日本の大部分では梅雨のさなか、北半球では一年中で一番昼が長く夜が短い日、 夏至である。「暦便覧」には「陽熱至極しまた、日の長きのいたりなるを以てなり」 と記されている。6月22日ごろとあり、この日から、次の節気の小暑前日まで とのこと。夏の至りて、梅雨がある。天皇、小野神社の境内もしっとりと雨に濡れ ひと時の静けさに包まれる。この頃、京都では、半年間の罪のけがれを祓い清めて、 残る半年を無病息災を願う神事「夏越祓」(なごしのはらえ)が行われる。 もっとも、猫族にとっては、人間の勝手に決めたことであり、猫の営みから すれば、真冬と真夏の時期さえ分かればよいのである。 庭には、赤みを帯び青が幾重にも重なり合った紫陽花が五月雨にひっそりと 咲いている。ここ三日ほどこの花の上に小さな水滴を残す静かな佇まいの 日々であった。比良山も益々緑色が濃くなり、少し前までまだらだった中腹も 深緑一色に化粧している。ただ、その緑も静かに降り注ぐ雨の中では、ぼんやりと 浮かんでいる様だ。灰色の中にやや茶げた山頂と緑の中腹、そしてピンクや 黄色に彩られた麓がやや霞んだ琵琶湖へと一直線に伸びている。 蓬莱の駅は無人駅だ。少し前まで、手打ちそばの蕎麦屋があったが、すでに休業 している。やや硬めのそばは歯ごたえがよく結構通ったものだ。そこは琵琶湖 が近くに迫り、わずかに茶褐色を見せる畑と田んぼが緑をたたえて湖の青さの 中に消えていく。その風景も見られなくなった。 久しぶりの快晴だ。ふと、熱いさなかの歩きをしたくなった、老人の冷や水か 熱中症に一片の不安は残るが。 駅前からの道はやや勾配を保ち、比良の山端に向かって伸びている。 初夏の日差しがさえぎるものがない舗装道路に強く照りかえり、その白さを一段と 強めながら、彼の体を突き抜いていく。小さな影が彼の歩みに合わせ静かに ついてくる。集落を外れ、砂利道に入ると、草草の発する息がむっとした水蒸気 となり、朝日をうけて金色に輝き、体にまとわりつき始める。すでに数10センチ に伸びた稲穂が鋭い穂先を見せながらゆったりと風に乗って動いている。 朝の雫に光り輝く蜘蛛糸がそのあり様を誰の目にも明らかにするかのように水平な 網を稲穂の揺れ動く中、あぜ道の草むらの中に見せている。その細く雫を帯びた糸は、 五線の譜のようでゆらゆらと揺れている。大きな水玉がしなった葉の上を転がり すっとんと落ちた。 深緑、薄い緑、白い小さな花、その群生の中を日差しを跳ね返しながら、川が顔 を出す。小さな凹凸が水にいくつかの階を作り、下へと流れている。数条の水の筋を 造りながらそのくねり進む様は悠々たる大河の趣を感じさせる。 夏の暑い日、友達とパンツ一つとなり、ザリガニや小魚を捕りあった日、小魚が その銀色を一ひねりしながら水草に隠れるのをさらに追いかけた友の水浸しの体、 葦に伝わる泥と小石の感触と水の冷たさ、さらには背中に刺す太陽の熱さ、 ふとそんな昔の情景が浮かぶ。 川を少し上ったところにその情景はあった。 蓬莱山の横たわるかのように何十となく緑に熟れた水田が上へ上と重なっていた。 北船路の棚田だ。伸びた先に森の一団がこれも蓬莱の山に溶け込む形で棚田と青い 空を仕切るかのように横一線に伸びている。飛行機雲が一つ青く広やかな空を 二分するかのように西へと伸びている。覚悟を決めて、棚田の最上部へと一歩 踏む出す。見た目でもその勾配の強さが感じられるが、歩き始めるとその強さが 足の裏を伝わり、体全体に感じられる。かなりきつい。夏の田んぼは、浮草がその 水面を覆うかのようにひろく生えわたっている。その中にいくつかの目がこちらを うかがうように水面に盛り上がっている。蛙たちだ。その緑の肌と大きな目は 闖入者の動きを見張るかのようにじっと眼を据えて動かない。あぜ道に身を 伏せるかのようにそれに近づくと一瞬にしてそれは消えた。 途中、紅色の花が群れ咲く2本の木に寄り添って、強烈な日差しを避け、ひと時の 息休めをする。頬を撫ぜる風がわずかな流れで彼に心地よさを与える。 まだ成長の途中であろう稲たちが一斉に右へとその穂先を傾け、また左へと 揺れ動いている。渡る風の音は聞こえない。 棚田の中ごろあたりであるが、平板な青さの湖に白い帆を揺らめかせているヨットや 2筋の波線を引きながら右から左へと流れるボートが見られる。その先は夏の 霞の中にただ茫洋と白さが広がり、いつも見える三上山の小さくも華麗な姿は その白き霞の中に消えている。 