2016年2月4日木曜日

「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)より

この文章は、この里を見るとき、心しておくべきことかと思う。
P171 
近江という国は、京都などと異なった特殊な文化圏なのだということと、
その思いの根幹に近江の湖という異色の存在の蔵する歴史的、文化的な
意味合いの豊かさをいつも実感していたという事です。
一見、不思議な事は五畿七道という律令国家体制下の地方行政区分畿内に「近江」が
入っていないという事です。大化の改新の詔の四至畿内制では、「北は近江の
狭狭波の合坂山より以来を畿内国うちつくにとす」とあります。
、、、
これまで述べて来た湖西のくさぐさの土地の印象は、しかし、右のような近江
の印象とはかなり違っていると思われます。明らかに奈良時代以前のまたは
奈良時代のさらには平安時代の歴史や文学という文化的な営みが湖西のくさぐさの
土地に色濃く陰を及ぼしていると思うからです。とりわけ戦乱などで人を危めたり、
住居を廃墟にしていったりしたことが、悔恨となったり、悲しみになったり、
怨念となったりして人の心に複雑な影響を及ぼし、つまりはその土地の歴史や文化
に豊かな陰翳を与えていったものと思われます。
湖西の湖山々の静かな広がりの底にそこに生きた人々の魂のドラマが蠢いている
ように思われるのです。近江は単なる邨でも畿外でもなく、とりわけ湖西はその
空間的な広がりは水平的に横に広がっているというよりも垂直的に地に向かって
沈んでいるといった印象をもっています。

さらに各フレーズを見ていく。
P35
比叡山山麓を湖岸沿いに行くと、苗鹿、雄琴、堅田と進みます。苗鹿、雄琴には
北国街道(西近江路)が貫通。苗鹿村の街道沿いには常夜灯が建てられ、今も
残されています。
苗鹿には街道を挟んで、右側に那波加神社、左側に那波加荒魂神社があります。
それよりいくと雄琴です。近江與地志略に「雄琴大明神社 雄琴村にあり。
祭神白山大権現なり。崇道尽敬天皇社 雄琴村の上にあり。祭神舎人親王也」
とあります。
雄琴大明神社は、現在、雄琴神社と改称され、崇道尽敬天皇社の祭神は合祀
されました。

P46
比良、小松
西近江路は木戸の集落を抜けると琵琶湖湖畔近くを通ります。左方山側は比良山系
の中心部というべき地域で蓬莱山から北に、比良岳、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳と
連なっています。山々は冬には日本海側から吹き寄せられた雪に覆われます。
冬の比良岳は、近江八景の一つ比良の暮雪の装いを見せます。
秋から冬には、比良山地からは、山麓から湖岸にかけて、比良おろしという強い
風が吹きます。特に春先に吹く最も強い風は、地元では荒れじまいといい、一般的には
比良八荒とよばれます。この時季、比良八講が執り行われていたことがその所以です。
貞亮二年刊の黒川道祐「日次日記」には「二月二十四日比良八講 江州比良明神、
古今曰く、比叡山の僧徒、法華八講を修む。この日湖上多く風烈し、ゆえに往来の
船は急事に非ずんば即ち出でず」と記されています。法華八講は法華経八巻を講ずる
天台の法会です。ここに言う江洲比良明神社は、「神祇志料」は「滋賀郡比良嶽東麓
比良大明神又白鬚明神」としていますが、現在は明神崎の白鬚神社に比定されて
います。
比良から小松にかけての、吹き寄せる比良の山風とその山風が運んで来る比良の雪は、
歌に詠まれ絵に描かれてきました。「万葉集」に「ささなみの 比良の山風の
海ふけば 釣りする海女の 袖返る見ゆ」と詠われています。
比良の山から湖に吹き降ろす風が、釣りをする海女の袖をひるがえす。古代北陸道の
淡海の、比良の山と湖には、万葉人の心を捉える風景がありました。それは、後の時代
には歌枕として様々に詠まれています。南比良や北比良には、湖畔に比良浦とか比良湊
と呼ばれる入り江や小松崎の汀などの名勝があります。万葉集に「わが船は 比良の
湊に 漕ぎ泊てむ 沖辺な離り さ夜ふけにけり」と言う歌が載せられています。
この歌は夜に船を停泊させる湊が比良川の河口近くあった事を示しています。

