小野周辺古墳 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.html http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8b46.html 幻住庵 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0b62.html 高島安曇川 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-7419.html 松尾芭蕉 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/89-2469.html 芭蕉が初めて大津を訪れたのは1685年の春、『野ざらし紀行』の旅の途中でした。 『山路来て何やらゆかし菫草』『唐崎の松は花より朧にて』の二句を詠んだのもこの時 でした。 大津の美しい景観が気に入った芭蕉は木曽塚の草庵(現・義仲寺)に仮住まいし、 その後「奥の細道」の旅に出ました、旅を終え、旅の疲れを癒すため、芭蕉は 再度大津を訪れ、大津市国分にある幻住庵で4ヶ月程過ごしました。 幻住庵からの眺望と山中での生活が気に入り、ここでの体験をもとに書いたのが有名な 「幻住庵記」で、「奥の細道」と並ぶ傑作と言われています。 以後も大津を第二の故郷のように愛した芭蕉は、 「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」 「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」 「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」 「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな(堅田漁港)」 「朝茶飲む僧静かなり菊の花(堅田祥瑞寺) 「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」 「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」 「唐崎の松は花より朧にて(唐崎神社)」 「行く春や近江の人とおしみける」 「大津絵の筆のはじめは何佛」 「石山の石にたばしるあられかな」 「古池や蛙飛び込む水の音」など、大津で多くの句を 詠み、その数は芭蕉の全発句の約一割にあたる89句にものぼります。 志賀町史第4巻より ①北小松古墳群 写真では石室などはしっかりとしている。 ②南船路古墳群 ③天皇神社古墳群 ④石神古墳群 小野神社と道風神社の中間、形は残っていない ⑤石釜古墳群 和邇川沿いの井の尻橋付近 ⑥ヨウ古墳群 ゴルフ場と和邇川の中間 ⑦前間田古墳群 ⑥の隣り ⑧曼陀羅山北古墳群 小野朝日の西側 ⑨大塚山北古墳群 ⑧の北側 ⑩ゼニワラ古墳 ⑨の北側。玄室の写真あり ⑪唐臼山古墳 小野妹子公園の中 ①ダンダ坊遺跡 北比良タンタ山中。比良管理事務所付近 小野神社と古墳紹介 白洲正子「近江山河抄」より 国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、 大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の 尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと 重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から 湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、 思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、 いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように 迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。 大津の神社 http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/otsu.html 大津市古墳群紹介 http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/pom25201kokubu.htm 百穴古墳群はその数に圧倒される。 滋賀県大津市滋賀里。何とも鄙びた郷愁を感じる町名ではありませんか。考古学や古代 史、それに民族学に興味のある方には意外と知られている地名で、実は滋賀里周辺は遺 跡や古墳の宝庫なのです。特に崇福寺跡や倭姫塚、南滋賀廃寺や穴太廃寺、高穴穂宮跡 など名前がある遺跡だけではなく、無名の大小様々な古墳や遺跡が出土しており、ヤマ ト朝廷が大和を拠点とする以前から、数々の渡来人が住み着いたと言われる近江国の歴 史を鑑みると、これらの遺跡群も何となく納得できますね。 京阪電車滋賀里駅正面の八幡社の左側道路を比叡山に向かって急な勾配の坂道を上り 人家が途切れた先の右側に鬱蒼とした竹林が見えますが、ここが百穴古墳群と言われる 地域です。正確な墳墓は不明ですが大凡150基の墳墓が在るとされ、現在までに60基以 上 が発掘されています。 墳墓や建立様式からは6世紀後半のモノとされていますので、 天智天皇の大津京より100年前ということになり、この古墳群からもこの周辺が渡来系 豪族の拠点だったとされる所以です。この直ぐ北側の滋賀里二丁目では昭和40年代前半 の宅地造成に際にやはり広大な竪穴式古墳が出土し、かなりの勢力を誇った氏族が居た 事を裏付けています。 