志賀町史第4巻より ①北小松古墳群 写真では石室などはしっかりとしている。 ②南船路古墳群 ③天皇神社古墳群 ④石神古墳群 小野神社と道風神社の中間、形は残っていない ⑤石釜古墳群 和邇川沿いの井の尻橋付近 ⑥ヨウ古墳群 ゴルフ場と和邇川の中間 ⑦前間田古墳群 ⑥の隣り ⑧曼陀羅山北古墳群 小野朝日の西側 ⑨大塚山北古墳群 ⑧の北側 ⑩ゼニワラ古墳 ⑨の北側。玄室の写真あり ⑪唐臼山古墳 小野妹子公園の中 ①ダンダ坊遺跡 北比良タンタ山中。比良管理事務所付近 小野神社と古墳紹介 白洲正子「近江山河抄」より 国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、 大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の 尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと 重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から 湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、 思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、 いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように 迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。 大津の神社 http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/otsu.html 大津市古墳群紹介 http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/pom25201kokubu.htm 百穴古墳群はその数に圧倒される。 滋賀県大津市滋賀里。何とも鄙びた郷愁を感じる町名ではありませんか。考古学や古代 史、それに民族学に興味のある方には意外と知られている地名で、実は滋賀里周辺は遺 跡や古墳の宝庫なのです。特に崇福寺跡や倭姫塚、南滋賀廃寺や穴太廃寺、高穴穂宮跡 など名前がある遺跡だけではなく、無名の大小様々な古墳や遺跡が出土しており、ヤマ ト朝廷が大和を拠点とする以前から、数々の渡来人が住み着いたと言われる近江国の歴 史を鑑みると、これらの遺跡群も何となく納得できますね。 京阪電車滋賀里駅正面の八幡社の左側道路を比叡山に向かって急な勾配の坂道を上り 人家が途切れた先の右側に鬱蒼とした竹林が見えますが、ここが百穴古墳群と言われる 地域です。正確な墳墓は不明ですが大凡150基の墳墓が在るとされ、現在までに60基以 上 が発掘されています。 墳墓や建立様式からは6世紀後半のモノとされていますので、 天智天皇の大津京より100年前ということになり、この古墳群からもこの周辺が渡来系 豪族の拠点だったとされる所以です。この直ぐ北側の滋賀里二丁目では昭和40年代前半 の宅地造成に際にやはり広大な竪穴式古墳が出土し、かなりの勢力を誇った氏族が居た 事を裏付けています。 百穴古墳群の先には地元の人が「オボトケさん」と呼ぶ石仏が 祀られ、そこを過ぎると崇福寺跡に至ります。 山道は今も残っていて比叡山を越えて京都白川に至りますので、興味のある方は是非! 大津歴史博物館 http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/index.html 和邇や周辺文化財の一覧が参考となる。 堅田周辺、春日山古墳群や真野郷の史跡 http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-kasugayamakofun.html かすがやまこふんぐん【春日山古墳群】 滋賀県大津市真野谷口町にある古墳群。琵琶湖の西岸、堅田(かたた)地区背後の滋賀丘 陵の先端部に位置し、約220基からなる湖西地方最大で古墳時代後期の古墳群。5世紀代 に始まって6世紀後半に集中的に形成され、7世紀初頭に築造が終わったが、古墳群の中 心をなす春日山古墳以外はほぼ6世紀後半の円墳である。古墳群が所在する地域は、和 珥部臣(わにべのおみ)(壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)側につい て活躍した豪族)、小野臣(おののおみ)、真野臣(まののおみ)など和邇(わに)氏につな がる氏族の居住地で、彼らとの関連が強いと考えられる古墳群である。