P82
近江の神社の多くは奈良時代の天智朝、天武朝に創祀されたと伝えられる古社です。
その中に、平安時代に朝廷が崇敬した神社があります。醍醐天皇の御代に制定された
延喜式神名式に、国家の祭祀にかかわる神社の一覧が揚げられています。
式内社と称され、祈年祭にあたり幣棉を受ける大社と地方の行政機関である国司
から受ける小社があり、そのうち名神大社とされる、特に国家の重大事に神祇官
が斉行する名神祭に列する二八五座の大社がありました。
この式内社は全国で2861処3132座の神社が揚げられています。
近江国には、滋賀郡八座、栗太郡八座、甲賀郡八座、野洲郡九座、蒲生郡11座
神崎郡二座、愛知郡三座、犬上郡七座、坂田郡五座、浅井郡14座、伊香郡46座
高島郡34座計155座があります。、、、、、
近江の式内社のうち、琵琶湖西岸に位置する古代の滋賀郡には、七社八座が「延喜式」
に載せられています。
これらの式内社について、「神社 録」は、次の通り記しています。
・那波加神社
・倭神社
・石坐神社
・神田神社
・小野神社二座
・日吉神社
・小椋神社
このうち、日吉社について言えば、名神大の一座は従4位上の大山咋神ではなく
正1位の大己貴神とあるべきところです。
滋賀郡は、古市、真野、大友、錦部の四郷からなり、湖南の錦部は古代の大津京
の置かれたところで、湖西の真野はその基盤となる地域です。式内社をはじめ
とする神社は、真野氏、小野臣や近江臣など湖西地域を本拠地とする古代豪族
の創祀になるものが多く、比叡や比良の山麓と琵琶湖畔に鎮座しています。
滋賀郡の北部に位置する真野郷には式内社である神田神社があり、隣接してやはり
これも式内社である小野神社があります。両社は湖西を本拠地とした古代豪族の
真野氏と小野氏が祭祀した神社です。祭神は、天足彦国押入命を同じくし、それぞれに
米餅シマ大使主命と彦国葺命を祀っています。

P84から
日本書紀に「天足彦国押人命あまたらしひこくにおしひとのみことは、此れ和邇臣等
が始祖なり」とあります。日本書紀によると、天足彦国押人命あまたらしひこくにおし
ひとのみことは、第5代考照天皇の皇子で、母妃は尾張連の遠祖興津世襲の妹世襲足媛
とあります。また、古事記には、天押帯日子命あめおしたらしひこのみこととし、
奥津余曾の妹余曾多本毘売命よそたほひめのみことの御子とあります。

古事記には、兄天押帯日子命は、「春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、
壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、
伊勢飯高君、壱師君、近淡海国造の祖なり」とあります。
これらからは、春日、大宅、柿本、壱比韋は大和国の氏族、粟田は山城国、
小野、近淡海国造は近江の氏族であり、その他、尾張国、伊勢国など諸国の氏族です。
いずれも、天武天皇13年の「八色の姓」制定において、朝臣の姓を授けられている
豪族です。ここに挙げられた氏族は、天押帯日子命を祖とすることによって同族
とされていました。
その紐帯は共通の祖を祭祀することにあります。それを保証するのが天皇に
連なる系譜です。天押帯日子命を祖として祭祀することにおいて、近江国の真野氏
もまた春日臣らと同族の一員であるといえます。
筆頭の春日臣は、「新撰姓氏録」に、「大春日朝臣、考照天皇皇子天帯彦国押人命
よりでるなり」とし、「家に千金を重ね、、、、、後改めて春日臣と成す。
こう武天皇延暦廿年、大春日朝臣の姓を賜る」と記しています。

「新撰姓氏録」に「和邇部。天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり」とあります。
そして、同じく「真野臣。天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり」とも記して
います。
大和国に本拠を置く和邇部と近江国の真野臣は、同一の遠祖に連なっています。
和邇氏の祖神が大和国で祭祀されるのに対して、真野臣の祖神は近江国で祭祀されて
きました。それが他ならぬ神田神社です。神田神社は、真野と並んで普門にも鎮座
しています。普門町の宮地のそばに天足彦国押人命三世孫彦国葺命を祀る神田神社
があります。樹林に囲まれて本殿は檜皮葺きの三間社流造りです。
神田神社(真野普門)
祭神 天足彦国押人命三世孫彦国葺命、素 鳴命すさのおのみこと
   鳥務大津忍勝とりのつかさおおつおしかつ