百穴古墳群の先には地元の人が「オボトケさん」と呼ぶ石仏が 祀られ、そこを過ぎると崇福寺跡に至ります。 山道は今も残っていて比叡山を越えて京都白川に至りますので、興味のある方は是非! 大津歴史博物館 http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/index.html 和邇や周辺文化財の一覧が参考となる。 堅田周辺、春日山古墳群や真野郷の史跡 http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-kasugayamakofun.html かすがやまこふんぐん【春日山古墳群】 滋賀県大津市真野谷口町にある古墳群。琵琶湖の西岸、堅田(かたた)地区背後の滋賀丘 陵の先端部に位置し、約220基からなる湖西地方最大で古墳時代後期の古墳群。5世紀代 に始まって6世紀後半に集中的に形成され、7世紀初頭に築造が終わったが、古墳群の中 心をなす春日山古墳以外はほぼ6世紀後半の円墳である。古墳群が所在する地域は、和 珥部臣(わにべのおみ)(壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)側につい て活躍した豪族)、小野臣(おののおみ)、真野臣(まののおみ)など和邇(わに)氏につな がる氏族の居住地で、彼らとの関連が強いと考えられる古墳群である。古墳は6群に分 けられ、これまでE支群と呼ばれてきた1群は23基の古墳からなるが、5世紀代の全長65m の前方後円墳である春日山古墳に始まって、2基の大型円墳が築造され、2小群に分かれ ると、6世紀後半に横穴式石室墳がこの2小群に継続して造られ、新たに1小群が誕生す るという推移を見せる春日山古墳群における中枢群である。埋葬の形式は、横穴式石室 や箱式石棺、木棺直葬とバラエティに富んでいる。1974年(昭和49)に国の史跡に指定 された。JR湖西線堅田駅から徒歩約15分。 曼荼羅古墳 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.htm 歩きながら思ったのは、たとえば霊山やスピリチュアルなものを探して 人は遠くへ行こうとするけど、 素晴らしい場所が意外な足元にあったりする。 それを掘り起こして撮っていこうというのが、このシリーズの始まりだった。 白洲正子さんの「近江山河抄」を手がかりに歩いてみようと思ったのは、なぜだろう。 この風景を、今のうちにきちんと撮影しておきたいと思ったことが大きい。 ・・・ 「近江山河抄」の風景は、現に消え行く風景になっていないだろうか。 消え行くことさえ気付かれないまま、静かに消えようとしている風景があるとしたら。 この風景を撮っておきたいと思った。近江(滋賀)は、私の故郷でもある。 木の岡古墳 http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/2-e0f0.html 堅田観光協会 http://katatakankokyokai.com/mano.php 大津市南部の古墳 http://obito1.web.fc2.com/ootuminami.html 参考 http://www.sunrise-pub.co.jp/%E5%85%B6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E3% 80%80%E6%B6%88%E3%81%88%E3%82%86%E3%81%8F%E3%83%A4%E3%83%8A/ やな漁 10月も下旬頃になると、朝夕はめっきり気温が下がって、時折、湖上を北西の強風が吹 き抜けるようになる。12月の始めにかけて、こんな荒れた日やその翌日には、体を紅色 に染めたアメノウオが、琵琶湖から産卵のために川を上ってくる。アメノウオとは、万 葉の昔からのビワマスの呼称で、この魚を捕獲するために川に仕掛けられるのが「ます ヤナ」である。また、ビワマスとは、成長すると全長60㎝にもなる琵琶湖だけに生息す るサケ科の魚である。 琵琶湖のヤナというと安曇川河口に設置されるアユのカットリヤナがよく知られてい るが、おそらく古代から近世に至るまで、川の河口や内湖の出口にはどこでも、サイズ や構造が異なるさまざまなヤナが仕掛けられ、湖と川や内湖の間を移動する魚類が漁獲 されていたものと思われる。ヤナという漁具は、魚が獲れるかどうかは魚まかせのとこ ろがあるが、ヤナを設置する権利を得ると、待っているだけで魚が手に入るという便利 なものである。そのために、ヤナの漁業権を得ることは、その地域のかなりの実力者で その時代の権力者と結びつきをもった者でないとかなわなかったものと考えられる。写 真は、安曇川の南流に北船木漁業協同組合によって今も設置されている「ますヤナ」で ある。北船木漁業協同組合では、毎年10月1日に、京都の上賀茂神社へビワマスが現在 でも献上されており、古代の結びつきの名残がうかがわれる。 ところで、安曇川の「ますヤナ」が「今も設置されている」と断ったのは、かつて琵 琶湖では各所で見られたこのヤナが、どんどん消えているからである。小さな川のヤナ はほとんど消えたし、大きい川でも私が知っているだけでもこの20年ほどの間に犬上川 、愛知川、知内川、百瀬川などのアユやマスのヤナが消えている。 時代の流れとは言え、ヤナに限らず恐らく数千年の歴史をもち、その権利を得るため にどれほどの犠牲や労力が払われたか知れないヤナなどの漁業権やそれを行使する漁労 文化・技術がなくなってきていることは寂しい限りである。アメノウオを獲るための「 ますヤナ」も、もう写真の安曇川の南流のものしか残っていない。