比良は山端が琵琶湖の湖岸まで直接伸びており、平地が少ない。伝承によれば、 明智光秀の時代から山麓の傾斜地に水田の開発が進められてきたという。 どこの地域の棚田もそうだが、水をたたえるため、石垣等をつくり、等高線に 従い平坦な土地を確保している。棚田百選などと言われているが、ここも先人たちの 努力が営々と続けてこられた結果でもある。我々は写真などで美しいとは思うものの、 その地道な毎日の生業を忘れてはならない。 ここも、後継者の問題などで一時その姿を失う状況ともなったが、水田を大きな区画 につくりかえる圃場整備事業を行うことで、大きな区画の水田が雛壇状に並ぶような 棚田になったという。多分かってあった棚田の形はだいぶ消えたのかもしれない。 千地と寄せる光の中で、彼はそんなことを思った。 最上部の棚田の横に来た。途中の道で見た情景よりもさらに艶やかに広がる緑と 琵琶湖の千地に光る群青、雲の幾重にも重なった空の薄青きが1つのフレームに はめ込まれたように目の前にある。既にここでは棚段という意識は覚えず、 幾重にも重なる緑の絨毯がいくつもの黒い線で区切られ、下へ下へとと延びている、 ただそれだけだ。その緑も平板なそれとは違い、そばの森のざわつきに合すか のようにその緑の中に小さな影が出来、全体がふわり浮かび上がりまた下がる、 その緩やかなリズムが彼の鼓動と同期し、緩やかな和らぎを与えていく。 足元をゆったりとした水縞を描きながら水音が流れる。その溝の横に、ツユ草が 群れ咲いていた。真っ青な花びらには、紺色の筋が枝葉のように広がり、さながら ガラス細工のようである。黄色のおしべはその目の覚めるような色をさらに 強めている。ここはちょうど梅の木の下、強く光る日差しの中で、ややくつろいだ 空気が占めている。小さな草花たちもその日陰の中で、休息している。 静かな時間が流れ、彼は一刻の眠りにつく。 棚田は自然と人の結節点だ。ひな壇のように落ちていくそれぞれの水田のすぐ横には、 樫の木や栗の木がその葉群をざわつかせながら取り巻き騒いでいる。今はのびやかに 育つ稲たちも人の手が手控えられた瞬間からこれらの森の様々な木々や草たちに 侵略され朽ちていく。どこの棚田もそのような宿命の中で生き続けるのだ。春先に 聞こえる田植えに集まった人々、そこには幼児の初々しい声もある、がある限り この水田たちも永く生きていけるのだ。午睡の中で、そんな取り止めのない思いが 湧きまた消えた。そのウツらとした中にブーンという羽音が彼を引き戻す。 虎模様のカミキリムシが彼の肩に止まり、その長い触角を揺らしていた。 緑続く水田と湖の照り映える蒼さの中を一直線に白い線が通っている。やや高めの ブレーキ音を出して緑色の電車が駅に滑り込んできた。数時間前までの灼熱の空は やや柔らかさを増し、頬を撫でる風にも涼やかさが加わり始めている。彼は木陰から 重たげに体を起こし、もう少し周りを見るかの仕草で棚田の外れへとあぜ道を たどりながら進む。かっ、かっ、かっ、と少し早いヒグラシの声が近くの森、遠くの 森から木霊してくるようだ。その澄んだ声が足元の草藁を撫ぜるかのように彼の 耳に届く。やがてここにもアブラゼミやミンミンゼミの声があふれその穂先を 揺るがすかのように四方に飛び交う。
2016年6月29日水曜日
北船路棚田、夏至のころ
2016年6月17日金曜日
米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)
和邇日触・・応神紀に応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。系図・伝承では米餅搗大使主の弟、または同一人物。
米餅搗大使主(鏨着大使主)・・建振熊(和邇の祖)の子。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖。
天足彦国押人命七世の孫である米餅搗大使主の子・市川臣を祖とする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人となる。
米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)
孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。
応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。
孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。
応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。
小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。
米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。)
富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図の米餅搗大臣命の注釈【若狭國三方郡和爾部神社是也】は、現在の福井県三方郡美浜町佐柿の日吉神社を指す。
表記は「米餅搗大臣」の他、『新撰姓氏録』においては「米餅搗大使主」「米餅舂大使主」「鏨着大使主」の三通りがある。「米餅」の訓は、「鏨」の訓である「たかね / たがね」とされるが、上記の餅の伝承に関連して「しとぎ」とする見解もある。
父:武振熊命
兄弟:日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰
子:八腹木事、春日和邇深目、春日市河、春日人華(仲臣)
子孫の一部
兄弟:日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰
子:八腹木事、春日和邇深目、春日市河、春日人華(仲臣)
子孫の一部
左京:大春日朝臣(もとは仲臣である)、小野朝臣、櫟井臣、和安部臣、山上朝臣
山城国:小野朝臣、粟田朝臣、小野臣、和邇部、大宅
大和国:柿下朝臣(柿本臣)、布留宿禰(もとは、物部首)、久米臣
摂津国:井代臣(井出臣)、津門首、物部、羽束首
河内国:大宅臣、物部
右京未定雑姓:中臣臣
山城国:小野朝臣、粟田朝臣、小野臣、和邇部、大宅
大和国:柿下朝臣(柿本臣)、布留宿禰(もとは、物部首)、久米臣
摂津国:井代臣(井出臣)、津門首、物部、羽束首
河内国:大宅臣、物部
右京未定雑姓:中臣臣
米餅搗大使主のもとの名は「日布礼大使主」とされる(滋賀県神社庁)。
『阿波国続風土記』5巻、大麻比古神社項より
仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定 此ヨリ以前ハ中臣佐久命ニテ㫪米部起テヨリ米餅㫪大使主ト称フ事明ナリ
津門神社 (島根県江津市):米餅搗大使主を津門氏の祖とする。
和珥氏の祖は天足彦国押人命。奈良盆地東北部・春日の辺りを本拠とします 。 孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命を祖とするが、小野神社境内には小野氏系図として敏達天皇の皇子の春日皇子を起点とする系図も紹介している。
葛城氏や蘇我氏のように一族である妃所生の皇子女から天皇を出すことはありませんでしたが、后妃を多く輩出し、孫世代からの皇后も何人かいました。 欽明天皇の頃に名が見えなくなり、春日氏に改姓したと推測されています。
宮主宅媛【みやぬしのやかひめ】.<宮主矢河比売(古事記)>
15代応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。
所生の皇子女
菟道稚郎子皇子(応神天皇皇太子)、 八田皇女(仁徳天皇后)、雌鳥皇女(隼別皇子妃)
15代応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。
所生の皇子女
菟道稚郎子皇子(応神天皇皇太子)、 八田皇女(仁徳天皇后)、雌鳥皇女(隼別皇子妃)
.古事記によると、菟道稚郎子皇子は父・日触使主とともに宇治の辺りに住んでいたようです。応神天皇の求婚譚があります。
.媛の所生の皇子・菟道稚郎子皇子は応神天皇に皇太子に指定され、渡来人・王仁を家庭教師としました。しかし応神天皇の死後、兄・大鷦鷯皇子(後の仁徳帝)と帝位を譲り合い、即位せぬままに3年後死没したと伝えられ、播磨風土記に「宇治天皇」とあります。あるいは皇位をめぐる騒動があったのかもしれません。
.死に際し、菟道稚郎子皇子は同母妹・八田皇女を仁徳帝の後宮に入れるよう頼んだといいます。が、これも後世に加えられたものでしょう。
