比良は比良の山端が琵琶湖の間近まで伸びてきており、多くの集落は そのわずかの場所に散在している。集落の間には、わずかな水田や畑が初夏の 緑に埋もれ、残った空間は林や神社や寺の森の緑に占有されている。 夏は愛想がない、春のような多種多様な色、匂いは消え去り、緑1つと草草の 放つ草いきれだけが支配する世界だ。これらに加えて、肌を塗り込めるような 湿気と絶え間ない雨の雫、大粒の水滴の続く日々、愛想のなさに、やりきれなさ が各人の気持ちをとめどなく押しつぶしていく。 だが、初夏の緑に囲まれた湖面は、藍を溶かしたように美しく輝いている。 これが小暑の季節だ、植物たちの成長の中、人はただ黙ってそれに耐えていく。 この時期、木戸や荒川の山端近くの集落を歩くといつも思うことだ。 二十四節気「小暑(しょうしょ)」については、 この頃から暑さがだんだん強くなっていくという意味であり、例年では 小暑から3~7日くらい遅れて梅雨明けすることが多いようだ。 これを七十二候では、さらに細かく言っている。 ・温風至(あつかぜいたる)7月7日頃 熱い風が吹き始める頃。温風は梅雨明けの頃に吹く南風のこと。 日に日に暑さが増す。 ・蓮始開(はすはじめてひらく)7月12日頃 蓮の花が咲き始める頃。優美で清らかな蓮は、天上の花にたとえられている。 ・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)7月17日頃 春に生まれた鷹の幼鳥が、飛び方や獲物を捕らえる技を覚え、巣からの旅立ちを迎える 頃。日本では古今タカといえば「大鷹」をさすことが多く、優れたハンターであること から「鷹狩り」などに使われた。 この頃、近くの森には親子連れの鷹が悠然と青空を舞っている。 彼はこのような日に出かけたのを後悔していた。 台風が過ぎたとはいえ、夏の顔にならない。陽射しもまだそれほど強くはないし、 なんと言っても、この蒸し暑さはなんなのだ。 体の隅々に水が染み渡るように湿気が私の身体を被いつくす。毛穴からは その湿気が逆流するかのように汗が染み出してくる。首筋と額から頬にかけて 一筋、二筋と汗が流れて行く。まるで私のけだるさと憂うつな気分を声なき 声として洗い出しているようだ。 黒い雲が駆けていく。その間を縫うように白い雲を突き抜けるかのように 陽射しが私の顔に届く。白い雲の上にはさらに高層の雲が秋の天空を 思い出させるかのように霞み光る太陽のまわりにゆっくりと一筆を描くか のごとく流れ過ぎ行く。それは蜘蛛なのであろうか、視界の端にうごめく 黒いものがいる。 季節は少暑、梅雨明けが近付き、暑さが本格的になるころである。 「暦便覧」には「大暑来れる前なればなり」と記されている。蝉が鳴き始め、 そのまま夏空になり、梅雨入りの発表が特定できなくなる年もある。 小暑あるいは大暑から立秋までの間が暑中で、暑中見舞いはこの期間内に送る。 小暑の終わりごろに夏の土用に入る。そんなどうでもよいことを考えながら、 目はじに平板な青さを持った湖を感じながら、 木戸の公民館からやや勾配のある道を樹下神社に向かっていた。 石の鳥居をくぐり蓬莱の山に向かう形で小さく盛り上がった森へと進んでいく。 杉木立が比良の山を隠すかのように立ちふさがり、杉と杉のあいだには、 端正な黒い沈黙が漂っている。生き物の気配はどこにもない。 さらに歩くと、そこからわずかに明るくなる雑木の疎林に入った。 すると、石垣と鳥居が彼を迎えた。奥に桧原葺きの本殿が見える。 その説明文によると、 「御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコトです。 創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられます。 永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄 (比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきました。ところが 元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失しました。 当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭 の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を 十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられました。 日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん とも呼ばれていました。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神 として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。 当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も 「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を 神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山 に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、 東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力 が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が 比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり 替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた) 当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の 古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の 八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方 で有名な祭です。