古墳は6群に分 けられ、これまでE支群と呼ばれてきた1群は23基の古墳からなるが、5世紀代の全長65m の前方後円墳である春日山古墳に始まって、2基の大型円墳が築造され、2小群に分かれ ると、6世紀後半に横穴式石室墳がこの2小群に継続して造られ、新たに1小群が誕生す るという推移を見せる春日山古墳群における中枢群である。埋葬の形式は、横穴式石室 や箱式石棺、木棺直葬とバラエティに富んでいる。1974年(昭和49)に国の史跡に指定 された。JR湖西線堅田駅から徒歩約15分。 曼荼羅古墳 http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.htm 歩きながら思ったのは、たとえば霊山やスピリチュアルなものを探して 人は遠くへ行こうとするけど、 素晴らしい場所が意外な足元にあったりする。 それを掘り起こして撮っていこうというのが、このシリーズの始まりだった。 白洲正子さんの「近江山河抄」を手がかりに歩いてみようと思ったのは、なぜだろう。 この風景を、今のうちにきちんと撮影しておきたいと思ったことが大きい。 ・・・ 「近江山河抄」の風景は、現に消え行く風景になっていないだろうか。 消え行くことさえ気付かれないまま、静かに消えようとしている風景があるとしたら。 この風景を撮っておきたいと思った。近江(滋賀)は、私の故郷でもある。 木の岡古墳 http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/2-e0f0.html 堅田観光協会 http://katatakankokyokai.com/mano.php 大津市南部の古墳 http://obito1.web.fc2.com/ootuminami.html 参考 http://www.sunrise-pub.co.jp/%E5%85%B6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E3% 80%80%E6%B6%88%E3%81%88%E3%82%86%E3%81%8F%E3%83%A4%E3%83%8A/ やな漁 10月も下旬頃になると、朝夕はめっきり気温が下がって、時折、湖上を北西の強風が吹 き抜けるようになる。12月の始めにかけて、こんな荒れた日やその翌日には、体を紅色 に染めたアメノウオが、琵琶湖から産卵のために川を上ってくる。アメノウオとは、万 葉の昔からのビワマスの呼称で、この魚を捕獲するために川に仕掛けられるのが「ます ヤナ」である。また、ビワマスとは、成長すると全長60㎝にもなる琵琶湖だけに生息す るサケ科の魚である。 琵琶湖のヤナというと安曇川河口に設置されるアユのカットリヤナがよく知られてい るが、おそらく古代から近世に至るまで、川の河口や内湖の出口にはどこでも、サイズ や構造が異なるさまざまなヤナが仕掛けられ、湖と川や内湖の間を移動する魚類が漁獲 されていたものと思われる。ヤナという漁具は、魚が獲れるかどうかは魚まかせのとこ ろがあるが、ヤナを設置する権利を得ると、待っているだけで魚が手に入るという便利 なものである。そのために、ヤナの漁業権を得ることは、その地域のかなりの実力者で その時代の権力者と結びつきをもった者でないとかなわなかったものと考えられる。写 真は、安曇川の南流に北船木漁業協同組合によって今も設置されている「ますヤナ」で ある。北船木漁業協同組合では、毎年10月1日に、京都の上賀茂神社へビワマスが現在 でも献上されており、古代の結びつきの名残がうかがわれる。 ところで、安曇川の「ますヤナ」が「今も設置されている」と断ったのは、かつて琵 琶湖では各所で見られたこのヤナが、どんどん消えているからである。小さな川のヤナ はほとんど消えたし、大きい川でも私が知っているだけでもこの20年ほどの間に犬上川 、愛知川、知内川、百瀬川などのアユやマスのヤナが消えている。 時代の流れとは言え、ヤナに限らず恐らく数千年の歴史をもち、その権利を得るため にどれほどの犠牲や労力が払われたか知れないヤナなどの漁業権やそれを行使する漁労 文化・技術がなくなってきていることは寂しい限りである。アメノウオを獲るための「 ますヤナ」も、もう写真の安曇川の南流のものしか残っていない。魚の減少にともなっ て、生業としてのヤナ漁が成り立たなくなってきているのである。琵琶湖の在来種を増 やし、漁業としてのヤナ漁が存続するようにすることが必要である。 滋賀県水産試験場 場長 藤岡康弘 日吉大社と宇佐山 http://uminohakata.at.webry.info/201409/article_1.html 以下の記事もある。 ・堅田の歴史 ・大津の狛犬 ・小野神社、小野妹子、小野篁神社、小野道風神社(楽浪志賀5) ・白洲正子近江山河抄。その1文(楽浪志賀2) ・私の古寺巡礼より その1文(楽浪志賀3) ・司馬叡山の諸道
