楽浪(さざなみ)の志賀と言う言葉を聞いたのは、 司馬遼太郎の「街道をゆくの第一巻」であった。 私自身も、此処に移り住んで、まだ、20年も過ぎていない。 しかし、琵琶湖の畔で、比良山の麓で、その自然と人との 温もりを感じてきた。 司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から始めましょう、 と言っている。近江には、かなりの思い入れがあるのだろう。 その一文から少し、志賀を感じてもらおう。 ーーー 近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われる ようになった。国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。 もっとも、遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和に近い、 つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたりをさした時代もあるらしい。 大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして 自動車の走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の 大和人の距離感覚を心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。 、、、、、 我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。 叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の 道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という 感じがする。古くは、この湖南地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。 いまでは、滋賀郡という。 、、、、、 この湖岸の古称、志賀、に、、、、 車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、 真野を過ぎ、さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押し かぶさってきて、車が湖に押しやられそうなあやうさを覚える。 大津を北に走ってわずか20キロというのに、すでに粉雪が舞い、 気象の上では北国の圏内に入る。 小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、 北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、 その赤は、須田国太郎の色調のようであった。 ーーーーー また、白洲正子も、近江については、「かくれ里」など、数冊の本を 書いている。その中でも、「近江山河抄」では、この志賀周辺を 「比良の暮雪」の章で、更に、詳細に書き綴っている。 同様に、その一文から、もう少しこの周辺を感じてもらおう。 ーーーー 今もそういう印象に変わりはなく、堅田のあたりで比叡山が終わり、 その裾野に重なるようにして、比良山が姿を現すと、景色は一変する。 比叡山を陽の山とすれば、これは、陰の山と呼ぶべきであろう。 ヒラは古く牧、平とも書き、頂上が平らなところから出た名称 と聞くが、それだけではなかったように思う。、、、、、、 が、古墳が多いと言うことは、一方から言えば早くから文化が開けた ことを示しており、所々に弥生遺跡も発見されている。、、、、、、 小野神社は二つあって、一つは道風、一つは?を祀っている。 国道沿いの道風神社を手前に左に入ると、そのとっつきの山懐の 岡の上に、大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐白山 古墳は、この岡の尾根続きにあり、老松の根元に石室が露出し、 大きな石がるいるいと重なっているのは、みるからに凄まじい 風景である。が、そこからの眺めはすばらしく、真野の入り江 を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から湖東の連山、湖水に 浮かぶ沖つ島山も見え、目近に比叡山がそびえる景色は、思わず 嘆声を発してしまう。 ーーーー このような景観と自然の営みは、多くの人を誘うのであろうか? 画家、陶芸家の方々が、居住して来ている。 創作への意欲と同時に、心の安らぎが得られると、懇意にして いる画家の方も、言っている。 更に、湖岸での静かなひと時と母なる琵琶湖の水に、誘われるのか、 多くの保養所が軒を連ねている。小奇麗なカフェとヨット遊び、 現代と自然が上手くマッチしながら、此処では、静かな時を 刻んでいる。
司馬遼太郎の「街道をゆく」にも、この北小松の風情が描かれている。
ーーー
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。
ーーーー
確かに、注意して、少し回りを見渡せば、他のところと違い、石積み
の堀が結構多い。漁港の周辺も、石積みで出来ている。
小さな砂浜に下りてみる。
少し朽ちた杭に藻が幾重にも、絡まり、数10匹の若鮎たちがその
間を縫うように、泳いでいる。五月の風が吹き、遠くの沖島のざわめきが
此処まで、聞こえて来るような静かさ。
静寂の中でのひと時の安らぎ、まだ、出発して、10km前後だというに
既に、疲れがじわりと身体を這い上がってくるようだ。
日差しが熱く身体を突き抜けていく。
道路も、少し狭まばり、車が横をすり抜けていく。
何か背後から黒い刃物が、己の身体を突き刺すのでは、恐怖を感じる。
先に「ようこそ、高島へ」の看板、道路もかなり広くなり、まるで、
看板が手招きしている。湖からの風も柔らかく頬を撫ぜ、きらきらと
した湖面が、「さあ、まだその一歩を踏み出したばかりじゃないの」
と言っている。
横を走っていた湖西線も、別れを惜しむように、そこから山懐の
トンネルに吸い込まれ、消えていく。
権現崎の鳥居が見えて来た。
白鬚神社が湖岸の道を大きく湾曲した先にある。
昔は、比良の大和太と呼ばれていたとの事。
この周辺も、我が家の近くと同じで、多くの古墳群がある。
また、近くには、苔むした中に、48体の阿弥陀如来の石仏がある。
昔、来た事があるが、寂寞とした中に、時の流れを感じたものである。
白洲正子も、近江山河抄、の中で、
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する以上に
近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて
