2016年2月29日月曜日

南小松、八屋戸探訪

南小松、八幡神社にて
やや黒味を帯びた松林の間には、白き碧さの湖が静かに横たわっている。目を
転じれば、東からの陽光を浴びる比良の山端の切れたあたりに小さな湖がいた。
先ほど乗ってきた電車の去る音が静かな時の流れを引き裂いていく。
まずは、比良山系に向かって緩やかに上る小道をたどり始めた。国道を横切り
更に小道を歩くと、石の道標が出迎えた。「白髭神社 京都壽栄講」とある。
地元古老の話では、江戸時代には、京都から白髭神社にお参りに来る人が多く、
そのための道標が多く立っていたという。今は、7つほどが残っている。
その道標の先にある家の庭には敷き詰められた石と淡然とした趣のある石灯篭が
こちらに向かってにこやかな笑いを帯びた風情で置かれていた。
横を手押しの車を押して白髪の髪を後ろでまとめ上げた女性が、ゆっくりとした
テンポで通り過ぎていく。がたがたという音がやや朽ちた壁と石畳の道の間に
強く響いていゆく。その先には、八幡神社との刻銘がある常夜灯の大きな
石の影が道を寸断するかのように、一直線に伸びていた。
その常夜灯の先に八幡神社があった。
古老の話と説明文から、
「南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬大師
と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁によって
この地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。大師が直ぐに目を覚まし
夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、水中に飛び込み
引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と
白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています」と説明されている。
大きな狛犬が、本殿を守るかのように鎮座していた。
右のそれのたてはやや逆立つように大きな目は怒りを含んで本殿に向かう
ものへの畏敬を望んでいるようであり、左のそれは緩やかな鬣にあわすかのように
目や口の造作から穏やかな空気が流れ出て切るようだ。ともに180センチ
ほどの大きな体を悠然と台座の上に横たえ、周囲を圧した空気を発している。
静かな空気を剥ぎ取るようにどこからか水音がした。
本殿の横、石の水路からその音は出ていた。水路は小さいものの、水しぶきが
水路にそって伸びる苔の帯に降り注いでいる。小さな光の筋がその緑に絡み
つくように映え、水の強さをさらに深くしているように見えた。
水音をたどれば、後背の杉の群れの中に消え、念仏山といわれる比良の前面に
ある小山へと続いているのであろう。また下へとたどれば、神社の石垣に沿って、
正面の鳥居の下へとそれは続いている。小さいながらも、まるでこの神社を
守るかのように水音が周囲を覆っている。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
がこの地域を巡るという。本殿の前には、土俵の堤があり、八朔祭(9月1日)
が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催される。子供たちが裸電燈の下で
勢いよくぶつかり合い、周囲からの声援で踏ん張り、そして投げを打つ。
そんな様が自身の少年時分の思い出と重なって古いトーキー映画のごとき
緩やかなモノクロの映像の流れにしばらく身を置く自分がいた。
昭和といわれた時代の名残香が一瞬鼻をつく、しかしそれは50年以上の
古き香りなのであろう。
さらさらという水音に、沖天の光の中にいる自分、引き戻された。
狛犬の目が一瞬、お前はここで何してんねん、と言っているようでもある。
石と水の里、そんな想いがさらに強まった。

八屋戸、若宮神社周辺にて
頭上には黄や赤の入り混じった葉が残光を透かしていた。そこからのぞかれる
比良の山端が澄んだ蒼さの空に、煌めく緑の円錐が一瞬左右へと揺れ、微動した
ように見えた。影を落とす細い道は滑らかに磨かれた石が敷き詰められ、小さな
森まで続いている。横の水路では、多くの水滴をはね、光を反射し、くねりつつ
いく筋もの水縞を作りながら彼の進む方向とは逆行して流れ去る。
比良の恵みとなる水を石造りの三面水路で引き込み、家々の生活用水として
長くその恩恵を受けてきた。そのような水路が地域を縦断する形でいくつも
あるという。
守山石という江戸時代からこの地の特産品として庭石や神社の基礎石として
使われてきた石が観賞用の庭石や庭全体を覆う形での敷詰め石としてこの
地区の家々には多く見られる。さらには、これらの石は比良の湊から対岸の石山寺や
大津城などの石垣にも使うため、船で運ばれたそうだ。立ち並んだ倉庫や
石細工をするための小屋などの名残がその痕跡を名前や史跡などに残っている。
小さな神社がまだ若い杉の木立に見え隠れしている。その背後に広がる
竹藪の中には水のような光が漂っている。苔に覆われた道を行くと、ぽっかりと
木々の屋根が消えた下にやや薄緑を帯びた水面を持つ池が静かにそこにあった。
水面に揺れる光の群れと何処からか漏れてくる湧水の水音が一定のリズムを
持ち、彼の体に染み込んできた。
人の気配はあるが、人が見えない。そんな不可思議な世界に彼一人が、水と
光の空間に立ちつくしている。
さらに入り組んだ小道を歩き、白い壁の土蔵の美しさに思わず立ち止まり、
緑の中に橙色のかんきつの小さな実をなでながら、登り道から下りへと
方向を変えてみた。比良の山並みが後押しをするかのようにその歩は早まり、
1コマづつの写真が古きトーキーの映像のようにゆっくりと流れ去っていく。
眼前には琵琶湖がさざ波の模様を引き、観光船の大きな波痕を深く描き、
対岸の八幡山の小さな山影や沖島の茫洋とした姿を見せながら、浮かんでいた。
神社に向かって歩いていたときは、気が付かなかったが、湖に沿って走る
国道に向かって歩き始め、その青と白とやや薄い水墨画的情景の広がりの
ある湖面に思わず、見とれた。
歩くにつれて石の持つ情景が幾重にも重なっていることに気が付いた。
家々を取り巻く石垣がちょいと入った路地を一直線に横切っている。
そのさして広からぬ田畑は、何段かの棚田となって湖に下り落ちるように
耕されているが、それは大小の石で造られた石垣で丁寧に囲われていた。
縁側が日の中でまばゆい光を発しているその庭には守山石で造られた石灯篭
があり、その造りは真っ直ぐといきり立つ宝珠、それを受ける見事な請花、
露盤のくびれも見事であり、蕨手(わらびて)の先っぽまで反り上がる笠
のラインはその優雅さに思わず見とれる。火袋を受ける中台に施された
十二支の彫刻の精緻さは素人目にも多くの石工がこの地域で活躍していた
そんな証、所在なげに置かれた庭の石たちに見られた。
この辺をよく知る人に案内され、湧水のある林に向かう。
杉の林が切れかかり、湖の淡い碧さが垣間見れるところに小さな泉があった。
クレソンがその小ぶりの葉を緑の光の中に浮きだたせていた。白い砂地から
幾重もの輪となって水がふつふつとわいている。
透き通った水の中を飛ぶように動くものがあった。数匹の小エビだった。
クレソンの葉に隠れ、またそこから飛び出し、自由奔放の時を過ごしている様だ。
この小さな水の世界が彼らの全世界なのだ。
気が付けば、背後にはこの里を慈しみ、守るような形で、比良の山並みがその緑と
赤のパッチ模様の山肌をみせ佇んでいる様だ。
まだここには古き時代の生活とその匂いが残っていた。
最近は、若い人が移住したり戻ってきたりしているという古老の話は、
この情感の中では、すとんと心に落ちる。

2016年2月14日日曜日

かんじる比良の活動

今年も5月16と17日に「かんじる比良2015」が開催された。
比良山系と琵琶湖に囲まれた自然豊かな湖西の春のイベントとして8回目を迎える。
38の出展のお店や作家の工房が約10kmほどの地域に点在するが、
琵琶湖の蒼さと比良山系の緑を見ながらの散策は中々に楽しいものである。
今回参加のお店を回りながらも強く印象に残ったのは、比良山麓や林の中にある
お店の柔らかな雰囲気と集う人たちの醸し出すゆったりとした雰囲気だった。
雑踏の中で味わうコーヒーや食事とは全く違う世界での体験であり、ここで
生活を営む人たちの心地よさをおすそ分けするかのようなおもてなしがある。
効率性と非人間性の優先される日常の日々では味わえない空気をその五感で感じる
ことができる。そんな雰囲気を味わいたいのか、今年も二日間とはいえ、大阪、
兵庫、京都、福井からの参加も含め5000人ほどの来場者があった。
「かんじる比良の会」代表の山川さんとのお話や当日の情景を交えながら報告する。

大津市の北に位置する比良は、琵琶湖と比良山系にはさまれ、人々の暮らしと自然が
融合した地域である。また、古代から交通の要衝でもあり、多くの古墳や城跡が点在
もする歴史や文化が息づいている地域でもある。そのような中に、先祖伝来から
この地に暮らしその伝統や田園を守り続けてきた人、この地に魅せられ移住
してきた人、ギャラリー・工房を構え創作活動する人など様々な人々が思い思い
の暮らし方で住んでいる。

「かんじる比良」は2007年11月、19店のショップと作家さんのご協力
で始った。比良地域の自然、歴史、アート、文化、食の魅力を発信しようと
湖西線沿線の蓬莱から北小松に点在する工房を中心に飲食や雑貨を扱う店などが参加
した。また、比良の雑木林や湖はモノつくりの人たちの創作の場としても愛され
ており、地域の作家さんの協力で比良川の畔で野外造形展も開催された。
2回目以降は「滋賀の作家展」が地域のお寺の本堂で開催され、3回目は、大津市
の歴史博物館で比良から離れて開催する事も試みられた。2008年は大津市の
新パワーアップ・夢実現事業に認定され、のぼり、巡回バス、ポスター、ガイド
ブックが活用された。それ以後、手作りから始めたイベントもホームページや
facebookの開設やイベントが終わったあとでも来られる人のために工夫した
ガイドブック作りなど試行錯誤を重ねながら地域のつながりを更に強めるイベント
になって行った。
「かんじる比良」は、比良に住み、仕事場としてその自然に触れながら生活を
する陶芸作家、木工の職人、カフェ経営者などが「かんじる比良の会」の実行
委員会として、その年の初めから毎年5月の開催に向けて出展者を集め、地元や
関連部門との調整、広報のためのポスターやガイドマップ作成、ホームページ
の更新などを進めていく。今回も40人の会員(うち出店者38店)と10人の
協賛会員がそれぞれの役割分担で、イベントを開催した。ガイドマップ作りや
ホームページ更新などは全て委員会のメンバーの手作りであり、会場の運営も
ボランティアや協賛メンバーの支援で行っている。
人とのつながり、地域とのつながりがこのイベントの特長でもある。
当日は、普段は公開していない作家の工房やアトリエを開放したり、ギャラリー
などでは地域にちなんだ展示をしたり、比良にゆかりのある作家たちの作品展、
里山コンサート、各参加店では「かんじる比良」限定企画など開催してきた。