魚の減少にともなっ て、生業としてのヤナ漁が成り立たなくなってきているのである。琵琶湖の在来種を増 やし、漁業としてのヤナ漁が存続するようにすることが必要である。 滋賀県水産試験場 場長 藤岡康弘 日吉大社と宇佐山 http://uminohakata.at.webry.info/201409/article_1.html 訪問の城跡は、 北比良、小松、衣川、壷坂山、坂本、細川、生津、宇佐山の8つがある。 他には、大津、膳所なども近くにあるが、浜大津から東であり、対象外。 滋賀の城跡 http://www.oumi-castle.net/bunrui/ootu.html 日本城郭大系という本がある。 滋賀の城郭 http://maro32.com/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%9F%8E/ 志賀町史第4巻からは、 1)小松城跡 戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中 に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。 当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて いたであろう。 旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、 跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。 2)比良城跡 比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道 がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の 古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると 「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院 より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。 3)歓喜寺城跡 大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。 歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面 尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。 この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭 はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが 認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や 北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。 4)荒川城跡 荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての 文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に 古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、 同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。 5)木戸山城跡 現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は 古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸 越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。 しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に 破壊されたのかもしれない。 まさに之は「春 望 <杜 甫>」の世界かもしれない。 國破れて 山河在り 城春にして 草木深し 時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす 峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る 白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す 戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、 町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、 (平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、 (心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。 うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、 たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。 心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし) もさすことができないほどである。 