古代では、敦賀からの物資や人の往来から北小松や和邇が海上交通の拠点として、 栄えたが、比叡山を源とする天神川、真野川、御呂渡川の沖積地に誕生した堅田。 衣川を中心とする背後の丘陵地に、平安時代には、琵琶湖の最狭部という絶好の地 に形成された堅田に、京都加茂御祖社(下鴨神社)の御厨が置かれ、また比叡山 延暦寺の荘園となった。以来、恵まれた地形と両社寺の勢力を背景に、中世には 琵琶湖の水運・漁業の権益を一手に掌握して、湖上に圧倒的な力を誇った。 当時、堅田衆と呼ばれた人々は、自らの手で郷づくりを行い、「堅田千軒」 といわれる、近江最大の自治都市を築いた。 16世紀半ば、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは彼の故郷への手紙の中で、 当時の堅田のことを、泉州堺と並び称し、「はなはだ富裕な堅田」と述べている。 浮御堂周辺の町並みは、家々の造り、その石畳、など当時の雰囲気を伝えている。 戦国時代には、織田信長を筆頭に、天下を狙う武将たちが、軍事・物流の最重要 拠点とし、加えて強大な経済力と堅田湖族の団結力を頼りにした。近世を迎えると、 湖上秩序の差配を司った堅田浦は、湖を業の場とする人々から「諸浦の親郷」 と呼ばれ信望を集めた。繁栄する堅田には早くから神仏思想が流入、多くの寺社 が建立された。南北約2kmの湖畔地域には、六社十ヶ寺が現存、様々な由緒を 今に伝えている。 また、豊かさと風光の美しさに魅せられ、天皇、摂家、武人、僧侶、文人が往来、 様々な文化をもたらした。藤村庸軒・北村幽安による茶の湯文化、芭蕉によりさらに 興隆をみた俳諧文化は堅田文化の二大源流となる。 水運が主体であった時代には湖上交通の要衝として栄え、琵琶湖沿岸で最大の 自治都市が築かれた。 近江国滋賀郡に属し、11世紀後半には堅田の漁師達が下鴨社の支配下に入り (堅田御厨)、続いて堅田とその周辺地域に比叡山延暦寺の荘園(堅田荘) が成立した。 承久の乱後、佐々木信綱が現地の地頭に任じられたが、延暦寺・下鴨社ともに 対抗するために延暦寺は堅田に湖上関を設置して他所の船を排斥し、下鴨社は 堅田の漁民・船主に漁業権・航行権(水上通行権)を保障する事で堅田の経済的・ 交通的特権を保証した。以後、彼らと近江守護に任ぜられた佐々木氏(信綱の一族) は、堅田とその漁業権・航行権を巡って激しく争うことになる。 中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つ の惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる 「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。 殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊 行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保 していた。 一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を 築いてきた。室町時代、殿原衆は延暦寺から堅田関の運営を委任されて、堅田以外 の船より海賊行為を行わない代償として上乗(うわのり)と呼ばれる一種の通行税 を徴収する権利を獲得するようになる。 また、この頃堅田に臨済宗が広まって武士階層が多い殿原衆の間で広く支持されて 祥瑞寺が創建された。この寺は青年期の一休宗純が修行した寺としても知られている。 一方、同じ頃浄土真宗の本福寺が堅田に創建された。その後一時期臨済宗に改まる ものの、3代目にあたる法住、明顕(4代目)が浄土真宗に復帰して本願寺に 属すると、本願寺8世蓮如からの厚い信任を受けるようになった。やがて、蓮如 が寛正の法難によって大谷本願寺を延暦寺によって破壊されると、堅田に逃亡する事に なる。蓮如は全人衆からの強い支持を受けて後に「堅田門徒」と称せられるほどの勢力 をこの地に築くことになった。 しかし、蓮如を匿ったり、積荷を勝手に押収したしたことで、延暦寺は堅田に対して 焼き討ちを行った。これによって延暦寺を支持していた地域を含めて堅田の町のほぼ 全域が焼失して住民は沖島に逃れたという。これを堅田大責(かたたおおぜめ) と言う。 この戦いで対延暦寺戦で大敗を喫した殿原衆は権力を失墜させて逆に全人衆は彼ら と対等な発言力を獲得することになった。 その結果、人口の多数を占める全人衆の多数が組織していた堅田門徒の発言力が高まり 、堅田衆の指導的地位を獲得するようになった。その後は、織田政権・豊臣政権・ 江戸幕府はいずれも経済的特権に関しては、基本的には大津代官従属のもとで以前 のものを承認し続けた。 近世では、江戸時代後期彦根藩などの保護を受けた他の琵琶湖湖畔の諸港の台頭、 船主・漁民と農民・商人との利害対立による内紛などがあり、徐々にその 影響力を低下させていった。 文化的には、 芭蕉が本福寺千那の招きで初めて近江に入ったのは貞亨2年(1685)の春。以来、 大津そして堅田を再三訪れ、俳諧文化を盛んにした。湖族の郷には7基の句碑と「堅田 十六夜の弁」記碑がある。 「病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな」、「からさきの松は花よりおぼろにて」~本福寺 「鎖あけて月さし入れよ浮御堂」、「比良三上雪さしわたせ鶯の橋」~浮御堂 「朝茶飲む僧静かなり菊の花」 ~祥瑞寺 「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」 ~堅田漁港 「やすやすと出でていざよう月の雲」、「十六夜や海老煎る程の宵の闇」~十六夜公園 「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」 「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」 「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」 「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな(堅田漁港)」 「朝茶飲む僧静かなり菊の花(堅田祥瑞寺)」 「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」 「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」 居初家(いそめけ)天然図画亭(てんねんずえてい) 居初家は、堅田の支配層殿原衆の筆頭党首であった(堅田の三豪族:居初家、刀禰家、 小月家)。御厨が置かれると供御人になり、その差配とその後の自由都市形成の運営を 司った。同家はまた、幾多の文人墨客の訪れる所であった。 茶室「天然図画亭」と庭園は、千宋旦四天王の一人、藤村庸軒と弟子の堅田の豪農北村 幽安によって作られた。主室に海北友松(桃山時代の絵師)の花鳥図がある。「天然図 画亭」の名は、寛政11年に天台の学僧六如上人が命名。一茶も同家を訪れ句を残す。 居初家の庭園は国指定名勝。庭園は書院と繋がる茶室「天然図画亭」の東側と北側に位 置し、琵琶湖の浜辺である東側は石垣により境界を成す。天然図画亭からの眺望は琵琶 湖と対岸の三上山を中心とする湖東の連山が遠景となるよう、湖西岸の畔という立地を 生かして設計がされている。 夕陽山 本福寺(本願寺旧跡) 鎌倉時代(1312年頃)、三上神社神職・善道によって創建。馬場の道場と言った。 第三世法住・法師は蓮如上人の片腕とも言われ、比叡山の圧迫から良く蓮如上人を守っ た。蓮如上人から、他に類のない立派な裏書きをいただいて道場の本尊として 賜わった。大谷本願寺が、応仁元年(1465)に比叡山の僧兵に襲われ、近江に 逃げた蓮如上人が、親鸞聖人の御影を本福寺に移された。 堅田港周辺には、今でも多くの神社仏閣があり、古き良き時代の情感が残っている。 以下のサイトには、更に詳細な説明がある。 http://kusahato.web.fc2.com/soukyuan-2/walking/uo-78katata/katata.html http://inoues.net/club3/katata2008b.html |
2016年7月17日日曜日
堅田の歴史
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