.媛の所生の皇子・菟道稚郎子皇子は応神天皇に皇太子に指定され、渡来人・王仁を家庭教師としました。しかし応神天皇の死後、兄・大鷦鷯皇子(後の仁徳帝)と帝位を譲り合い、即位せぬままに3年後死没したと伝えられ、播磨風土記に「宇治天皇」とあります。あるいは皇位をめぐる騒動があったのかもしれません。
.死に際し、菟道稚郎子皇子は同母妹・八田皇女を仁徳帝の後宮に入れるよう頼んだといいます。が、これも後世に加えられたものでしょう。
袁那弁郎女(古事記)
応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。宮主宅媛の妹。
所生の皇子女
菟道稚郎姫皇女(仁徳天皇妃)
.媛の所生の皇女・菟道稚郎子皇女は、古事記によると異母兄の仁徳帝の妃となりましたが、子供はなかったといいます。この結婚も、仁徳帝と伯母の宮主宅媛の子・菟道稚郎子皇子との皇位継承に関する騒動と関連しているものでしょうか。
応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。宮主宅媛の妹。
所生の皇子女
菟道稚郎姫皇女(仁徳天皇妃)
.媛の所生の皇女・菟道稚郎子皇女は、古事記によると異母兄の仁徳帝の妃となりましたが、子供はなかったといいます。この結婚も、仁徳帝と伯母の宮主宅媛の子・菟道稚郎子皇子との皇位継承に関する騒動と関連しているものでしょうか。
和邇氏の系譜、難波根子武振熊命
五代孝昭帝の子孫を称し、その系図は、
天足彦国押人命--和邇日子押入命--彦国姥津命--彦国葺命--大口納命--難波根子武振熊命
と繋がり、神功皇后に味方して仲哀帝と大中姫との間に生まれていた忍熊王の軍勢を撃破したと伝えられる難波根子武振熊命(ナニワネコタケフルクマ)の子供の代に至って大きく
①日触使主命・口子(和邇臣)、
②大矢田宿禰、
③米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)、
④石持宿禰
①日触使主命・口子(和邇臣)、
②大矢田宿禰、
③米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)、
④石持宿禰
の四つの血筋に分岐します。その内の米餅搗大使主命の子供達の世代で和邇氏そのものが更に、
①市河(春日臣、物部首--布留宿禰)、②深目(春日和邇)、③八腹小事(大宅臣)、④人華(粟田氏、柿本氏、小野氏)
の四流に分かれたとされており、人麻呂の出たとされる柿本家(柿本臣)は、この四番目に相当する家系だと言う事になっているのです。尤も、武振熊命と息長帯比売命を「同じ世代」に生きた者として伝える「系図」の危うさには留意するべきか。
「日本書紀」垂仁三十九年冬十月条の五十瓊敷入彦命「剣一千口を作る」の本文に続く一書の中で、
鍛名は河上を喚して、太刀一千口を作らしむる。(中略)その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して
石上神宮に蔵む。この時に、神、乞わして言わく「春日臣の族、名は市河をして治めしよ」とのたまう。
因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首(もののべ・おびと)が始祖なり。
和邇氏から春日氏が出て、その名 市河から、物部の首が出ている。
市河=物部首が武器庫の管理者として「神」から直に「指名」されたのだ、という伝承を公に日本書紀が採録している点に注目するなら、それぞれ「和邇」を名のる家々に血縁があったのかは不明にしても、応神朝よりも「以前」から金属生産や銅器、鉄器の供給で帝室を支える「和邇」を自称する「族」が複数存在していたことが容易に推察されます。
「新撰姓氏録」大和皇別
柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男木事命、男市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、
布都努斯神社を石上御布瑠村の高庭の地に賀いたまう。市川臣を以て神主と為す。
四世孫、額田臣、武蔵臣、斉明天皇の御世、
宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首ならびに神主首と号う。これによりて臣の姓を失ひ物部首と為れり。男正五位上日向、天武天皇の御世、
社地の名に依りて、布瑠宿禰(ふる・すくね)の姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。