「この比良には、琵琶湖と比良の山並に囲まれた自然があり、それに魅かれて
移り住んでいる陶芸や漆塗り、木工などの作家が多くいる。また、パンやケーキ
などの食を扱うお店も点在している。この人たちを上手く結び付けられないか、
ここの良さをもっと知ってもらえないかと思ったのが、始まりです。」
と山川さんと話す。
一日目は、少し曇っていたが、二日目は気持よく晴れ上がった。山側の工房や
お店を探訪するには、木洩れ日の中をゆったりと歩き、湖畔のお店では、琵琶湖の
さざなみの中で一服する。そんな光景も見られた。いずれもこの自然に引き
寄せられてきた人々がその想いを分けるような気持ちで訪れる人を招き入れる。
その自然体のやり方が、このイベントの良さであり、他では出来ない「おもてなし」
なのであろう。

更に、山川さんは、
「工房や作家さんたちは、本来の仕事を中断しての出店であり、無理をせず、
出来る範囲で出展をお願いしている。ただ、来てもらった人たちが楽しく
過ごしてもらいたいとの想いから工房の開放、体験教室、ミニコンサート、期間中の
特別メニューなどそれぞれが工夫を凝らし楽しく盛り上げてもらっています。
この楽しさが参加者と出店者の共感となって今日まで続いて来たような気がする」。
無理をしないという点では、今でも続くこの周辺の遺跡めぐりの「歴史ハイキング」
も会員の負担となるため、秋に1回の開催とした。運営も今は、会員の会費と企業
からの協賛金のみ、開催に絡む様々な対応は会員のボランティアであり、会員の
持つ様々なスキルを上手く使いながらの手作りである。無理をせず自分たちの
出来る範囲でやる、これが「かんじる比良」の力となっているようだ。

最後に山川さん言ったことは地域で何かをやっていきたいと思う人には、
あらためてかみしめて欲しいもの。
「かんじる比良はこの地に住む人の間から生まれた活動ですが、これを進めて
行く中で、出店者同士のつながりが出来たり、そのつながりが新しいつながりに
なったり、移住して来たばかりだが地域へすぐに馴染めた、など自然発生的な
コミュニティが出来つつある。また、新しく来られた人からこの地域の素晴らしさ
を古くからの地元の人が教えてもらうといったことも出て来た。
比良と言う良さをもっと知り、そのつながりを広め、もっとローカル
にやって行きたい」。

かんじる比良2015に開催されたイベントを紹介します。 
5月15日(金)
かんじる比良2015・作家と職人展 作家展は15~17日の3日間 
5月16日(土)
かんじる比良2015・本イベント 歩いて感じる比良の風・作家と職人展  
5月17日(日)
かんじる比良2015・本イベント 歩いて感じる比良の風・作家と職人展  
5月17日(日)
おやこ泥んこ・とうげい教室  

同時に、比良麓の会自治会館「森の家」にて、
「かんじる比良2015 作家と職人展」も開催されていました。
以下の多くの作家さんたちの出店作品があり、木洩れ日の注ぐ中で静かに
勧賞できました。
【陶芸】加藤和宏 / 加藤敏雄 / 木村展之 / 木村隆 / 玉川義人 / 中島千英子
     中野悟朗 / 村田真人
 【染織】中島千津 / 平井恵子 / 宮﨑芳郎
 【漆芸】廣田千惠 / 藤井收
 【木工】臼井浩明 / 雄倉高秋
 【油彩画】岡本裕介
 【平面】村井宏二 / 村井由美子
 【立体】山内鈴花
 【写真】佐伯俊次 / 内藤美智子 / 平田尚加 / 吉田信介
 【刺繍】岡村達
 【仏像】安田明玄
 【仏画】安田素彩
 【靴】大村寛康

かんじる比良2015の参加店紹介
今回は比良周辺のお店や工房が38店参加しました。
1)パン工房ヤックル
静かな場所にひっそりとある小さなパン屋です。かぼちゃやじゃがいもを練り込んだパ
ン、北海道産小麦や沖縄の塩・三温糖・さくらたまご・天然酵母・・・素材にこだわっ
たパンも作っています。
2)青木煮豆店
昭和7年からこの道一筋。化学着色・保存料・甘味料など一切使用していませんから、
お子様からご年配の方まで安心して召し上がっていただけます。
材料・調味料にこだわって、手作りしています。昆布巻きはかまどで長時間炊いていま
す。とても柔らかいです。特に煮豆入りのどら焼きは人気商品です。
3)FICA
この土地に暮らし始めて8年目を迎え、スクラップブッキングの教室は、スタンダード
で長く大切にできるような手作りのアルバム作りを目指してこれからも、
みなさまと一緒に楽しい時間を共有していきたいと思っております。
4)靴つくり
初心者向けのワークショップ(靴教室、鞄教室、革小物など)も行っております。
5)アルカドッグトレーニング
比良の自然の中でゴールデンレトリーバーと暮らして27年になります。ワンちゃんの
年齢や犬種などにあったワンちゃんにわかりやすく楽しい方法で、飼い主様にも簡単
で楽しいしつけ方を提案しています。
6)R cafe
雄大な比良山の麓にあり、目の前にはびわ湖が広がる。そこはまるでハワイのようなロ
ケーション。開放感のあるウッドデッキで地元比良米や高島の野菜を使ったボリューム
たっぷりのハワイアングリルランチが楽しめます。
7)ほっとすてぃしょん比良
地元産の美味しいお米と大豆が原料のお味噌を中心に惣菜やお弁当・製菓・パンなど
地域の食材を活かした農産加工をする北比良グループ(地元主婦9名)のアンテナ
ショップで軽食喫茶と加工品の販売・情報発信と交流の場として活用して
もらってます。
8)北欧直販
私が若かりし頃、勤務先営業所がデンマークに赴任する事となり、その後この地に
移り住み、北欧地域の良い商品をお手頃な価格で消費者にお届けする、事を
信条としています。
9)Gallery skog(ギャラリー スクーグ)
skog のある高台は偶然に出会った場所でしたが、ここなら感動する風景に出合えると
直感しました。3階のCafeでは琵琶湖と比良山系の見える風景を喜んで頂いています。
skog では年間6回の企画展を開催しています。
10)TOPPIN OUTDOOR & TRAVEL
バックパックひとつを背負い、6年をかけて飛行機なしで世界を一周後に、ここ北比良
に小さなアウトドアショップを作りました。キャンプ・BBQ・登山など自然の中で遊ぶ
ためのアイテムをたくさん取り揃えています。
11)森のACHA(もりのあちゃ)
どこか懐かしい風景が広がる比良…! 風の音、小鳥のさえずり、青空、山、木漏れ日
のさす森、まるで私たちの心に残っているふるさとのようです。
森の ACHA はそんな比良の自然に魅せられて9年前にカフェとしてオープンしました。
12)Roz & Mary Cafe(ロズアンドマリー)
フワフワに焼き上げたボリュームたっぷりの特製シフォンケーキと人気のパスタ&カレ
ーのお店です。シフォンケーキだけを一途に追求し続けて30年、その思いをギュッと
つめてカフェをオープンさせました。
13)ちゃわん 比良八光窯(加藤敏雄 陶芸作家)
くらしを彩り、味わえる、やきもの、長年研究した青磁と黒土の墨流し(色泥流し)で
作品を作り又、古琵琶湖の土も取入れて穴窯でやきものを作っています、ぜひ、比良の
自然とともにやきものと人の出会いを楽しんでください。
14)アントレ
アンティークギャラリー「アントレ」は昭和初期の古い洋トラスを再利用し、入口はリ
フォームした蔵戸を用いています。古い物を大切に使っていくことをコンセプトにした
お店です。壊れかけた古い家具類をリフォームして再生し、味わい深いアイテム類を提
供します。
15)ヒラノハナレ
北比良の森の中で、フィトテラピー整体サロンをしています。皮膚に直接丁寧に触れる
ことで、脳の深いリラクゼーションを体感いただき、ご自身の自然治癒力を高めていき
ます。
夫が営む自然農を手伝いながら「ねっこのごはん」としてもイベント出店もして
おります。
16)庭工房 “ギャラリー季気”
18年前に大阪より、自然豊かなこの”比良の地”に魅せられて転居してまいりました。
住宅の仕事からライフスタイルに合った「家と庭」の関係を追求し続け、エクステリア
&インテリア雑貨販売とガーデンエクステリアのデザインをしています。
17)イタリアンピザレストラン “季気 HOUSE”
自然大好き、アウトドア大好き人間です。物心ついた頃より、この地にあこがれて
いました(東近江市出身)。庭からは比良山系の堂満岳(1057m)が望め、
周囲は森に囲まれた山好きの人にとっては絶好の憩いの場所です。
18)ホリデーアフタヌーン
ホリデーアフタヌーンは手作りへのこだわり、アットホームなおもてなし、自由な遊び
心で出来上がっています。手作りなのは食事や内装だけではなく、お客様に満足いく
ホリデーアフタヌーンを過ごして頂く癒しの空間を作り続けています。
19)ほとり・ポトリ
琵琶湖のほとりで、私たちにできることをひとしずくずつ、やっていきたいという思い
から、スローカフェを始めました。自然素材でリフォームした空間は、裸足で過ごし
たくなる居心地のよさです。オーガニックでスローな飲み物と南インドカレーを
ご用意しています。
20)ドッグスクール「比良ドッグファーム」
この地域は犬と暮らすには最高の場所だと思っております。少し歩けば雑木林・琵琶湖
・美しい小川と犬達と遊ぶのに事欠くはありません。そんな環境の中で犬達ともっと
楽しく暮らしたいと思い、しつけ、ドッグスポーツを始めました。
21)Cafe COCOKUON(カフェ ココクオン)
比良山、琵琶湖にほど近く、四季の移り変わりを五感で感じられる素敵な場所にありま
す。地元の無農薬野菜をふんだんにつかい、手作りにこだわった心温まるお食事を
ご用意いたします。人と人とのつながりが織りなすご縁を感じながら日常を
ふっと忘れられます。
22)アンティークハウス DーYrs.(ディーユアーズ)
23)MANA(shop YUMEYA)
お菓子作りの道一本でパティシェールとして長年働いてきました。お菓子を作らせて
いただく毎日を過ごしております。オーダーメイドのケーキは、お客様の希望を伺い、
色々な種類の物をお作りさせていただいております。
24)SOUP FURNITURE(スープファニチャー)
パイン無垢材を使用したシンプルで丈夫で長く使える家具を、子供用から大人用まで、
用途、スペースに合わせて、お客さまのご要望をお聞きしながらお作りさせていただき
ます。セルフビルドのショールームもじっくりご覧ください。
25)古民家風貸別荘 夢湖庵
「夢湖庵」は都会の喧騒を離れ、辺りを一周するだけで心がホッとする自然空間が
いっぱいです。徒歩7分のところには湖面がキラキラと輝き、琵琶湖で泳いだりのん
びりと釣りを楽しんだり。裏山には県下一の落差を誇る「楊梅の滝」もあります。
26)木原食品
大正時代に創業し先人の思いを受け継ぎ、琵琶湖の恵みを大切にし、琵琶湖の四季折々
の旬のおいしさを一人でも多くの方に味わっていただけたら。と日々心を込めて炊いて
います。
27)布工房 モッサリーナ
琵琶湖を見下ろすアトリエで木綿や絹など古布と取り組んで小物、袋物、身の回りの品
などを作っています。お教えすることも可能です。
28)H&K craft
雪景色の比良に魅せられ、ゆったりした時を過ごす比良での日々の暮らしの中で、
天然石の持つパワーを、普段使いの中で気軽に感じられるようにアクセサリーにし、
素朴な木の雑貨や、古くから日本にある和紙と布帛でステーショナリーや小物
を作っています。
29)慧夢工房(えむこうぼう)
「こころと体にやさしいものづくり」をめざして、無垢材を使った家具づくりを中心に
様々なものづくりに夫婦で取り組んでいます。水・木・金・土には木工教室を開講し、
木工の基礎から応用まで自分だけのオリジナル木工製品を作ることができます。
30)純jun-楽布絵
草花などをスケッチしたり、孫と一緒に絵を描いたりしたものを題材に、布製のものに
京都友禅の染料で描くことを趣味として楽しんでいます。
31)コトブキ
仕事は物を完成させると同時に人との出会いの場でもあります。
ものづくりその職人さんを育てるため、国家試験技能検定委員の任命を頂き、職人さん
の育成にも取り組んでいます。
32)Cotton Field パッチワーク教室
デッキから琵琶湖を一望できる黄色いログハウスでパッチワーク教室を開いています。
パッチワークはコツコツ地味な作業の積み重ね… 出来上がりはその人の心がこもった
温かい肌触り、優しく可愛いキルト作品となります。
33)タコス屋 エル・チャンガーロ
ぺルーやメキシコで暮らした後、ここ比良山の麓でゆるーいタコス屋をはじめました。
とうもろこし粉 100% のトルティージャに、お肉やチーズ、手作りサルサなどをはさん
だメキシコ風タコス。トマトやハラペーニョなども自家栽培をめざして頑張ってます。
34)L.A.S.
体に優しい琵琶湖と比良の自然に魅せられて二年前に移住してきました。
今回は、静かな森の中から世界に向けて発信している、自然と人々の調和をテーマにし
たものを選び、琵琶湖で育った真珠、版画や骨董品などを販売しています。
35)Mandala’s@一休庵
別荘なんですけど、かんじる比良の2日間はこの庭を楽しんでいただきたくて毎年
マルシェをひらいています。おいしいコーヒーがあったり、すてきなアクセサリーが
あったり、良い出会いがありますように。ヨガのワークショップも開催予定です。
36)ティーツリーガーデン tea tree garden
当店は、小さな小さなお庭屋さんです。私たちが子供だったころ、庭には木が茂り、
花が咲き、縁側で花火をしたり、夕涼みを、庭にいて自然と会話が生まれました。
豊かな暮らしが生まれる庭づくりがティーツリーガーデンの庭作りです。
37)陶房 木村
琵琶湖湖西の北小松というところで陶器の製作をしております。
38)湖西焼 圓工房(圓口功治(まるぐち こうじ))
自然に囲まれながら、京三島の伝統技術を伝承しつつ、湖西焼を広めるため、日々創作
活動をしています。