さらには、 6)衣川城跡 細川高国に滅ぼされた湖西の城塞跡としては、JR湖西線の堅田駅からほぼ路線沿い に進んだ先にある住宅地の中に衣川(きぬがわ)城がある。 現在は児童公園となっており石碑と解説板がそれぞれ設置されている。日本城郭大系 では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったとのみしか紹介されていませんので、ま ず歴史背景は現地の解説板を元に紹介する。 衣川城を築城したとされるのは、文暦元(1234)年の「粟津の合戦」で武功をたてた 山内義重がこの地を賜り築城したとされる。 先ほど名前を出した山内駿河守宗綱は11代目に辺り、浅井公政、京極高清らと共に永正 5年(1508年)から8年もの間、近江、坂本、石山らの戦いで朝倉貞景らを 相手に取り、勝利を収める、大永6(1526)年に細川入道高国に攻撃され落城した。 その後の歴史に関しては記載されていませんが、廃城となった。 現在の公園は琵琶湖から見ると随分と高台に位置する。また二段構えのような構造に なっており、当時の郭の跡を利用しているのかと勘ぐってしまう構造。また一部に土塁 のような土盛を確認できますが、これも当時の遺構かどうかは分からない。 見所は正直多くありませんが、周辺も舗装されており、年中時期や天候を問わずに訪問 できる城跡。 7)宇佐山城 現地の状況 宇佐山城へは近江神宮に隣接する宇佐八幡宮の参道から登ること約20分 で尾根に出るが、道は少々判り難い。 宇佐山城は3つの曲輪から構成されており、テレビ塔の建っているところが本丸で、南 側の一段下がった曲輪の南斜面には20メートルにわたって高石垣が築かれている。 雑木のために展望は北方しかきかないが、この方面には今道越え(山中越え又は県道30 号線)があり、雑木を刈り取れば今道越えを一望できることは間違いない。 また、少し距離はあるが、逢坂越え(東海道)をも押さえることは十分可能であり、織 田信長が京への街道を確保するためにこの宇佐山城を築いたことが窺える。 元亀元年(1570)4月、越前・朝倉攻めの際、浅井長政に背後を衝かれ、あわてて京都 へ逃げ帰った織田信長は、京都から岐阜城へ帰陣に先立ち築いた城が宇佐山城で、 配下の森可成(よしなり)に守備させた。 元亀元年9月、石山本願寺攻めをする信長の隙を衝いて、浅井・朝倉軍は宇佐山城を 攻めた。浅井・朝倉軍は2万、これに対し宇佐山城を守る森可成の配下は500人余り、 城兵は奮戦するも、9月11日に落城した。 宇佐山城の落城を知った信長はすぐさま摂津より引き返し、宇佐山城を奪回し、比叡山 壺笠山城に楯籠もる浅井・朝倉連合軍と対峙したが、比叡山からの援助を受ける浅井 ・朝倉軍に対し四方に敵を抱えた信長は、勅命を仰ぎ和議を結ぶと岐阜に帰陣した。 翌元亀2年9月、信長は浅井・朝倉に味方した比叡山に対し焼き討ちをかけた。元亀3年 (1572)に坂本城が築城されると、宇佐山城も廃城となった。 8)大津陣屋 大老堀田氏の子孫が統治した大津の陣屋 大津市堅田の浮御堂のすぐ隣の駐車場に堅田陣屋の案内板などが残ります。 元禄11(1698)年に、徳川幕府大老の堀田正俊の三男正高が、下野国から堅田に移り、 堅田藩の中心として陣屋を建設したと日本城郭大系に説明されています。 文政9(1826)年に、当主の正敦が再び下野佐野に移転されると、堅田藩は廃止になり 徳川幕府が直接治める天領となったそうです。 目だった遺構はありませんが、近くの伊豆神社へ繋がる舟入遺構など水路はよく確認で きます。あと、有料(300円)ですが冒頭の浮御堂から、陣屋方向を眺めてみるのがオ ススメです。 城跡として見所は決して多くはありませんが、JR堅田駅から琵琶湖方面へ歩き、周辺に は中世の城塞跡とされる伝承地も少なくない場所なので、天気のいい日に、湖畔をじっ くりと散策してみると楽しめると思います。ちなみに浮御堂ですが、正式名称は満月寺 といい、その歴史は古く平安時代に遡るそうです。 江戸時代の俳人・松尾芭蕉も訪れたそうで、その句が記念碑として境内に設置されてい ます。 琵琶湖に浮かぶ情緒ある建物は昭和初期に再建されたもので、堅田陣屋の頃の建物では ありませんが、堀田氏もこの景色は楽しんだでしょうね。 当サイトだけでなく、日本城郭大系などでも堅田陣屋の写真として紹介されていますが 、こちらは陣屋と直接の関係はありませんが、こちらも合わせて訪問したい観光スポッ トです 9)大溝城(滋賀県) 明智光秀が縄張りした信長の甥・津田信澄の城 滋賀県高島市。2005年に合併新設された街で、そのため市域が相当広大になったため、 管理人のようにしばらく関西から遠ざかっていた方には、旧高島町といったほうが場所 がイメージしやすいと思います。 JR湖西線の近江高島駅で降りると、目の前にガリバーの像が建っている広場があり、そ の右手に総合病院があります。その病院の駐車場部分と隣接した場所に大溝城の天守台 などが残ります。 明智光秀の縄張りとされ、城主は若かりし織田信長に叛き、殺害された実弟の信行の嫡 男・津田信澄(父の一連の事件の関係で織田氏を名乗らず、津田氏を名乗った そうです)。 しかし、信澄は信長には大変気に入られ重宝されていたようです。 浅井長政を滅ぼした後、信長は信澄を、高島を治めていた磯野員昌の養子に入れ、その 後、信長が員昌を追放するような形で信澄に、高島の地を与え、この大溝城が完成した とされます。 天正10(1582)年に「本能寺の変」で信長が斃れると、光秀の娘を妻にしていた信澄にも 嫌疑がかけられ、四国征伐の副将の一人として大阪にいた際に、丹羽長秀らの軍によっ て野田城(大阪城内の二の丸千貫櫓とも伝わります。)で殺害されました。享年28歳の 若さだったそうです。 その後、この城はいくつか城主を代えながら、豊臣秀吉の時代には京極高次が城主をつ とめます。 