布留宿禰の項に在る一文によって「市川臣」が先の「市河」と同一人物だと推測出来ますから、元々、金属器の生産を受け持っていた氏族が武器そのものを神として「祀る」立場を与えられたことによって「もののべ」「おびと」を名乗ったのだと分かります。更に「姓」の授与剥奪が大王の専権事項であったことに思いをいたすなら、この文章は「宗我蝦夷大臣」が実質的に大王であった事を示唆しているのかも知れません。
時代は下りますが六世紀初頭、ヤマト朝の大王に迎え入れられた継体帝と息子達(安閑・宣化)がこぞって和邇一族の皇后を迎えている
西暦702年遣唐使として混乱の最中にある大陸へ渡った粟田朝臣真人(?~719)は、太宰帥を務め正三位にまで昇った「人華和邇」の出世頭で柿本氏とも同族、そして、ほぼ人麻呂と同世代を生きた人物のはずなのですが、日本書紀・続日本紀は同族の柿本人麻呂に関して何も語ろうとはしません。
続日本紀や新撰姓氏録でこの姓を「丸部(わにべ)」と書く。
続日本紀や新撰姓氏録でこの姓を「丸部(わにべ)」と書く。
万葉巻十一(2362)に「相狹丸(あうさわに)」【巻八では「相佐和仁(あうさわに)」と書いてある。】とあるのも同じだ。【ただしこれらは、上記の「印(いに)」と同じく、「わに」の二音の仮名である。】
「丸邇」は地名で、大和国添上郡にある。この地のことは、水垣の宮の段に「丸邇坂」とあるところで言う。【伝廿三の七十六葉】この姓は、書紀の孝昭の巻に「天足彦國押人(あめたらしひこくにおしひと)命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」とある。この命はこの記では「天押帯日子(あめおしたらしひこ)命と書き、子孫の氏をたくさん挙げたうちに、【伝廿一の廿六葉から卅三葉まで】この姓は漏れている。だがこの氏人は、水垣の宮の段に日子國夫玖(ひこくにぶく)命、訶志比の宮(仲哀天皇)の段に難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)命、その他明の宮(應神天皇)、朝倉の宮(雄略天皇)、廣高の宮(仁賢天皇)などの段にも見える。書紀の雄略の巻には「春日の和珥臣」ともある。
ところが浄御原の朝の御世、臣姓の氏々の多くに朝臣姓を加えた中(天武十三年十一月の五十二氏の叙位)に、どういうわけかこの氏は漏れている。続日本紀廿六に「天平神護元年七月、左京の人、丸部(わにべ)臣宗人ら二人に、宿禰の姓を与えた」、【「丸部」は丸邇部である。天武紀に「和珥部臣君手」と書かれている人が、続日本紀一では「丸部臣」と書かれているので分かる。】廿九に「神護景雲二年閏六月、左京の人和珥部臣男綱ら三人に和珥部朝臣の姓を与えた」とある。
新撰姓氏録
【左京皇別】「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の四世の孫、矢田宿禰の子孫である」【左京皇別】「和邇部朝臣は、大春日朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」、「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖云々」、「丸部は和邇部と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の子、伊富都久(いおつく)命の子孫である」
【右京皇別】「和邇部は、天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である」
【山城国皇別】「和邇部は、小野朝臣と同祖、天足彦國押人命の六世の孫、米餅搗大使主(しとぎつきのおおおみ)命の子孫である。一本に彦姥津命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」
【摂津国皇別】「和邇部は、大春日朝臣と同祖、云々」
【これらのうち、続日本紀や新撰姓氏録の「和邇部朝臣」の「邇」の字は、諸本に「安」と書いてある。ところが多くのうちで、朝臣姓だけがそうなっているから、何か理由があってのことかと思ったが、やはり「邇」を誤ったのだろう。】