なお、当日の様子は、以下のfacebookページにも載っています。
https://www.facebook.com/kanjiruhira?fref=ts

かんじる比良の参加者は作家から喫茶店、アウトドアや家具の販売店など
多種多様です。
しかし、そのような多様な人たちの集まりですが、1つ大きな共通点があります。
雪に覆われた比良の山々と黒く静かな琵琶湖、春の様々な花々に彩られる里山や
かすんだ中に浮かぶ湖、そして深い緑におおわれた山麓に涼風の流れを感じる夏、
すべてがここに住む人々に感じられる情景なのです。
皆さん、比良のこの自然に憧れてここに住みたいと思った方なのです。林や森の
中にそれぞれが想いの深いお店として点在する地域がここ比良であり、それを
見せるのがこの「かんじる比良」の役割なのかもしれません。
 
以下のブログでも紹介しています。

2016年2月12日金曜日

「比良のしゃくなげ」他から見る比良の里

井上靖は、琵琶湖や湖西について書いたものが少なくない。
湖西より北寄りの朽木についても描いている「夜の声」がある。
比良に残る自然にその憧れを見出しているようでもある。

この退廃していく社会を憂い、交通事故で神経のおかしくなった主人公を通して
その危機を救える場所として近江を描いている。
神からのご託宣で文明と言う魔物と闘うが、自分はそのために刺客に狙われている
と思い込んでいる。魔物の犯してない場所を探して、近江塩津、大浦、海津、
安曇川から朽木へと向う。朽木村でその場所を見つける。
「ああ、ここだけは魔物たちの毒気に侵されていない、と鏡史郎は思った。
小鳥の声と、川瀬の音と、川霧とに迎えられて、朝はやってくる。漆黒の
闇と、高い星星に飾られて、夜は訪れる。、、さゆりはここで育って行く。
、、、レジャーなどという奇妙なことは考えない安曇乙女として成長していく。
とはいえ、冬は雪に包まれてしまうかもしれない。が、雪もいいだろう。
比良の山はそこにある。、、、さゆりは悲しい事は悲しいと感ずる乙女になる。
本当の美しいことが何であるかを知る乙女になる。風の音から、川の流れから、
比良の雪から、そうしたことを教わる。人を恋することも知る。季節季節
の訪れが、木立ちの芽生えが、夏の夕暮れが、秋白い雲の流れが、さゆりに
恋することを教える。テレビや映画から教わったりはしない。」

さらには、「比良のシャクナゲ」は、個人的な思いも含め、比良や志賀の様子を
知るには、中々に面白い。

老いたら恋と家出をしたい。人はまるで「青春」を繰り返すように、この老境の衝動に
は絶ちがたいものがあるようだ。
この「比良のシャクナゲ」という作品は、八〇歳を目前にした解剖学者、三池俊太
郎が失踪する話である。子や孫に恵まれ、学界の頂点をきわめた名声と経済力に恵まれ
た暮らしの中で、彼はふと家出をする。
向かったのは琵琶湖のほとり、古びた旅館だった。かつて二五歳のとき、人生の空しさ
に打たれ、死に場所を求めてここに泊まった。その後、結婚し生まれた長男啓介が大学
生に成長した。学界での地位も不動のものになった矢先、啓介が女性と入水自殺をした
のは、この琵琶湖だった。父親として傷心をいやすため辿り着いたのも、この旅館「霊
峰館」だった。
比良の山を眺めるためにも、歩んできた自分の人生の峰峰を振り返るのにも格好の「霊
峰館」である。人はこのように家出の場所を一ヵ所はもっていたいものだ。

ここに描かれた「老境」の現実は、ヒマ、カネ、ユトリに恵まれた「安らかさ」からは
遠い。息子、孫、嫁達との些細な、しかしウンザリするような日常の葛藤も絶えない。
どうしても書き上げなければならない論文は一向にはかどらず、日々突きつけられる現
実は「明日死んでも不思議ではない年齢」なのだ。彼は焦っていた。
性欲も食欲もなくした彼にとりつくのは「どんな些細な名声にでもこれにすがりたい」
名誉欲だった。
慙愧と嫉妬にまみれる折も折り、新聞に、文化勲章叙勲者のリストを見る。そこに、か
つての同僚の名前があった。そのとき大学の事務室から電話がある。祝賀会の席での祝
辞の依頼である。また新聞社から同僚としてのコメントを求められる。老学者の心がパ
ニックになって不思議はない。

以下、「比良のシャクナゲ」から「魚清楼」のことが語られている文章を見てほしい。

・ この家は何も変わらない。わしが初めてここに来たのは、二十四、五の頃だったか
ら、わしがこの家の座敷に坐ってから?あの時から、いつか五十年以上の歳月が流れて
いるわけである。五十年間変わらない家というのも珍しいものだ。
 
・わしはなぜ急に堅田になど来たくなったのだろう。考えてみると自分ながら不思議な
気がする。堪らなくこの霊峰館の北西の座敷に坐って湖の面を見たくなったのだ。矢も
楯も堪らなく、湖の向うの比良の山容を仰ぎたくなったのだ。
 
・わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わし
の採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見た
かったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向う
の比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。
 
・堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた
白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは
長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こ
ごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て
来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは
大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこ
の霊峰館だった。
わしは土間に立ったまま、帳場で炬燵にあたっている中年輩の丸刈の主人に、これで
一晩泊めてくれと言って五円紙幣を出した。代は明日戴くというのを無理に押しつける
と、主人は不審な顔つきでわしを見詰めていたが、急に態度が慇懃になった。十五、六
の女中が湯を持って来た。上り框に腰かけ、衣の裾をまくり上げて、盥の湯の中に赤く
なって感覚を失っている足指を浸した時、初めて人心地がついた。そしてこの旅館では
一番上等の、この座敷に通されたのだった。すでにとっぷりと暮れて燈火
をいれなければならぬほどの時刻だった。
わしは一言も喋らず、お内儀の給仕で食事をすませると、床の間を柱にして坐禅った。
わしはその時、明朝浮御堂の横手の切岸に身を沈めることを決心していた。石が水中
に沈んで行くように、この五尺の躰が果して静かに沈んで行けるかどうか、わしは不安
だった。わしは湖の底に横たわる自分の死体を何回も目に浮かべながら、一人の男の、
取り分け偉大な死がそこにはあるように思った。
 
・部屋の隅に床がのべてあったが、それには触れず、畳の上に手枕をし、夜が明けきる
まで一、二時間仮睡しようと思った。
 
・明日正午までに堅田の霊峰館へ来るように命じた。啓介は、はいと素直に返事して、
すみませんでしたと言って、二階へ上がって行った。わしはホテルの事務員に、そこか
ら程遠からぬ堅田の霊峰館に電話して貰い、自動車で、三十年振りで、堅田のこの旅館
へ来た。啓介の事件で、心身疲れていたわしは、丁度その翌日が日曜でもあったので、
ここで充分休養したかったのだ。
三十年前の主人が年老いて、座敷に挨拶に来た。向い合って話していると、どこか昔
の面影が思い出されてくるようであった。家にはここから電話をかけて、事情を簡単に
みさに報告しておいた。わしは何年かぶりで、書きも読みもしない静かな一人の夜を過
した。鴨には少し時季が早くて、鴨鍋にはありつけなかったが、湖で獲れる魚の揚げ物
がうまかった。わしはその晩ぐっすりと眠った。
 
老人が自分語りを延々とするわけである。
こういうことがあった、自分はこう思った。
老人ゆえ愚痴や不満が多い。恨み節、嘆き節である。
人生はままならぬ。しかし、いや、だから人は物語る、いや、物語らざるをえない。
神仏に振われた鞭(むち)への復讐が人間の物語なのかもしれない。
痛みをごまかす、違う、痛みをより深く味わうために人は物語る。
物語ることによって話者は事件をもう一度味わうことができる。
聞き手は、話者の味わいをともに味わい、どうしてか満足をおぼえのである。
それは、「星と祭」にも通じることでもある。そこでは、琵琶湖周辺に存する
十一面観音から、自身の様々な思いを巡らしている。
博人は、現在でもその風情を強く残している。そんな場所でもある。

2016年2月5日金曜日

「志賀の水」関連

みあれる命、山が生み出す最高の命、水

旧志賀町の湧水などをめぐり、水への感謝をあらためて感じる。
1)金毘羅神社(守山)を山側に上がった場所
 こうもり穴の近くか?

2)八幡神社境内(南小松)
南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
祭神は応神天皇です。創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、
往古より日吉大神と白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと
云われ、当社と日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
が出ます。また、この辺りは野村と呼ばれ、特に自家栽培のお茶が美味しいようです。
八朔祭(9月1日)が行われ、夜7時ごろからは奉納相撲が開催されます。
八幡神社の狛犬は、明治15年に雌(右)、明治 17 年に雄(左)(名工中野甚八作)
が作られ、県下では一番大きいといわれています。体長180センチ弱ですが、
左右違う、そのたてがみや大きな眼が印象的です。
また、神社の横を流れる水は裏の念仏山の湧水を引き入れたもので、
かなりの水量です。

3)比良駅の直ぐ横
4)弁天神社(南小松)
八幡神社から山手に歩いて15分ほどの山裾にあります。
入り口には石の蛇があり、静寂の中に神々しさが漂います。地元では、「みーさん」
の愛称で呼ばれています。この裏には滝行の場所やモリアオガエルの生息地
ともなっています。さらに、境内には、白光大神の社もあります。
そこを更に登ると両脇から湧水が染み出し、昔は池があったと言います。
更にそこから3百メートルほどの念仏山の頂上を目指すとやや勾配の厳しい道も
ありますが、近江舞子の内湖や八幡山が遠望できます。また、弁天神社の
山下には、豊富な湧水が出ており、ここが八幡神社の水源となっています。

5)卵販売{利助)の後ろ
6)栗原?
7)北小松のかわと
「かばた」とも言われるが、家の中に湧き水や琵琶湖の水、川の水を引き込み
生活用水として利用した。高島の針江のかばたが、最近有名である。小松では、
山からの湧水が川となり、それを生活用水として利用していました。まだ、
彼方此方に残っていは居ますが、多くは数段の石段が川に延びた状態で、
昔の面影を残すのみとなっています。

8)家棟川(やむね)は天井川として南小松付近がよい

9)湯島神社
荒川の大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた社があります。
昔この地域は大谷川の氾濫があり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊をいただき、
祀ったとされます。
また、この社には地域の貯水をまかなうほどの水が多く出ています。

10)樹下神社(北小松)
御祭神は、鴨玉依姫命です。水を守る神様です。
境内社には、比較的大きな社務所もあり、天滿宮、金比羅宮、大髭神社があります。
また、石造りの社があり、天保時代の石燈籠など8基ほどあり、この神社への信仰
の篤さを感じます。珍しいのは大きな石をくり抜いたであろう石棺や緑の縞が
明瞭に出ている2メートルほどの守山石など石文化の一端が感じられます。
湧水も豊富であり、3箇所ほどの湧き口からは絶えることなくなく流れています。
竜神の像の口からも出ています。また、この神社を少し山側に行くと、修験堂の
登り口の前に「生水(しょうず)」と呼ばれている湧水の場所があります。
ほぼ16度ほどの温度を保っているようです。
ガイドは、木村喜代嗣さん。
 
いずれにしろ、志賀では湧水含め水の様々な形を更に探していく必要がある。
 
 
参考
「滋賀の水」についてのメモ
readyforのプロジェクト
①主要テーマ
比良山系を中心とした大津市湖西地域は、比叡山から連なる比良山の山並と
まだ多くの自然の姿を残す麓の野辺、そして蒼き水をたたえた琵琶湖、さらには、
古墳や多くの神社仏閣が地域の中で生きている歴史的な資産に恵まれた
自然豊かな地域であり、この世界に触発され様に様々な芸術家やお店を開きたい
方々が移住して来ています。ですが、多くの人は琵琶湖のそばにある開発の遅れた
寂しい地域と思っています。
本プロジェクトは、この地域の恵み多き四季の流れを1つの小さな本にまとめて
その良さを多くの人に知ってもらいたいと思っています。
「比良の自然ー四季の恵みを感じる里(仮称)」という50ページほどの本を創る、
これが本プロジェクトの目的です。

②内容
二十四節気の流れにあわせ、その時々の写真と情景を綴った文章でまとめる。
そのはじめを、「比良八講」の紹介と写真で綴る事で、比良八講の認知度アップ
とともに、湖西の地域がこの比良八講を1年の初めとして四季が流れて行く
ストリーにする。

③プロジェクト費用
・目標金額  100万円
ただし、5000部の発行部数として、写真撮影、製本、紹介文作成などの
費用を具体的に算出する。
・募集期間
1ヶ月程度

・寄付者への報酬
3000、10000、30000、50000円などにより設定する。
例えば、3万、5万円寄付者へは「比良八講への招待」「1年間の様々な
イベントへの招待」など。
基本は、サンクスレター、活動報告書、本の贈呈。

なお、寄付申し込みはクレジットカードであり、プロジェクト成功時には、
17%の手数料が必要となり、実際の活動費用は寄付金額の87%となる。



日本遺産
滋賀県は提案した7件から「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」
が認定を受けた。湧き水を家に引き込む「川端(かばた)」など水と生活が
調和した景観や、いかだ乗りを川の魔物から守るシコブチ信仰などの宗教、
ふなずしに代表される食など「水の文化」の深さをアピールした。
文化庁が、日本版の世界遺産として今年度から始めた「日本遺産」に
びわ湖の水と人々が織りなす文化が認定されました。
「日本遺産」は、海外からの観光客の増加につなげようと、文化庁が、
国内に点在する有形・無形の文化財をまとめて日本版の世界遺産として
認定する今年度からの制度です。
今回は全国から18件が選ばれ、滋賀県からは、びわ湖の水と人々が織りなす文化
を集めた、「琵琶湖とその水辺景観ー祈りと暮らしの水遺産」が認定されました。
びわ湖に面する県内6つの市にある、▽国宝に指定された寺院や、▽国の重要文化
的景観に選定された近江八幡市の水郷などが含まれています。
このうち▽大津市の延暦寺は、比叡山から臨むびわ湖を最澄が理想郷とたたえて
建立したとされています。
▽竹を編んで作った仕掛けでアユを取るびわ湖の伝統漁法「ヤナ漁」は、
高島市の安曇川で平安時代からの歴史があるとされています。
三日月知事は「滋賀県では、びわ湖を中心として『水の文化』が人々の暮らしの
中に脈々と育まれてきた。貴重な資源を次世代に引き継ぎ滋賀の魅力を国内外
に発信したい」というコメントを出しました。