南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要したと思うが、
初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せずにはいられない。
ーーー
安曇川の手前を左手に、周辺より少し高い武奈ヶ岳に向かっていくと
「日本の棚田百選」に選ばれた畑地区の広く広がる棚田や
これも、「日本の滝百選」に選ばれた八ツ淵(やつぶち)の滝
、その名前のとおり、8つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、
障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、
七遍返しの滝があるのだが、その道を横目に見て、安曇川に
向かい、ひたすらに歩く。
格子戸のある軒先を、チョット古びた酒屋の横を、行き交う人は、
ほとんどいない。数台の車が、静かに横をすり抜けていく。
既に、陽は真上にあり、私の小さな影が、その歩みとともに、
ゆっくりと付いてくる。
安曇川の流れを遡り、のどかな平野をゆっくりと西へと進む。
今の朽木は、温泉もあり、道の駅もあり、観光客が押し寄せて来るので、
やや騒がしいものの、行く道の森と林、そして渓谷は、多くの旅人
が見た景色とかわらないのであろう。
少し先の畑では、何やら数人の人が、のどかにこちらを見ている。
道端には、小さな蓮華、黄色く色付き始めた野菊、がこちらを見ている。
春の長閑さを現す言葉に、春風駘蕩、と言うのがあるそうだが、今まさに
その風情を味わいながら、ゆっくりと、その歩みを進める。
朽木は、京都大原から途中峠を通り、花折峠に続いている。
社会の波は押し寄せてくるもの、ここを比叡山の回峰行者と比良山の
回峰行者が、この世に別れを告げる、として、その荒行により、
即身成仏をなし得ようとした様に、いまでも、その気配を感じる。
まだ、残る日本の原風景ではあるが、多くの観光客は、車と言う
道具で、忙しく道の駅により、先を急ぐのみ。
何かを忘れているのであるが、それも分からないままなのであろう。
ーーー
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉までが紅殻が塗られて、
その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて
こういう漁村がであったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
、、、、私の足元に、溝がある。水がわずかに流れている。
村の中のこの水は堅牢に石囲いされていて、おそらく何百年経つに
相違ないほどに石の面が磨耗していた。石垣や石積みの上手さは、
湖西の特徴の1つである。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる。
その水走りの傾斜面に田畑が広がっているのだが、ところがこの付近
の川は眼に見えない。この村の中の溝を除いては、皆暗渠になっている
のである。この地方の言葉では、この田園の暗渠をショウズヌキという。
ーーーー
確かに、注意して、少し回りを見渡せば、他のところと違い、石積み
の堀が結構多い。漁港の周辺も、石積みで出来ている。
小さな砂浜に下りてみる。
少し朽ちた杭に藻が幾重にも、絡まり、数10匹の若鮎たちがその
間を縫うように、泳いでいる。五月の風が吹き、遠くの沖島のざわめきが
此処まで、聞こえて来るような静かさ。
静寂の中でのひと時の安らぎ、まだ、出発して、10km前後だというに
既に、疲れがじわりと身体を這い上がってくるようだ。
日差しが熱く身体を突き抜けていく。
道路も、少し狭まばり、車が横をすり抜けていく。
何か背後から黒い刃物が、己の身体を突き刺すのでは、恐怖を感じる。
先に「ようこそ、高島へ」の看板、道路もかなり広くなり、まるで、
看板が手招きしている。湖からの風も柔らかく頬を撫ぜ、きらきらと
した湖面が、「さあ、まだその一歩を踏み出したばかりじゃないの」
と言っている。
横を走っていた湖西線も、別れを惜しむように、そこから山懐の
トンネルに吸い込まれ、消えていく。
権現崎の鳥居が見えて来た。
白鬚神社が湖岸の道を大きく湾曲した先にある。
昔は、比良の大和太と呼ばれていたとの事。
この周辺も、我が家の近くと同じで、多くの古墳群がある。
また、近くには、苔むした中に、48体の阿弥陀如来の石仏がある。
昔、来た事があるが、寂寞とした中に、時の流れを感じたものである。
白洲正子も、近江山河抄、の中で、
ーー
越前と朝鮮との距離は、歴史的にも、地理的にも、私達が想像する以上に
近いのである。太古の昔に流れ着いた人々が、明るい太陽を求めて
南に下り、近江に辿り着くまでには、長い年月を要したと思うが、
初めて琵琶湖を発見した時の彼らの喜びと驚き想像せずにはいられない。
ーーー
安曇川の手前を左手に、周辺より少し高い武奈ヶ岳に向かっていくと
「日本の棚田百選」に選ばれた畑地区の広く広がる棚田や
これも、「日本の滝百選」に選ばれた八ツ淵(やつぶち)の滝
、その名前のとおり、8つの淵(滝)があり、下流から、魚止の滝、
障子の滝、唐戸の滝、大摺鉢、小摺鉢、屏風の滝、貴船の滝、
七遍返しの滝があるのだが、その道を横目に見て、安曇川に
向かい、ひたすらに歩く。
格子戸のある軒先を、チョット古びた酒屋の横を、行き交う人は、
ほとんどいない。数台の車が、静かに横をすり抜けていく。
既に、陽は真上にあり、私の小さな影が、その歩みとともに、
ゆっくりと付いてくる。
安曇川の流れを遡り、のどかな平野をゆっくりと西へと進む。
今の朽木は、温泉もあり、道の駅もあり、観光客が押し寄せて来るので、
やや騒がしいものの、行く道の森と林、そして渓谷は、多くの旅人
が見た景色とかわらないのであろう。
少し先の畑では、何やら数人の人が、のどかにこちらを見ている。
道端には、小さな蓮華、黄色く色付き始めた野菊、がこちらを見ている。
春の長閑さを現す言葉に、春風駘蕩、と言うのがあるそうだが、今まさに
その風情を味わいながら、ゆっくりと、その歩みを進める。
朽木は、京都大原から途中峠を通り、花折峠に続いている。
社会の波は押し寄せてくるもの、ここを比叡山の回峰行者と比良山の
回峰行者が、この世に別れを告げる、として、その荒行により、
即身成仏をなし得ようとした様に、いまでも、その気配を感じる。
まだ、残る日本の原風景ではあるが、多くの観光客は、車と言う
道具で、忙しく道の駅により、先を急ぐのみ。
何かを忘れているのであるが、それも分からないままなのであろう。
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