P94  比良山麓の鎮守社
比叡、比良山麓の真野川、小野川、和邇川の流域に広がる真野郡には、各村落に
鎮守社が鎮座しています。それらの多くはかって荘園領主が地域の鎮守として勧請
した神々であったが、近世以降は村落の鎮守として祭祀されて来た。
志賀町史は、比良山麓の荘園鎮守の社について「この地域が山門膝元であっただけに、
山王上七社を構成する神祀の一つ十禅師権現を勧請したものが多く、本町地域の
荘園においても例外ではない」としている。そして、「和邇荘には大字和邇中に
天皇社、木戸荘では大字木戸に樹下神社、比良荘は大字北比良と南比良の村境に
天満神社、樹下神社、小松荘には大字北小松に樹下神社がそれぞれ鎮座しているが、
天皇社はかっての牛頭天王社、木戸、比良、小松の樹下神社は旧十禅師権現社である」
と記している。
近世までの各神社は、明治の神仏分離によって社号や神号の改変が行われた。
祇園社の牛頭天王と日吉社の十禅師および明神は、いずれも仏号であるとして
神号に改められた。

志賀町史からの記述では、
町内の神社はいずれも規模が小さく、本殿と鳥居、拝殿、御輿庫、
などの付属建物で構成される。とくに、拝殿は三間もしくは二間
の正方形平面で入母屋造り、桧皮葺(ひわだぶき)である。
なお、補足に「びわ湖街道物語」(西近江路の自然と歴史を歩く)を活用
しています。
主な神社建築は、
①樹下神社(北小松)
十禅師社と天満社の二棟。
祭神は、鴨玉依姫命カモノタマヨリヒメノミコト
②八幡神社(南小松)
祭神は、応神天皇
③天満神社(北比良)
祭神は、菅原道真公
④天満神社お旅所(北比良)
⑤樹下神社(南比良)
⑥湯島神社(荒川)
祭神は、市杵島姫命イチキシマヒメノミコト
⑦樹下神社(木戸)
樹下、宇佐宮、地主の三棟がある。
祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコト
十禅師権現社と称し、コノモトさんとも呼ばれていた。
また、木戸荘の荘園鎮守社として勧請され五か村の氏神となっており、
木戸、守山、大物、荒川、北船路村からなる木戸荘の惣氏神とされた。
⑧若宮神社(守山)
⑨八所神社(北船路)
⑩八所神社(南船路)
祭神は、八所大神、住吉大神
⑪水分神社(栗原)
祭神は、天水分身アメノミクマリノカミ
⑫住吉神社(北浜)
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命
⑬大将軍神社(中浜)
祭神は、中浜神
⑭樹元神社(南浜)
祭神はククノチノカミ
⑮天皇神社(和邇中)
三宮神社殿、樹下神社本殿、若宮神社本殿もある。
祭神はスサノオノミコト。元は京都八坂神社の祗園牛頭天王を奉遷して
和邇牛頭天王社と称した。
近世では、五か村の氏神。
⑯小野神社(小野)

P160
万葉集には湖西を詠った歌も多い様だ。
・思いつつ来れど来かねて三尾の真長の浦をまたかえり見つ
(三尾の崎は高島南部の明神崎?と言われている)
高島勝野周辺の風景の美しさに心を打たれた様子が分かる。
・高島の阿渡の湊を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
安曇川の河口にあった湊に停泊していた船が今はもう塩津か菅浦辺りをを漕いで
いるのであろう、という想いある歌。
・大御舟泊ててさもらう高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ
天智天皇たちの乗った舟が近江の湖を巡幸し、一旦停泊し勝野などの情景に
感動した体験。
日本書紀の斎明天皇の5年の時に、「天皇、近江の平浦に幸す」とあり、ここに言う
「平浦」とは比良の浦であり、比良の湊のことであったと考えられます。
湖西線の駅で言えば、北小松から近江舞子、比良、志賀駅などの湖水側は、比良の浦と
称する美しい浜と湖が続いており、時の天皇はそこへ度々行幸されていたのです。
・わが舟は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖辺な離さかりさ夜ふけにけり
私の乗った舟は今夜は比良の湊に停泊する事にしよう。沖のほうに湊を離れて漕ぎ
出さないように気をつけてくれという意味。

また、柿本人麻呂の歌で、
近江の海 夕波千鳥 汝なが鳴けば 心もしのに 古いにしえ思ほゆ
近江の海の夕波にさわぐ千鳥よ、お前が鳴くと心も萎えるばかりに昔のことが偲ばれる
近江の海の広がりが空間的なものを時間的なものへと変えている。つまり郷愁と
懐古の想いが明確に出ている。

P169
万葉集に旋頭歌がある。
青みづら依網よさみの原に人も逢はぬかも石走淡海県いはばしるあふみあがたの
物語せむ
依網の原で誰か人に逢わないかな、近江県の物語をしたいもの、と言う意味。
これも柿本人麻呂の歌らしいが、伝承歌的なものなのであろう。