歌川広重 東海道五拾三次
大津 走井茶屋
おおつ はしりいちゃみせ
大津 走井茶屋
「走井餅」が名物として親しまれた「走井茶屋」。
名前の由来となった清水の湧き出る井戸。
この辺りは京への輸送路であったため、荷車が通りやすいよう石を敷き、轍の幅で溝が
作られていました。
ぼかしを用いた霞む遠景の山々が、画面に遠近感を生み出しています。
「一」の字を引いたようなぼかしのため、「一文字ぼかし」と言われる。ぼかす色で、
時間、季節そして気候などを表現しわけています。

人間国宝・岩野市兵衛氏が作る和紙(越前生漉奉書)を使用。木版独特の鮮やかな発色や
柔らかな温かみのある風合いを作り出しています。
琵琶湖の南に位置する大津宿は、東海道の中でも最も栄えた大きな宿場でした。「走り
井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々とし
て増減なく甘味なり」とある有名な泉のある茶屋のありさまが描かれています。米俵を
運ぶ車が連なる図は、大消費地京都を間近にひかえ、物流の流通が盛んであったことが
偲ばれます。

滋賀の水調査
http://www.lbm.go.jp/fieldrep/report/2011_1st_report.pdf
天命水/大津市木戸 登山者の給水
金明水/米原市伊吹 伊吹山ドライブウエー 1000m 付近に出ている水で、伊吹登山最後
の湧水。
長等山不動明王の水/大津市 おいしい水とのことで、汲みに来る人が多いとのこと。
甘呂の水/彦根市 観音正寺御用達の天然湧水。100 円で 3 分間流れる。
胡桃谷の明水/長浜市余呉
以前は土手から流れる水を集水して用いていたが、数年前からコンクリ
ートにパイプを取り付けて用いている。深層から湧出しているものと思わ
れ、1 年中温度、水量は変らない。
岩間の水/大津市 岩間寺へ向かう車道に山肌から水が出ていて、近くの人はとり
に行かれます。
月心寺/大津市 昔、東海道を旅した人ののどを潤したそうです。
堂来清水/長浜市浅井高山 名水百選
天皇の水/長浜市高月 名水百選
御神水「知恵の泉」/高島市マキ

おいしい水なので、近くの造り酒屋へ引水して地酒造りに利用
されている。
三尺の泉/高島市安曇川 全国版の名水の図書に掲載され、訪問者に利用されている。ま
た藤樹祭(毎年 9 月 25 日)の献茶の水としても利用されている。
「秋葉の水」「瓜破(割)の
水」/高島市安曇川
昭和35年頃までは洞窟の様な所から冷水が湧いて飲料や果
物を冷やしたり生活用水に利用されていた。
若宮湧水/近江八幡市
飲み水(神水?)として(ペットボトル)にもらいに来る人がいるが、
あまり利用されてない様子だった。水温は思っていたほど冷たく
なかった。(気温 34℃の日)
海老江湧水(仮称)/長浜市湖北 湧き出る水は多く、誰でも気軽に飲めるようになってい
る。

神事(信仰)に使う
人々の生活に欠かせない水を司る神々を祀る祠などは、昔は多くの水
場で見られましたが、いつの間にか打ちやられ、近頃は滅多に見ることが
できなくなりました。その結果が右の図 13 のようになるのでしょう。
水は心や体を清めてくれるといいます。神前にぬかずいたり、御加護を受
けようとするとき、人は口や手を洗い、時には水垢離(みずごり)をします。「禊
(みそぎ)」という言葉のある限り、水と神事は切り離せないでしょう。
名称/所在地 調査者のコメントや説明
弁天池/草津市 島には弁財天が祀られており、以前は農業用水として旱魃時の雨乞いや
豊年祈
願の祭りがあったが、現在は大掛かりな祭りは行われていない模様。
下長尾池/大津市 昔、この池から二体の地蔵が掘り出され、口伝によれば、江戸時代の
日照りが続
く年、地蔵の下に村人が集まり雨乞い祈願をした。
布施溜/東近江市 島には弁財天が祀られている。
八幡神社の池/東近江
市蒲生 島に対面して津島神社の小祠がある。
清龍の滝/米原市 蛇を祀ったり、不動明王を祀ったりした祠がある。

湧水の使われだした時期
① 昔から
名称/所在地 調査者のコメントや説明
野路の玉川/草津市 昔から歌にもうたわれ日本六玉川の一つ
明神池/東近江市 この池は明神さんといって近江八幡市馬渕地区が社を建て、農業用水
の分水
の基点となっており、由緒書きもある。
山室湿原/米原市 湿原は米原市指定天然記念物
泉神社湧水/米原市 日本名水100選
/草津市 湧泉なので残した。
長等山不動明王/大津市 最近は水量減少(源泉不明)
十王の水/彦根市 近年水量は減っている。
/高島市今津 湧水量が減少しており、以前は湧水箇所が目視できましたが、今は確認困

です。
岩間の水/大津市 昔からあったのでしょうね。醍醐寺から山越えで岩間寺へ。下山して
石山寺へ歩く
道筋にあったんだと思います。西国 33 箇所めぐりでハイキングコースです。
南井水/甲賀市土山 平成 13 年に土山町事業として「しょうず公園」として整備された
。(石碑、垣
根、水溜め、落差、ステンレスの道路、境界棒など)
新神戸電機構内/彦根市 昔の農業用水池
川瀬駅北東側/彦根市 昔の農業用水池
若宮湧水/近江八幡市 太古より大化時代から
十王の水/彦根市 元禄年間より世に知られている。
御澤神社「お沢さん」/東近江

推古天皇の時代、聖徳太子が農事を奨励され、蘇我馬子を奉行に命じて開
墾。その水源池として清水池、白水池、泥水池の 3 つを穿たれた。
高光竜神の湧水/甲良町 藤原高光に由来か。
寄倍の池/野洲市 水深きわめて深く旱天に涸れたことがない。
大夫の井戸/近江八幡市安土 室町時代?
/野洲市 小篠原遺跡の井戸
/高島市今津 道路の下の石組みの間から湧いていて、すぐ横を流れる小川が濁っていて
も、この湧水は透明。湧水の流れのなかにはセリが生えている。

/高島市今津 昭和 56 年に今津中学の生徒がザゼンソウを発見するまでは、「しょうず
わら」
と呼ばれ、人が踏み込まない湿地の竹やぶだった。
亀の池/新旭 針江地区の湧水群に近接し、安曇川の伏流水。
「秋葉の水」「瓜破(割)の水」 コンクリートのふたがされたままであったが、平成
16 年に集落で助成を受け
て、元の姿に名水を復活整備した。
/米原市 30~35 年前はよく使われていましたが、最近は、上下水道も洗濯機も各家庭
にあ
るので、ほとんど利用しないようです。あまり見かけなくなりました。
若宮湧水/近江八幡市 以前は水が盛り上がって噴出していたが、琵琶湖総合開発の工事
が行われてか
ら水位が下がった。今は、一段下の鈴鹿伏流水をポンプアップしている。
梅の川/近江八幡市安土 琵琶湖総合開発工事以来水が出なくなったのこと。織田信長の
家臣武井夕庵
がここの水で御茶を入れ信長に献じたところ非常に喜んだとのこと。
/大津市 個人の方が奉仕で湧水を護っているとのこと。石地蔵や「白い水神?」が祀っ
てあり、小さい祠に個人の方の名前が記載。(尼崎市の方)
「長命水」「厄除水」/大津市 岩間寺は泰澄大師が 722 年に建立。その弟子になった
雷神が当時水の乏し
かった岩間山に自らの爪で井戸を彫って霊水を得た。
梅の川/近江八幡市安土 信長の茶の湯水として使用されていた。旧くは銘水であったこ
とがうかがえる
が、今はガボガボと音だけがこのくぼみを満たしている。
間田湧水群/米原市伊吹 伊吹山麓のこの辺りには湧水が多く、古代から水の利用があっ
たと思う。間
田の長曾小臼谷として知られている。
小碓の泉(臼谷)/米原市伊

この泉の西にある間田湧水と共に古代から人々に利用されていたことが標さ
れている。
コンコン清水/米原市伊吹
奥の藪の下にわずかに水溜りが残っているだけ。昔はその名のごとくコンコ
ンと湧き出ていたと思われる。雨の後で行ったら洗い場いっぱいの水があっ
た。水量は天候に左右されるのかも。
奥泉口銘水/米原市伊吹
古代の出土品もあり、噴出する湧水を巧みな石組で台地に導き、農業用水と
して稲作が行われてきたが、今は耕作放棄され、水路も荒れるがままになっ
ている。
海老江湧水(仮称)長浜市湖北 いつごろからは不明。今も絶えることなく溢れている。
日の口桶(小浜桶)/守山市 いつ頃か判らないが、石組の樋門などから明治以前からの
ものでは?

