに すぎない段階であり、大津市域で活躍していた石工たちの 状況について、全体像を正しくイメージできているかどう か不安な部分もある。本稿を読まれた方々が、身近な場所 にある石造物を確認されて、新たな刻銘資料を発見される 機会があれば、ご教示いただければ幸いである。 (たいなか ようすけ) 註 ? a.田井中洋介「伊勢国千種村の石工忠右衛門の銘を持つ近江 所在の石灯籠二例」『滋賀県地方史研究』第15号 2005 b.田井中洋介「石造品の刻銘」『近江八幡の歴史』第二巻 近 江八幡市 2006 c.田井中洋介「湖東地域の石工に関する研究ノート―愛知川 町域に所在する二例の石工銘から―」『滋賀県地方史研究』第 16号 2006 d.田井中洋介「近世後期における近江の石工についての研究 ノート―蒲生郡七里村の石工「金三郎」とその周辺―」『考古 学論究』小笠原好彦先生退任記念論集刊行会 2007 e.田井中洋介「近江八幡の石工「西川與左衛門」とその周 辺」『淡海文化財論叢 第二輯』 淡海文化財論叢刊行会 2007 f.田井中洋介「近江の石工たち―江戸時代後期を中心に―」 『紀要』第15号 滋賀県立安土城考古博物館 2007 g. 田井中洋介「甲賀の石工についての研究ノート」『紀要』第 16号 滋賀県立安土城考古博物館 2008 ? 寒川辰清『近江輿地志略』(宇野健一『新註近江輿地志略 全』弘文堂書店 1976) ? 杉江 進「公儀「穴太頭」と諸藩「穴生役」」『日本歴史』第 717号 吉川弘文館 2008 ? 『滋賀県市町村沿革史』第五巻 滋賀県市町村沿革史編さん委 員会 1962 ? 福尾猛市郎『滋賀縣八幡町史』蒲生郡八幡町 1940 ? 大橋金造『近江神崎郡志稿』下巻 滋賀県神崎郡教育会 1928 ? 早崎観縁「竹生嶋一の鳥居の建立について」『滋賀県地方史研 究紀要』第13号 滋賀県地方史研究家連絡会 1988 ? 樋爪 修「京津間の車石敷設工事」『大津市歴史博物館 研究 紀要1』1993 ? 『志賀町史』第二巻(樋爪 修・杉江 進ほか 滋賀県志賀町 1999)には、旧志賀町域に江戸時代に居住していた石工につい て、地元区有文書等に基づく記述があり、すでに江戸時代前期に は石の切り出しが行われていたことなどが確認できる。町史編纂 事業で調査された地元の文書資料を活用して、刻銘資料と総合的 に研究を行えば、当該地域の石工について、より具体的に明らか にできるものと考えられる。 ? 註(1)文献f ? 『石山寺の古建築』大本山石山寺 2006 ? 愛荘町立歴史文化博物館長 門脇正人氏の御教示を受け、町史 編纂室の皆様の御厚意によって資料を確認させていただいた。具 体的な資料の内容については、機会を改めて紹介したい。 ? 佐野精一「近世・京石工の系譜」『日本の石仏』8号 1978 ? 『大津市志』上巻 大津市私立教育会 1911 ? 樋爪 修・青山 均『かわら―瓦からみた大津史―』大津市歴 史博物館 2008 ? 木村至宏『近江の道標』(民俗文化研究会 1971)。なお、この 文献には石工銘を「石工 京白川 太郎右衛門 田上 治兵衛」 と記しているが、現地で道標を実見すると「田上」と「治兵衛」 の間には判読困難な2文字が存在している。龍門村八幡神社棟札 の記述を踏まえて、この判読困難な2文字を現地で再検討したと ころ、私見では「森村」と読んでよいものと考えている。なお、 同じ道標に名前の刻まれている「京白川 太郎右衛門」は、現在 のところ他に作例が知られておらず、いかなる存在であったのか 不明である。 ? 中川泉三『近江栗太郡志』巻四 滋賀縣栗太郡役所 1926
この他に「近江の石仏」という本では、以下のような紹介もある。
是非、巡りたいもの。
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