訪問した時が2012年の5月で、前年のNHK大河ドラマ「お江」の影響でしょうが、高次の 妻だった浅井三姉妹の次女「お初」が新婚生活をすごした城としても現地では解説板な どで説明されていました。 現在の地形も琵琶湖はすぐ近くですが、当時は琵琶湖の水を取込んだ水城だったそうで す。 慶長8(1603)年に一度は廃城になり、あらためて徳川幕府が成立した後の元和5(1619 )年に分部光信が2万石でこの地に入り、大溝藩を樹立。 かつての大溝城三の丸付近に大溝陣屋を建て、その惣門は現在も残されています。 さて、この大溝城ですが、この近辺は個人的に相当思い入れがありました。20代の頃、 当時の愛車スカイラインでよく琵琶湖一周などを楽しみ、この湖西エリアは毎週通って いました。 そんな懐かしの旧高島町にも、天守台の石垣が残る城跡があることを知り、迷うことな く訪問。残された遺構はわずかですが、はっきりとそれと天守台の形がわかる形で残さ れていることに感激しました。 小ぶりな天守ではありますが、一応天守台の上に上がることもできます。ただ初夏に訪 問したため、足元で突然カエルが跳ねたり、また一匹でしたがスズメバチに一時追いま わされるなど、少し怖い目にも・・・ 街中の平城跡ですが、暖かい季節の訪問は、ちょっとした小さな森のようになっている ため、多少は注意をした方がいいかもしれません。 湖西線は電車の本数なども少なく、公共交通機関での訪問は少し躊躇してしまうところ もありますが、旧高島町域だけでもゆっくりと歴史散策が楽しめるのでオススメですね 。ただ大型ショッピングセンターなどが駅前にはない街のため、トイレなどには多少不 便な場所だと付記しておきます(訪問時、駅前にコンビニが建設中だったため、今は少 し変化しているかもしれませんが)。 10)坂本城(滋賀県) 安土城につぐ名城と謳われた明智光秀の居城 1571(元亀2)年、日本史上に大きく残る比叡山の焼き討ちの後、織田信長が当時、近 くの宇佐山城主だった明智光秀に命じ築いたのがこの坂本城とされます。 宣教師ルイス・フロイスの著書である「日本史」によると安土城に次ぐ華麗な名城だっ たと伝わります。 この城を拠点に明智光秀は近江の平定を目指し、1580(天正8)年には丹波の亀山城の 城主になるも、引き続きこの坂本の城主も務めていたようです。 1582(天正10)年に「本能寺の変」で主君・信長を討った光秀は、その10日後ほどに羽 柴秀吉軍と京都山崎で激突。敗れ、この坂本に逃げ延びる途中で、京都伏見の小栗栖で 農民らに襲われこの世を去ったとされますが、それを知った安土城に入っていた光秀の 重臣・明智秀満によって、坂本城は天守に火をかけられ落城したと伝わります。 その後、秀吉方についた信長の重臣だった丹羽長秀によって再建。秀吉と、同じく信長 の重臣だった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは基地として機能しましたが、その戦後1586 (天正14)年に秀吉が浅野長政に命じて、近くに大津城を築城させ、建造物なども移築 。坂本城は廃城になったとされています。 現在は国道161号沿線のキーエンスの研修所になってる場所が本丸とされ、研修所の入 り口に記念碑が設置されています。 そこから南へ少し移動したところにある坂本城址公園の琵琶湖の浜辺には石垣が残りま す。この沿岸には埋もれている石垣が多く、おそらくは坂本城の石垣だと思います また妙に古代の埴輪のような明智光秀の像も建っていますがほかに目立った遺構はあり ません。公園から東北側にある二の丸付近にも、小さな石碑が設置されています。 かさねがさね残念なのが、この滋賀県大津市には琵琶湖に接した建物も美しい城がこの 坂本や、文中にも出た大津の他、日本三大水城の一つにも数えられる膳所城があるもの の、どれも往時の荘厳な姿を見ることができないことです。 遺構は今触れたように、決して満足いくものではありませんが、個人的には、日本史上 に於いて重要な役割を担った明智光秀の居城に訪問できたこと自体で満足ですね。 11)田中城跡 高島市 上寺(うえでら)集落の裏山にあることから、通称上寺城と呼ばれる。 急傾斜の山全体に、段々畑のような「郭」が築かれており、その規模は高島郡では新旭 の清水山城跡に次ぐ大きさと言える。 元亀3年(1570)、織田信長は越前の朝倉義景を討つため「田中の城」に逗留した と「信長公記」に記載されてるが、まさしくこの田中城には信長とのちの豊臣秀吉、徳 川家康の武将が逗留したことになる。 高島市には、かつて「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院が存在しました。「七 カ寺」と称される寺院については諸説ありますが、『近江輿地誌略』では長法寺を 「高島郡七箇寺の第一」としています。長法寺の創建や廃絶した年代は不明ですが、 開基は慈覚大師円仁とも伝えられています。 また、伝承では織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したとされますが、 室町時代末に廃絶した後、その所在は長らく不明となっていました。昭和 31 年、県立 高島高等学校歴史研究部によって再発見された時には、ほとんど人の手が入らない状態 で、 今なお中世に栄えた山岳寺院の姿を伝えています。 今回の探訪は、高島町観光ボランティア協会のガイドと市と県の文化財専門職員が同行 案内し、近世城郭のような大規模な石垣や石塁、ひな壇状の造成地にみられる高度な土 木技術により造営された長法寺遺跡を詳しく訪ねます。
2016年7月17日日曜日
坂本から堅田、小野など古墳神社、湖西の城跡
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