NPO「比良の里人」の紹介。石の文化を継承する

NPO法人「比良の里人」の専務理事である石塚政孝さんを訪問した。その事務所は、
湖西線蓬莱駅を過ぎて161号線の道沿いにあった。比良山系の山の端が迫り、
右手には、琵琶湖が数条の浪縞を見せ、静かにその蒼さを見せている。
石塚さんもこの地で造園業を経営しながら、地域への想いもあり、永年この
「比良の里人」で中核的な活動をされてきた。
先ずは、「比良の里人」について話を伺った。

1.「比良の里人」について
「比良の里人」という名前には、「比良の景観を愛し、その麓に暮らす“里人”として
人と人のつながりを大切にしてゆきたい」という思いが込められている。
この法人を立ち上げるにあたっては、 
「滋賀県の西部に聳える比良山系は標高1000メートルを超える山々が連なり琵琶湖
を臨んでいる。そしてその麓には棚田が築かれ、人々は長い歴史を自然と共に暮してき
た。日本の里山を象徴するような、この景観は日本人の原風景とも言える。
しかし今この景観が大きく失われてきている。これは、第1次産業の衰退、土地の
乱開発、地域コミュニティの喪失など、景観を維持してきた人々の暮らしに
大きな変化が生じている為とも思っている。
私たちは、営々として築かれてきたこのすばらしい景観を後世に残す為の調査や、
地域での社会教育・まちづくり・環境保全の推進事業、学術・文化・芸術・スポーツの
振興事業、更には地域の自立を目指した経済活動の活性化事業及び福祉の推進事業など
を展開することで、比良山麓の豊かな自然と景観を活かした未来の地域を創造し、
社会に寄与していきたい」と考え、この組織を設立した。

今もこの考えに沿って会員や地域の支援者とともに活動を進めているといわれる。

既に法人となって10年が経過した(平成17年4月設立)が、「比良の里人」
として、頑張ったのが法人設立記念に催した「比良里山まつり」であったという。
放置林の間伐、休耕田の再生、地域の魅力の再発見。市街地域にはない魅力や
景観がここにはある。市街地に住む人たちとの交流を通じて、多くの人に比良の
魅力を知ってほしいと思っている。このため、「花畑事業」と「放牧事業」の
二つの事業を取り組んでみた。
いずれも休耕田の有効利用のアイデア募集で採択された事業で、比良の自然な生態系に
配慮しつつ、経済性と持続性を考えたものである。「ここは古くから石の文化が栄えた
ところ。景観は人が自然とのかかわりあいの中でつくっていくもの。景観も文化も
所詮は人の為せる業、と石塚さんは語る。

2.比良の里を少し紹介
それでは、この比良の里を少し見て行きたい。

比良の里は、大津市の北部、比良山系の麓に広がり、今でも、琵琶湖との間に
豊かな自然を残している。この自然とのつながりが身近に感じられる里に魅かれて、
様々な職業の人が多く移住して来ている(これについては以前のレポート
「かんじる比良」で伝えている)。豊かに湧く比良山系からの水が幾筋もの川を
つくり、四季折々に様々な色合いを見せる木々の群れ、更には、古代から大陸から
の交通の要衝、文化の中継地でもあり、比叡山の仏教文化の影響や比良三千坊
と言われる寺院が散在し、歴代の天皇が祭祀したという神社など、多くの神社仏閣
とともにかっての文化集積の地でもある。司馬遼太郎の「街道をゆく」の第一巻が
この比良の里周辺から書き始められているのは、偶然ではないのであろう。

また、比良八荒と呼ばれる春を告げる強い風の里でもあり、比良山系を通ってきた
清らかな水が湧き出る里でもある。
さらには、石の里でもある。神社の狛犬、しし垣、石灯篭、家の基礎石、車石など
様々な形で使われて来た。古くは、多数存在する古墳に縦横3メートル以上の
一枚岩の石板が壁や天井に使われている。古代から近世まで石の産地として
その生業として、日々の生活の中にも、様々に姿を変え、密着してきた。
例えば、南小松は江州燈籠と北比良は家の基礎石等石の切り出し方にも特徴
があったようで、八屋戸地区は守山石の産地で有名であったし、木戸地区も
石の産地としても知られ、江戸時代初期の「毛吹草」には名産の一つに木戸石
が記載されている。

コンクリートなどの普及で石材としての使われる範囲は狭まってはいるが、石の
持つ温かさは、我々にとっても貴重な資源である。
明治十三年(1880)にまとめられた「滋賀県物産誌」には、県内の各町村における
農・工・商の軒数や特産物などが記録されているが、その中の石工に関する記述の中
で特筆すべきは、旧志賀町周辺(比良の里も含む)の状況である。
この地域では「木戸村」の項に特産物として「石燈籠」「石塔」などが挙げられている
など、石工の分布密度は他地域に比べて圧倒的である。
また、木戸村、北比良村(いずれも旧志賀町であり、現在は大津市)では戸数の中に
おいて「工」の占める比率も高く、明治時代初めにおける滋賀県の石工の分布状況
として、この地域が特筆されるべき状況であった、と言われる。
いまでも、八屋戸地区の家々の庭には、守山石と言われるこの地域で多く採れた石が
庭の石畳風景として見られるし、山からの水を引く水路や昔は洗い場として使われた
「かわと」、害獣対策としてのしし垣など生活のあらゆる場所で垣間見られる。

3.10年間の活動より
石塚さんの話から活動の範囲について簡単にまとめると、

事業項目として、以下の様な活動を進めてきた。
・地域の特性を生かした自立できるまちづくり/社会環境教育
・地域の自然・文化環境の保全・回復
・第1次産業の活性化(農林業の維持育成、交流)
・景観の維持・創造
・人的ネットワークを広げる
・まちづくりの政策提言 
・自然との共生をテーマにした研究と提言
・芸術、文化の発展
などとの事。

さらに、10年間の様々な活動について色々とお話を聞いたが、その活動の広さは
まさに「この地を好きだから」が活動の原点にある様だ。

1)比良里山まつりの開催
平成17年から平成21年まで開催し、八屋戸地区の棚田を中心に様々なイベント
を実施した。

2)比良の里山の魅力探訪
日本全国で見たとき、これだけまとまった地域に大きな湖があり、山があり、多様な
環境、歴史、いろんな資源、生物があるというのは恵まれすぎる位、恵まれている所
であり、それを活用する気になれば何でもできそうなものを一地域で備えている。
これを知ってもらうため、設立当初から開催して来た。
例えば、
・南小松・里山歩き~石にまつわる文化的場所・里山の植物観察~
コース:八幡神社→天狗杉→弁財天→野小屋→トンボ車(増尾邸)→琵琶湖湖岸
「江戸時代から、南小松では200軒~300軒、ほとんどの家が石材加工業を
営んでいたが、後継者が無く、現在ではほんのわずか数える程になった。
しかし石は人々の生活に今も溶け込んでいて改めて、石材加工業の拠点であること
を実感した」という。
・比良登山・アシュウスギとブナ原生林を見に行く
比良リフト乗り場→ロープウェイ乗り換え駅→比良明神→カラ岳→八雲が原湿原
→金糞峠→アシウスギ原木→青ガレ
「岩ウチワや、シャクナゲ、においこぶし(良い匂いがします)の花がきれいで
あった。八雲が原湿原付近には、赤ハラも生育し、金糞峠の水には鉄分が染み
出していた」の感想もある。

3)石積みの川復活プロジェクト
平成20年より、びわ湖自然環境ネットワーク“石組の川復活プロジェクト”に
参画した。比良山麓をはじめ、県内各地で小河川においてもコンクリート化が
進められ、これまで使用され、保存されてきたてきた石積みの川が消滅寸前にある。
びわ湖自然環境ネットが進める石積みの川を保存するとともに、壊された所は
復元を目指す事業に参画した。
大道川の上流で石積みの残る場所に行き、現地を調査した後、樹木伐採・運搬班、
上流・下流石組補修班の2班に分かれて作業を開始。樹木伐採班は、川沿いのスギと
ヒノキの大木を伐採処理、上下流の石組班は数台の重機を使って壊れた石組みの箇所
を次々と補修し、中には直径1メートルもある大石もあったが、3箇所の主な
破壊場所を見事に補修できた。
参加者は、比良の里人、造園協会、一般・学生など計20名ほどであった。
更にこのプロジェクトは2回ほど行い、大道川の石組区間約300メートルを3回の
作業で補修を完成させることが出来た。毎回20名弱の参加者があり、楽しくしかも
しっかりとした補修となった。

4)雑木林と間伐整備作業
平成17年11月の2日間、雑木林整備事業を行った。NPO法人としての
初仕事であったが、15名ほどの会員が集まり、雨という悪条件でもあったが、
無事事故も無く終了した。

5)河川水質調査を行った。
平成18年より20年まで「身近な水環境の全国一斉調査」(みずとみどり研究会
主催)比良の里人も協力して地元の水の水質調査を行った。

6)地元をあらためて知る
・小松散策
司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」は旧志賀町、北小松から始まる。
地元で暮らしていても、日頃なかなかゆっくりと触れることのできない、
文化・歴史・文学の痕跡をたどりながら散策した。
他には、八屋戸などの散策も実施し、江戸時代からの三面石組水路は、歴史を感じ
させると共に、現代の近代工法であるコンクリート三面張りに比べ、性能においても
美観においても、さらに生物多様性にとってもはるかに凌いでいると再認識した。
・近江舞子内湖視察
「近江舞子ホテル」の廃業など痛手を受ける中、何かこの内湖の湖面を、観光や地域の
振興に生かせないか、ということで、水の様子、動植物の生態を水上から観察した。
現在、水質はかなり汚い。内湖の水が汚いのは、もともと富栄養化しやすく、内湖に栄
養を貯めることによって、琵琶湖の浜がきれいになるため。水をこれ以上きれいにする
ことは難しいが、これ以上汚さないようにすることはできる。
また、湿地帯 水質を浄化するヨシが枯れてきている。ヨシの背が場所によって低く
なってきていた。ヨシの間には、サギが住んでいたり、茎に卵を産みつけ魚の産卵場所
になっている。
カワセミ、カイツブリ、カメ、トンボの類もたくさんいた。内湖を景観と湖面を活かす
方法としては、タライ船を櫓でこぐ・水上運動会・中秋の名月を湖上で見る会・などな
どが案として出ていた。

7)休耕田の有効利用に向けて
平成17年より継続的にヤギの放牧事業(ヤギが雑草を食べ、同時に猿害対策にも)
と摘んでもいい花畑事業を実施して来た。
バジル苗植え付け・種まき、草抜きを実施した。
チューリップが終わり、そこにひまわりがいくつか芽をだし、周りの草抜きをした。
カモミールは可愛い白い花が満開になった、などの報告もある。
バジルはたくさんつくる予定で種まきと苗の植え付けをおこなった。
以後、いろんなハーブが花を咲かせ始め、草抜きなどを継続的に実施した。

8)生水の流れる川作り
生水(しょうず)はこの地域では、山からの恵みとして、飲み水や生活用水などに
使われて来た。平成24年よりこの生水を活かすための川作りに取り組んでいる。