本殿は、一間社流造 間口一間 奥行一間の造りです」 とあった。白山信仰や富士信仰などの山を神として崇める自然信仰が 此処にも残っている。 しかし、今回は神社手前の道を北へと進む。 琵琶湖を横に見ながら小道を行けば是も林が隠すかのような形で木元神社がある。 昔の木戸樹下神社の跡地であり、祭神は、木花咲也姫命、昔の木戸部落はこの 神社を中心に生活していたという。木造りの鳥居が木立の中に姿を見せ、 周囲を石垣でおおわれた小さな本殿が鎮座していた。その小ささが奥ゆかしさを 漂わせている。 萬福寺の白壁が小道の先に見えた。瓦引きの門をくぐると石畳の先に 黒く光る瓦屋根の本堂が数本の松に守られる様な趣でこちらに向いていた。 真宗大谷派東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は宝積山萬福寺という。 相変わらず目を潤すような草花、樹々にはあまり出会わない。せまる比良の 山並みがその緑をここまで押し流してきているようだ。愛想のない小道を 湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを感じながら歩を進める。 大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の山側に猪垣が5段ほどの石積みを なして、数100メートルほど続いていた。苔むした石の1つ1つが時代の 流れを感じさせる。この地域では、昔はあちらこちらにこのような猪垣があり、 集落の出入り口にもなっていたが、往時の姿は今はない。 さらには、大谷川などの氾濫に備えて水防ぎの石垣跡が集落の外れにあった。 この大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社があり、 昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を いただき、祀ったという。少し奥にある百閒堤と合わせ、この辺は水との 戦いの場所でもあったのだろう。自家製のお茶の栽培でもしているのだろう、 茶畑からひょっこり老婆が顔を出し、にこりと笑ってまた消えた。 黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような小さな森、 野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。 川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。 平板とした青の中に3筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の 上には櫛で引いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。 道野辺の濃い緑が目に届き、左の大根畑や右の竹藪の青さばかりが目立った。 大根畑のひしめく緑の煩瑣な葉は、日を透かした影を重ねていた。さらに進むと 日は下草の笹にこぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。 境があるとは言えない野菜畑や茶畑が切れると小さく区切られた水田が現れ、 左手に大きな寺の瓦屋根が日を浴びて光っている。 超専寺は真宗東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は念仏山宝積院 超専寺と号され、三浦荒治郎義忠入道の創始である。 親鸞ゆかりの旧跡であり、上人が越後に流罪になったときにこの地の三浦義忠 が上人の盛徳に感じ入り、弟子となる事をねがい、この時「咲きぬべき時こそ きたれ梅の花、雲も氷もとけてそのまま」と詠まれ、彼に明空と言う法名を 与えた。その後、覚如上人や蓮如上人もこの寺を参詣されたという。 二十四輩の旧跡でもある。「二十四輩順拝図会」にもある。 小さな芝の庭が、比良の山並みを背景にして、烈しい初夏の陽にかがやいている。 芝の切れたあたりに楓を主とした庭木があり、裏の雑木林へみちびく枝折戸も見える。 門の横には、初夏というのに紅葉している楓もあって、青葉の中に炎を点じている。 庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。 左方の一角に大きな庭石が見え、また、見るからに日に熱して、腰掛ければ 肌を焼きそうな青緑の陶の椅子が本堂の手前に据えられている。さらに比良の山並み が続きに沿って透かしたような青空には、夏雲がまばゆい姿を見せている。 これといっててらいのない、閑雅な、明るく開いた庭である。数珠を繰るような 蝉の声がここを支配している。このほかには何1つ音とてなく、寂莫を極めている。 寺を少し山側に上れば、杉の木立に囲まれた観喜寺薬師堂がある。 この周辺を歩くといつも思うが、寺も多い。この近くだけでも木立寺、長栄寺 さらには、正覚寺、安養寺などなど。 比良三千坊の名残り香は消えていない。 >木戸公民館出発(11時)、木元神社(シシ垣)、万福寺道標、万福寺(昼食休憩)、 水防ぎ石垣、 >白鬚神社道標、超專寺となりの茅葺の家、力士の墓(?)、樹下神社遙拝所、国土地理 院標準点 15)昔の西近江路と道標 西近江路は大津の札の辻から穴太、和邇、木戸、小松、三尾(高島)へと続き、 海津から敦賀へ越える道があった。また、北陸と畿内を結ぶ交通の要路でもあり、 様々な人が行きかった。このための道標も多く残っています。近江の街道と言う 本にも、「道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には 「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。」と記述されています。 主に神社、寺院、部落に入り口のありかを教え、白髪神社への道程を示すものも 特に多いようです。 木戸、守山、大物などに多く残っています。北小松楊梅の滝に向うための道標も 小松駅の近くに建っています。 ・木戸 宿駅跡と石垣近くに常夜燈とともにあります。 ・守山 旧街道の横に地蔵菩薩とともに道標があります。 ・大物 旧街道横に二つほど残っています。 