三代実録七に「左京の人和邇部大田麻呂に姓を与えて宿禰とした。大田麻呂がみずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、また「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅繼(やかつぐ?)に姓を与えて邇宗宿禰とした。みずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、【「邇宗」は「ちかむね」と読むのか。】九に「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅貞、宅守らに姓を与えて邇宗宿禰とした」などと見える。
【右京皇別】「和邇部は、天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である」
【山城国皇別】「和邇部は、小野朝臣と同祖、天足彦國押人命の六世の孫、米餅搗大使主(しとぎつきのおおおみ)命の子孫である。一本に彦姥津命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」
【摂津国皇別】「和邇部は、大春日朝臣と同祖、云々」
【これらのうち、続日本紀や新撰姓氏録の「和邇部朝臣」の「邇」の字は、諸本に「安」と書いてある。ところが多くのうちで、朝臣姓だけがそうなっているから、何か理由があってのことかと思ったが、やはり「邇」を誤ったのだろう。】
三代実録七に「左京の人和邇部大田麻呂に姓を与えて宿禰とした。大田麻呂がみずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、また「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅繼(やかつぐ?)に姓を与えて邇宗宿禰とした。みずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、【「邇宗」は「ちかむね」と読むのか。】九に「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅貞、宅守らに姓を与えて邇宗宿禰とした」などと見える。
この姓は、古くは「和邇」とだけあるのだが、天武紀に初めて「和邇部臣君手」とあり、その後は「和邇部」とばかり書かれる。いつから「部」が加わったのか。延喜式神名帳には若狭国三方郡に和邇部神社がある
2016年6月1日水曜日
「江戸衆三百遠年(おんねん)忌法要」
大津市北小松の種徳(しゅとく)寺で29日、「江戸衆三百遠年(おんねん)忌法要」が営まれた。江戸時代の1716(享保(きょうほう)元)年、近隣の村と土地の境界などを巡って争いになった北小松村に対し、幕府は主張を認めなかったうえ、争いを起こしたとして罪科を問い、多くの村人が刑病死したと伝えられている。法要には、地元住民ら約60人が参列し、300年前の犠牲者を慰霊した。【塚原和俊】
旧「志賀町史」などによると、北小松村は1710(宝永7)年、境界、入会、湖上輸送などを巡って北隣の鵜川(うかわ)、打下(うちおろし)両村(いずれも現・高島市)から訴えられた。京都町奉行所は二度にわたり北小松村の主張を認めたが、鵜川、打下村が承服せず、審理は幕府の最高司法機関だった江戸の評定所に上げられた。
ところが、幕閣による裁きは一転して北小松村の敗訴となり、刑罰まで下った。この翌年の1717年に建立された種徳寺の前の墓碑には、50人以上の村人が捕縛され約40人が刑病死したと刻まれている。当時の政治家で儒学者、新井白石は自叙伝「折たく柴の記」に幕府の評定について記述している。
種徳寺の心山(むねやま)義昭・前住職(84)は「あまりにも悲惨な結末。北小松は当時約150戸の村。帰村できたのは5人といい、打撃はさぞ大きかっただろう」と長年、心を痛めていた。法要では「三百遠年忌法要をするまで寺を去れないとの信念で来た」と心境を述べ、法要を終えると「言葉にならん」と目頭を押さえていた。
この日、種徳寺創建時に住職を送った臨済宗相国寺(京都市上京区)から大通院の小林玄徳住職が、江戸衆を慰霊する七言絶句を携えて来訪。心山・前住職や近隣の4カ寺住職とともに読経した。北小松自治会の木原喜三郎会長(67)は「住民が毎年、盆に供養をしているが、先祖の無念を後世にしっかり伝えていきたい」と話した。
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