9)近江舞子内湖活性化と環境学習
平成20年には、「内湖シンポジウム」を開催し、今年まで継続的にタライ舟
に乗った環境学習を実施してきた。最近は、京都からの参加者もあり、当初の
想いが広く認められつつある。
「旧志賀町の良さや伝統が伝承されず風化してしまう」と危機感を覚え、地元の
魅力を次代へ伝えようと、かつて水泳や魚釣りといった遊び場であり、民家の屋根葺き
に使われた葦刈り場、在来魚のよい産卵場でもあった大津市南小松(旧志賀町)にある
「近江舞子内湖」で「内湖に関心を持ってもらいたい」と地元の子どもたちへ向けた
環境学習を実施した。

環境学習は、「内湖には普通の舟ではなくタライ舟が似合うのでは」と、タライ舟体
験を通して行われる。たらい舟は「地元漁師の小屋に置かれていた地引き網を保管する
大きな桶を発見し譲り受け、地元で桶などの修復を手がける人に直してもらった」と、
最初に地元でタライ舟を作った。しかし、「1艘では学習するには足りない」こと
から、タライ舟で知られる新潟県佐渡市まで足を運び、教わったタライ舟の設計図を
もとに新たに2艘を製造した。さらに、「操作技術も教えてもらってきた」という。
子どもから親まで巻き込みながら実施されるこの学習は、今も継続してる。
当日、初めてタライ舟を体験した子どもたちは、法人のメンバーらに舟の漕ぎ方を
手取り足取り教わりながら内湖で遊び、舟の上から水の透明度や水深を測り、自生する
葦を観察するなど自然環境を学んだ。

この10年で様々な形で地域の良さをあらためて知り、比良の持つ有形無形の様々な
地域資源を活かすための努力を会員を中心にしてきたと石塚さんは言う。

4.今後に向けて
最後に、石塚さんから今後の想いについて聞いた。

当面の最大の目標はこの比良の地域の織り成す石の文化を活かした地域づくり
としての「重要文化的景観」地域としての選定になること、と石塚さんは言う。
比良を中心としたこの地域から産する石材を利用した多くの歴史的な構造物が今も
残っている。これらは、河川や琵琶湖の水害から地域を守るための堤防、獣害を
防ぐしし垣、利水のための水路、石積みの棚田、神社の彫刻物などであり、高度な
技術を持った先人たちが、長い年月をかけて築き上げてきた遺産である。

しかしながら、その多くは、産業の変化、土地の開発、農業従事者の減少などに
伴って荒廃しつつある。先人の残したこれらの地域資産を後世に残し、更には
地域全体の活性化の中核的な活動としても当法人が進めていくべきと考えている。
このため、今年は「石の文化景観調査」を北小松から和邇南浜まで実施し、
あらてめてこの地域の潜在的な資産の多さを知り、12月6日には著名な先生も
呼んで「重要文化的景観」認定のためのシンポジウムも開催した。
これを具体的な形にするには、まだまだ解決すべき課題は多くあると思っているが、
是非、「比良の里人」として活動を進めて行きたい。

同じ内容が以下の県内ブログにも投稿しています。
http://ohminet.shiga-saku.net/e1229931.html

2016年2月4日木曜日

「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)より

この文章は、この里を見るとき、心しておくべきことかと思う。
P171 
近江という国は、京都などと異なった特殊な文化圏なのだということと、
その思いの根幹に近江の湖という異色の存在の蔵する歴史的、文化的な
意味合いの豊かさをいつも実感していたという事です。
一見、不思議な事は五畿七道という律令国家体制下の地方行政区分畿内に「近江」が
入っていないという事です。大化の改新の詔の四至畿内制では、「北は近江の
狭狭波の合坂山より以来を畿内国うちつくにとす」とあります。
、、、
これまで述べて来た湖西のくさぐさの土地の印象は、しかし、右のような近江
の印象とはかなり違っていると思われます。明らかに奈良時代以前のまたは
奈良時代のさらには平安時代の歴史や文学という文化的な営みが湖西のくさぐさの
土地に色濃く陰を及ぼしていると思うからです。とりわけ戦乱などで人を危めたり、
住居を廃墟にしていったりしたことが、悔恨となったり、悲しみになったり、
怨念となったりして人の心に複雑な影響を及ぼし、つまりはその土地の歴史や文化
に豊かな陰翳を与えていったものと思われます。
湖西の湖山々の静かな広がりの底にそこに生きた人々の魂のドラマが蠢いている
ように思われるのです。近江は単なる邨でも畿外でもなく、とりわけ湖西はその
空間的な広がりは水平的に横に広がっているというよりも垂直的に地に向かって
沈んでいるといった印象をもっています。

さらに各フレーズを見ていく。
P35
比叡山山麓を湖岸沿いに行くと、苗鹿、雄琴、堅田と進みます。苗鹿、雄琴には
北国街道(西近江路)が貫通。苗鹿村の街道沿いには常夜灯が建てられ、今も
残されています。
苗鹿には街道を挟んで、右側に那波加神社、左側に那波加荒魂神社があります。
それよりいくと雄琴です。近江與地志略に「雄琴大明神社 雄琴村にあり。
祭神白山大権現なり。崇道尽敬天皇社 雄琴村の上にあり。祭神舎人親王也」
とあります。
雄琴大明神社は、現在、雄琴神社と改称され、崇道尽敬天皇社の祭神は合祀
されました。

P46
比良、小松
西近江路は木戸の集落を抜けると琵琶湖湖畔近くを通ります。左方山側は比良山系
の中心部というべき地域で蓬莱山から北に、比良岳、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳と
連なっています。山々は冬には日本海側から吹き寄せられた雪に覆われます。
冬の比良岳は、近江八景の一つ比良の暮雪の装いを見せます。
秋から冬には、比良山地からは、山麓から湖岸にかけて、比良おろしという強い
風が吹きます。特に春先に吹く最も強い風は、地元では荒れじまいといい、一般的には
比良八荒とよばれます。この時季、比良八講が執り行われていたことがその所以です。
貞亮二年刊の黒川道祐「日次日記」には「二月二十四日比良八講 江州比良明神、
古今曰く、比叡山の僧徒、法華八講を修む。この日湖上多く風烈し、ゆえに往来の
船は急事に非ずんば即ち出でず」と記されています。法華八講は法華経八巻を講ずる
天台の法会です。ここに言う江洲比良明神社は、「神祇志料」は「滋賀郡比良嶽東麓
比良大明神又白鬚明神」としていますが、現在は明神崎の白鬚神社に比定されて
います。
比良から小松にかけての、吹き寄せる比良の山風とその山風が運んで来る比良の雪は、
歌に詠まれ絵に描かれてきました。「万葉集」に「ささなみの 比良の山風の
海ふけば 釣りする海女の 袖返る見ゆ」と詠われています。
比良の山から湖に吹き降ろす風が、釣りをする海女の袖をひるがえす。古代北陸道の
淡海の、比良の山と湖には、万葉人の心を捉える風景がありました。それは、後の時代
には歌枕として様々に詠まれています。南比良や北比良には、湖畔に比良浦とか比良湊
と呼ばれる入り江や小松崎の汀などの名勝があります。万葉集に「わが船は 比良の
湊に 漕ぎ泊てむ 沖辺な離り さ夜ふけにけり」と言う歌が載せられています。
この歌は夜に船を停泊させる湊が比良川の河口近くあった事を示しています。

P82
近江の神社の多くは奈良時代の天智朝、天武朝に創祀されたと伝えられる古社です。
その中に、平安時代に朝廷が崇敬した神社があります。醍醐天皇の御代に制定された
延喜式神名式に、国家の祭祀にかかわる神社の一覧が揚げられています。
式内社と称され、祈年祭にあたり幣棉を受ける大社と地方の行政機関である国司
から受ける小社があり、そのうち名神大社とされる、特に国家の重大事に神祇官
が斉行する名神祭に列する二八五座の大社がありました。
この式内社は全国で2861処3132座の神社が揚げられています。
近江国には、滋賀郡八座、栗太郡八座、甲賀郡八座、野洲郡九座、蒲生郡11座
神崎郡二座、愛知郡三座、犬上郡七座、坂田郡五座、浅井郡14座、伊香郡46座
高島郡34座計155座があります。、、、、、
近江の式内社のうち、琵琶湖西岸に位置する古代の滋賀郡には、七社八座が「延喜式」
に載せられています。
これらの式内社について、「神社 録」は、次の通り記しています。
・那波加神社
・倭神社
・石坐神社
・神田神社
・小野神社二座
・日吉神社
・小椋神社
このうち、日吉社について言えば、名神大の一座は従4位上の大山咋神ではなく
正1位の大己貴神とあるべきところです。
滋賀郡は、古市、真野、大友、錦部の四郷からなり、湖南の錦部は古代の大津京
の置かれたところで、湖西の真野はその基盤となる地域です。式内社をはじめ
とする神社は、真野氏、小野臣や近江臣など湖西地域を本拠地とする古代豪族
の創祀になるものが多く、比叡や比良の山麓と琵琶湖畔に鎮座しています。
滋賀郡の北部に位置する真野郷には式内社である神田神社があり、隣接してやはり
これも式内社である小野神社があります。両社は湖西を本拠地とした古代豪族の
真野氏と小野氏が祭祀した神社です。祭神は、天足彦国押入命を同じくし、それぞれに
米餅シマ大使主命と彦国葺命を祀っています。

P84から
日本書紀に「天足彦国押人命あまたらしひこくにおしひとのみことは、此れ和邇臣等
が始祖なり」とあります。日本書紀によると、天足彦国押人命あまたらしひこくにおし
ひとのみことは、第5代考照天皇の皇子で、母妃は尾張連の遠祖興津世襲の妹世襲足媛
とあります。また、古事記には、天押帯日子命あめおしたらしひこのみこととし、
奥津余曾の妹余曾多本毘売命よそたほひめのみことの御子とあります。