かつて近江の湖西地方を通っていた西近江路は別名北国海道と呼ばれている そうですが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が使用されたのか。 『図説滋賀県の歴史』によりますと、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に 散在する石造道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字 を用いている。」とあります。『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載を あげたうえで、「それだけこの道が、北国の海へのイメージが強かったので あろう。」とあり、『図説近江の街道』でも同様の見解が示されています。 しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道という名前がついたのは、 北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてあるからか明確ではない。」 とあります。 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/nisioomi/nisioumi2.html http://members.e-omi.ne.jp/eo2320539/5michishirube/5signpost.html 12)白髪神社の道標 古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも参拝 されました。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていました。 現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)です。 ・大津市八屋戸(守山) JR湖西線「蓬莱」駅下の湖岸通り ・大津市木戸 木戸公民館上の道を少し北へ入ったところ ・大津市大物 大谷川北の三叉路国道の東側 旧志賀町では、4箇所です。 建てられた年代は天保7年で、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離 (土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に 建てられた「天保七年」が刻まれています。 二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われますが、 ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け 継がれてきたものです。その最後の道標が八幡神社の参道の手前にあります。 http://shirahigejinja.com/douhyou.html http://kaidouarukitabi.com/map/rekisi/nisioomi/nisioomimap1.html ⑬本立寺(真宗 南比良) 真宗大谷派東本願寺の末寺で、山号は法持山本立寺と号す。 承和元年(834)天台宗の彗達により創始され、文徳天皇の快癒を喜び、法華経の 「我本立誓願今者己満足」から寺号を本立寺とした。その後、蓮如の教化により、 真宗に転承した。顕如上人より親鸞の「三狭間の真影」を賜り比良山中から現在の 地に移り、500年以上を受け継いでいる。 本寺が湖畔に移ったときに残された薬200体の地蔵があるが、その地蔵跡もある。 ⑮長栄寺(日蓮宗 大物) 日蓮宗本長寺に属している。元和年に創立された。感応院日安(この地の代官小野 宗左衛門といわれる)によって創立された。 6)毘沙門天(木戸) 比良山が荒廃した時代、毘沙門天が道端に棄てられていた。村人が祠を守る神として祀 られ、地域の氏神とともに ある。祭日は毎年1月の寅の日となっている。 7)寺屋敷遺跡(木戸) 打見山にあり、昔の比良三千坊の寺院の1つといわれます。この寺跡に 大正12年ごろ不動尊が安置されました。 なお、木戸には「臼摺りうた」と言う、ちょっと小粋な歌があります。 東山から出やしゃる月は さんしゃぐるまの花のような 高い山には霞がかかる わたしゃあなたに気がかかる あなた何処行く手に豆のせて 好きなとのごの年とりに 頭上には黄や赤の入り混じった葉が残光を透かしていた。そこからのぞかれる 憂わしい夕空に、煌めく緑のきわめて重たい冠が一瞬掛かったように、静止して見えた 刹那があった。この放り上げられ冠は、羽ばたきによって解体され、栄光は散乱した。 攪拌する羽ばたきが、空気の重たくなった、母乳のように濃くなり、忽ちも モチのように翼にまつわりつく力を語っている。鳥は、自分でもわからぬながら、 突然、鳥である意味を失ったのだ。翼のあがき、それを思わぬ方向へ横滑りさせる。 いくら見透かしても見透かせぬあたりで、鳥は急激に落ちた。 勲は雑木林から竹藪のほうへ駆け下りた。竹藪の中には水のような光が漂っていた。 鳥は固く目をつぶっていた。赤い毒キノコのような斑に満ちた羽毛が閉じた眼を囲んで いる。 ふっくらした金属の光彩、ふくよかな鎧、暗鬱に肥った、夜の虹のような鳥だ。 のけぞった部分の羽毛が疎になって、そこがまた別の光彩をひらいている。 首のあたりは黒に近い葡萄紫の麟毛である。胸から腹にかけて、前垂れのような濃緑の 羽毛が重複して、光をこもらせている。 湖面は大溝の出鼻をとりまいて、半紙を敷いたように白かった。 いつみても変わりないはずの琵琶の水が、今日は冷たく沈んでいるような気がした。 陽の輝きはじめた湖面は朱をとかしたような色の中で、こまかいちりめん 皺を光らせ はじめた。 湖面へ桟橋がつき出ていて、いま、暮色になずみはじめた水面に点々と?の さし竹が ういてみえる。 琵琶湖は山の奥の暗い湖じゃと思うておった 高次は、整然とひろがる町並みを眺めたあと、遠い湖面を見やった。 冬の朝である。 清澄な空気は、陽を受けて、いま橙色に湖面の小波を輝かし、 遠い山影をくっきりとう かべている。
2016年7月23日土曜日
小暑木戸の周辺
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