2016年6月1日水曜日

「江戸衆三百遠年(おんねん)忌法要」


訴訟の末に犠牲となった江戸衆の墓石(左の巨岩)前で読経する僧侶と参列者。奥は種徳寺=大津市北小松で、塚原和俊撮影
 大津市北小松の種徳(しゅとく)寺で29日、「江戸衆三百遠年(おんねん)忌法要」が営まれた。江戸時代の1716(享保(きょうほう)元)年、近隣の村と土地の境界などを巡って争いになった北小松村に対し、幕府は主張を認めなかったうえ、争いを起こしたとして罪科を問い、多くの村人が刑病死したと伝えられている。法要には、地元住民ら約60人が参列し、300年前の犠牲者を慰霊した。【塚原和俊】
     旧「志賀町史」などによると、北小松村は1710(宝永7)年、境界、入会、湖上輸送などを巡って北隣の鵜川(うかわ)、打下(うちおろし)両村(いずれも現・高島市)から訴えられた。京都町奉行所は二度にわたり北小松村の主張を認めたが、鵜川、打下村が承服せず、審理は幕府の最高司法機関だった江戸の評定所に上げられた。
     ところが、幕閣による裁きは一転して北小松村の敗訴となり、刑罰まで下った。この翌年の1717年に建立された種徳寺の前の墓碑には、50人以上の村人が捕縛され約40人が刑病死したと刻まれている。当時の政治家で儒学者、新井白石は自叙伝「折たく柴の記」に幕府の評定について記述している。
     種徳寺の心山(むねやま)義昭・前住職(84)は「あまりにも悲惨な結末。北小松は当時約150戸の村。帰村できたのは5人といい、打撃はさぞ大きかっただろう」と長年、心を痛めていた。法要では「三百遠年忌法要をするまで寺を去れないとの信念で来た」と心境を述べ、法要を終えると「言葉にならん」と目頭を押さえていた。
     この日、種徳寺創建時に住職を送った臨済宗相国寺(京都市上京区)から大通院の小林玄徳住職が、江戸衆を慰霊する七言絶句を携えて来訪。心山・前住職や近隣の4カ寺住職とともに読経した。北小松自治会の木原喜三郎会長(67)は「住民が毎年、盆に供養をしているが、先祖の無念を後世にしっかり伝えていきたい」と話した。

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