古事記には、兄天押帯日子命は、「春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、
壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、
伊勢飯高君、壱師君、近淡海国造の祖なり」とあります。
これらからは、春日、大宅、柿本、壱比韋は大和国の氏族、粟田は山城国、
小野、近淡海国造は近江の氏族であり、その他、尾張国、伊勢国など諸国の氏族です。
いずれも、天武天皇13年の「八色の姓」制定において、朝臣の姓を授けられている
豪族です。ここに挙げられた氏族は、天押帯日子命を祖とすることによって同族
とされていました。
その紐帯は共通の祖を祭祀することにあります。それを保証するのが天皇に
連なる系譜です。天押帯日子命を祖として祭祀することにおいて、近江国の真野氏
もまた春日臣らと同族の一員であるといえます。
筆頭の春日臣は、「新撰姓氏録」に、「大春日朝臣、考照天皇皇子天帯彦国押人命
よりでるなり」とし、「家に千金を重ね、、、、、後改めて春日臣と成す。
こう武天皇延暦廿年、大春日朝臣の姓を賜る」と記しています。

「新撰姓氏録」に「和邇部。天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり」とあります。
そして、同じく「真野臣。天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり」とも記して
います。
大和国に本拠を置く和邇部と近江国の真野臣は、同一の遠祖に連なっています。
和邇氏の祖神が大和国で祭祀されるのに対して、真野臣の祖神は近江国で祭祀されて
きました。それが他ならぬ神田神社です。神田神社は、真野と並んで普門にも鎮座
しています。普門町の宮地のそばに天足彦国押人命三世孫彦国葺命を祀る神田神社
があります。樹林に囲まれて本殿は檜皮葺きの三間社流造りです。
神田神社(真野普門)
祭神 天足彦国押人命三世孫彦国葺命、素 鳴命すさのおのみこと
   鳥務大津忍勝とりのつかさおおつおしかつ

P94  比良山麓の鎮守社
比叡、比良山麓の真野川、小野川、和邇川の流域に広がる真野郡には、各村落に
鎮守社が鎮座しています。それらの多くはかって荘園領主が地域の鎮守として勧請
した神々であったが、近世以降は村落の鎮守として祭祀されて来た。
志賀町史は、比良山麓の荘園鎮守の社について「この地域が山門膝元であっただけに、
山王上七社を構成する神祀の一つ十禅師権現を勧請したものが多く、本町地域の
荘園においても例外ではない」としている。そして、「和邇荘には大字和邇中に
天皇社、木戸荘では大字木戸に樹下神社、比良荘は大字北比良と南比良の村境に
天満神社、樹下神社、小松荘には大字北小松に樹下神社がそれぞれ鎮座しているが、
天皇社はかっての牛頭天王社、木戸、比良、小松の樹下神社は旧十禅師権現社である」
と記している。
近世までの各神社は、明治の神仏分離によって社号や神号の改変が行われた。
祇園社の牛頭天王と日吉社の十禅師および明神は、いずれも仏号であるとして
神号に改められた。

志賀町史からの記述では、
町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間
の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。
なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用
しています。
主な神社建築は、
①樹下神社(北小松)
十禅師社と天満社の二棟。
祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト
②八幡神社(南小松)
祭神は、応神天皇
③天満神社(北比良)
祭神は、菅原道真公
④天満神社お旅所(北比良)
⑤樹下神社(南比良)
⑥湯島神社(荒川)
祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト
⑦樹下神社(木戸)
樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。
祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。
また、木戸荘の荘園鎮守社として勧請され五か村の氏神となっており、
木戸、守山、大物、荒川、北船路村からなる木戸荘の惣氏神とされた。
⑧若宮神社(守山)
⑨八所神社(北船路)
⑩八所神社(南船路)
祭神は、八所大神、住吉大神
⑪水分神社(栗原)
祭神は、天水分身アメノミクマリノカミ
⑫住吉神社(北浜)
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命
⑬大将軍神社(中浜)
祭神は、中浜神
⑭樹元神社(南浜)
祭神はククノチノカミ
⑮天皇神社(和邇中)
三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もある。
祭神はスサノオノミコト。元は京都八坂神社の祗園牛頭天王を奉遷して
和邇牛頭天王社と称した。
近世では、五か村の氏神。
⑯小野神社(小野)

P160
万葉集には湖西を詠った歌も多い様だ。
・思いつつ来れど来かねて三尾の真長の浦をまたかえり見つ
(三尾の崎は高島南部の明神崎?と言われている)
高島勝野周辺の風景の美しさに心を打たれた様子が分かる。
・高島の阿渡の湊を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
安曇川の河口にあった湊に停泊していた船が今はもう塩津か菅浦辺りをを漕いで
いるのであろう、という想いある歌。
・大御舟泊ててさもらう高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ
天智天皇たちの乗った舟が近江の湖を巡幸し、一旦停泊し勝野などの情景に
感動した体験。
日本書紀の斎明天皇の5年の時に、「天皇、近江の平浦に幸す」とあり、ここに言う
「平浦」とは比良の浦であり、比良の湊のことであったと考えられます。
湖西線の駅で言えば、北小松から近江舞子、比良、志賀駅などの湖水側は、比良の浦と
称する美しい浜と湖が続いており、時の天皇はそこへ度々行幸されていたのです。
・わが舟は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖辺な離さかりさ夜ふけにけり
私の乗った舟は今夜は比良の湊に停泊する事にしよう。沖のほうに湊を離れて漕ぎ
出さないように気をつけてくれという意味。

また、柿本人麻呂の歌で、
近江の海 夕波千鳥 汝なが鳴けば 心もしのに 古いにしえ思ほゆ
近江の海の夕波にさわぐ千鳥よ、お前が鳴くと心も萎えるばかりに昔のことが偲ばれる
近江の海の広がりが空間的なものを時間的なものへと変えている。つまり郷愁と
懐古の想いが明確に出ている。

P169
万葉集に旋頭歌がある。
青みづら依網よさみの原に人も逢はぬかも石走淡海県いはばしるあふみあがたの
物語せむ
依網の原で誰か人に逢わないかな、近江県の物語をしたいもの、と言う意味。
これも柿本人麻呂の歌らしいが、伝承歌的なものなのであろう。

近江大津京の廃墟に立ち寄ったときに、人麻呂が今は草に埋もれ、霞の中に無残な姿を
晒しているかっての都の跡をみて詠じた歌であります。知られるように大津京は
壬申の乱で廃墟となりました。喪失の感情と傷ついた心の内にあるかなしみが
これらの歌から伝わってきます。

楽浪さざなみの志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

唐崎は今も変わらずにあるが、いくら待ってももう大宮人たちの乗った舟はやって
こない、また志賀の大曲おおわだ(入り江などの地形が湾曲しているところ)は
人待ち顔に淀んでいても、旧き都の人たちに逢うことは出来ない、と喪われて
しまったものの重さ、大きさに焦点をあてて詠っています。

さらには、「近江野ざらし行」より、
和邇の湖岸は古歌に平浦、湊と詠われたところとも当たられて今の中浜、北浜、
南浜一帯を言われまた、南北比良あたりともされているが、南浜の樹元神社は
天暦8年創建ともいわれ北浜の住吉神社は寛政7年創始といい、南船路の八所
神社は神護景雲二年(768)創建と伝えられ真宗慶専寺は元天台で恵心の
創立といい北浜の真光寺は伝教大師の創立と言え早くから開け北国街道、
龍華街道の和邇駅への湖上の湊として比良とはすこし隔たっているが相応しく
想定される。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜ふけにけり  万葉集 高市連黒人
ふゆゆけば嵐やさえて漣(つれづれ)の比良の湊に千鳥なくなり     新拾遺集 
宗尊
ふねとむる比良の湊に浮きねして山郭公(ほととぎす)枕にぞきく  家集頓阿

他には、
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
嵐吹く比良の高嶺の嶺わたしにあはれしぐるる神無月かな  道因法師
桜咲く比良の山風吹くなべに花のさざ波寄する湖      藤原長方
比良山の小松が末にあらばこそわが思ふ妹に逢はずなりせば  柿本人麻呂
子の日して小松が崎を今日見れば遥かに千代の影ぞ浮かべる 藤原俊成

栗原 天台宗の慶福寺、その150センチの石造宝塔、熊沢蕃山所縁の地
南船路 八所神社、浄土宗の光明寺、天台の西福寺、志賀清林の墓、
志賀 樹下神社の大きな狛犬、安養寺、西方寺、正覚寺

北小松の樹下神社
玉依姫、菅原道真を祭神とする。
鳥居の近くの石灯篭の奥に高さ二メートルを超える石造り宝鏡印塔が建っている。
近代の新しい二重の基壇の上に昔の返り花をつけた基壇上に壇上積式の基礎、
塔身、笠、相輪、宝珠と完備する塔で、笠の隅飾りの一部と宝珠が少し欠けているが、
文和5年2月の刻銘のある南北朝時代の代表的な塔で笠の四隅の飾りは、
蓮座上月輪、塔身の舟形背に浮き彫りされた四仏の座像など見事である。
本殿の後ろにも2基の石造り宝塔が建っている。高さは良く似ているが
宝珠のない塔は基礎低く側面飾りなく塔身も素朴で笠軒厚く全体に大らかに
造られ鎌倉時代末の塔で、となりの基礎に輪郭を捲き格狭間内に、開花蓮、
三茎蓮を陽刻しているが茎の曲線が面白く塔身も細かく意匠される。
相輪は後補の南北朝時代も室町時代に近い作品と推定される。

比良山は霊仙、権現蓬名、堂満といわれるようになった。


参考
歴史の中で比良明神が尻されたのは、明確ではないが、「石山寺縁起」には登場し、
奈良時代東大寺建立に尽力した良弁僧正の前に、老翁となって現われ、石山寺の地
を譲り、如意輪観音を祀らせたと伝えられる。また、琵琶湖が七度も葦原に変じた
のを見たほどの老齢で、仏教結界の地として釈迦尊に比叡の地を譲ったと言う
説話もあります。
旧くは湖西の山々を司る神が比良明神と言われている。
比良は修行のやまであり、「梁塵秘抄」には、
「聖の好むもの、松茸、平茸、滑薄なめすすき、さては池に宿る蓮のはい、根芹、
ねぬなは、河骨、独活うど、蕨、土筆」
山中で修行する聖が好む食材が豊富にある場所が比良だった。様々な茸、せり、
ジュンサイ、独活、土筆など山の幸が豊富な聖地との想いがあった。