近江大津京の廃墟に立ち寄ったときに、人麻呂が今は草に埋もれ、霞の中に無残な姿を
晒しているかっての都の跡をみて詠じた歌であります。知られるように大津京は
壬申の乱で廃墟となりました。喪失の感情と傷ついた心の内にあるかなしみが
これらの歌から伝わってきます。

楽浪さざなみの志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

唐崎は今も変わらずにあるが、いくら待ってももう大宮人たちの乗った舟はやって
こない、また志賀の大曲おおわだ(入り江などの地形が湾曲しているところ)は
人待ち顔に淀んでいても、旧き都の人たちに逢うことは出来ない、と喪われて
しまったものの重さ、大きさに焦点をあてて詠っています。

さらには、「近江野ざらし行」より、
和邇の湖岸は古歌に平浦、湊と詠われたところとも当たられて今の中浜、北浜、
南浜一帯を言われまた、南北比良あたりともされているが、南浜の樹元神社は
天暦8年創建ともいわれ北浜の住吉神社は寛政7年創始といい、南船路の八所
神社は神護景雲二年(768)創建と伝えられ真宗慶専寺は元天台で恵心の
創立といい北浜の真光寺は伝教大師の創立と言え早くから開け北国街道、
龍華街道の和邇駅への湖上の湊として比良とはすこし隔たっているが相応しく
想定される。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜ふけにけり  万葉集 高市連黒人
ふゆゆけば嵐やさえて漣(つれづれ)の比良の湊に千鳥なくなり     新拾遺集 
宗尊
ふねとむる比良の湊に浮きねして山郭公(ほととぎす)枕にぞきく  家集頓阿

他には、
におの海霞める沖に立つ波を花にぞ見する比良の山風   藤原為忠
嵐吹く比良の高嶺の嶺わたしにあはれしぐるる神無月かな  道因法師
桜咲く比良の山風吹くなべに花のさざ波寄する湖      藤原長方
比良山の小松が末にあらばこそわが思ふ妹に逢はずなりせば  柿本人麻呂
子の日して小松が崎を今日見れば遥かに千代の影ぞ浮かべる 藤原俊成

栗原 天台宗の慶福寺、その150センチの石造宝塔、熊沢蕃山所縁の地
南船路 八所神社、浄土宗の光明寺、天台の西福寺、志賀清林の墓、
志賀 樹下神社の大きな狛犬、安養寺、西方寺、正覚寺

北小松の樹下神社
玉依姫、菅原道真を祭神とする。
鳥居の近くの石灯篭の奥に高さ二メートルを超える石造り宝鏡印塔が建っている。
近代の新しい二重の基壇の上に昔の返り花をつけた基壇上に壇上積式の基礎、
塔身、笠、相輪、宝珠と完備する塔で、笠の隅飾りの一部と宝珠が少し欠けているが、
文和5年2月の刻銘のある南北朝時代の代表的な塔で笠の四隅の飾りは、
蓮座上月輪、塔身の舟形背に浮き彫りされた四仏の座像など見事である。
本殿の後ろにも2基の石造り宝塔が建っている。高さは良く似ているが
宝珠のない塔は基礎低く側面飾りなく塔身も素朴で笠軒厚く全体に大らかに
造られ鎌倉時代末の塔で、となりの基礎に輪郭を捲き格狭間内に、開花蓮、
三茎蓮を陽刻しているが茎の曲線が面白く塔身も細かく意匠される。
相輪は後補の南北朝時代も室町時代に近い作品と推定される。

比良山は霊仙、権現蓬名、堂満といわれるようになった。


参考
歴史の中で比良明神が尻されたのは、明確ではないが、「石山寺縁起」には登場し、
奈良時代東大寺建立に尽力した良弁僧正の前に、老翁となって現われ、石山寺の地
を譲り、如意輪観音を祀らせたと伝えられる。また、琵琶湖が七度も葦原に変じた
のを見たほどの老齢で、仏教結界の地として釈迦尊に比叡の地を譲ったと言う
説話もあります。
旧くは湖西の山々を司る神が比良明神と言われている。
比良は修行のやまであり、「梁塵秘抄」には、
「聖の好むもの、松茸、平茸、滑薄なめすすき、さては池に宿る蓮のはい、根芹、
ねぬなは、河骨、独活うど、蕨、土筆」
山中で修行する聖が好む食材が豊富にある場所が比良だった。様々な茸、せり、
ジュンサイ、独活、土筆など山の幸が豊富な聖地との想いがあった。

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