2016年5月31日火曜日
坂本から堅田、小野など古墳神社情報。志賀観光の参考
大津の城
以下の城の詳細がある。多くは「近江與地志略」「淡海録」に記載されている。 1)膳所城 近江名所図会にもあり。 2)大津城 3)坂本城 4)宇佐山城 宇佐八幡宮の後ろにある。志賀の城と記載されている。石垣が遺構と してある。 5)細川城 朽木近く細川町にある。 6)小父母山城(こいもやま) 真野途中線周辺にあった。 7)生津城(なまず) 伊香立にあった。 8)真野城 小野駅の近く 9)堅田城、堅田藩陣屋 陣屋は文政絵図にて分かっている。 10)衣川城 衣川2丁目の公園 11)源満仲館 仰木の辻が下 12)伊庭氏砦 仰木 13)雄琴城 雄琴2丁目 14)山中城 山中町 15)壷笠山城 比叡山山中、壷笠山の山城 16)松本城 本宮2丁目 17)馬場城 馬場1丁目 18)石山城 石山寺近く 19)千町城(せんじょう) 石山団地の南 20)淀城 大石淀町 21)大石館 大石東町 22)関津城(せきのつ)田上関津町にあり 23)田上城(たなかみ) 田上里村にあり 24)森城 田上森町にあり 25)羽栗城 田上羽栗まちにあり 26)中野城 上田上中野町の荒戸神社 27)瀬田城 瀬田唐橋の東側、臨湖庵
志賀、小満
葦が色づく頃、カイツブリの姿がその林の中に見え隠れする。 琵琶湖も季節の違う彩を見せ始めている。 例えば、司馬遼太郎も24巻の中で、カイツブリと松尾芭蕉について書いている。 「かいつぶりがいませんね。 良く知られるように、この水鳥の古典な名称は、鳰である。 水にくぐるのが上手な上に、水面に浮かんだまま眠ったりもする。 本来、水辺の民だった日本人は、鳰が好きだった。鳰が眠っているのをみて、 「鳰の浮寝」などといい、また葦の間に作る巣を見て「鳰の浮巣」などとよび 我が身の寄るべなき境涯に例えたりしてきた。 琵琶湖には、とりわけ鳰が多かった。「鳰の海」とは、琵琶湖の別称である。 「淡海のうみ」という歴史的正称は別として、雅称としては「鳰の海」のほうが 歌や文章の中で頻用されてきたような気がする。 、、、、 俳句では鳰そのものは冬の季題になっている。もっとも、芭蕉が近江で作った 鳰の句は、梅雨のころである。 五月雨に鳰の浮巣をみにゆかむ この句では初夏のものとして鳰が登場する。鳰は夏、よし、あしの茂みの中に 巣を営む。句に「鳰の浮巣」が入れば季題としても初夏に入り込むらしい。 琵琶湖とその湖畔を、文学史上、たれよりも愛したかに思われる芭蕉は、 しばしば水面のよしの原を舟で分け入った。この場合、五月雨で水かさを 増した湖で、鳰たちが浮巣をどのようにしているか、そのことを長け高い 滑稽さを感じてこの句を作ったようである。 鳰というのは、あっという間に水面から消える。 かくれけり師走の海のかいつぶり とも、芭蕉は詠んだ。また山々にかこまれた春の琵琶湖の大観を一句に 納めたものとしては、 四方より花吹き入れて鳰の海 というあでやかな作品も残している」。 「暦便覧」には、この季節、小満は「万物が次第に成長して、一定の大きさ に達して来るころ、万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されている。 草木が生い茂り、山の緑が濃くなる頃であり、裏山の檜や韮の樹にも生気 に満ちた木々の香りが立ち込める。この頃、古来より親しまれてきた山菜 のひとつ、わらびも育つ。わらびの根から採る「本わらび粉」はわらび餅 の原料で、強い粘り気と豊かな自然の風味が特徴であり、竹林の向こう にいる農家では古老がわらび餅をつくる。 更に七十二候では、 ・蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)5月21日頃 蚕が桑の葉を盛んに食べだす頃。蚕がつむいだ繭が美しい絹糸になる。 海ではきす、湖ではにごいや小鮎が捕れ頃となり、その味にまた一つ加わる。 ・紅花栄(べにばなさかう)5月26日頃 紅花の花が咲きほこる頃。紅花は染料や口紅になり、珍重された。 ・麦秋至(むぎのときいたる)5月31日頃 麦の穂が実り始める頃。「秋」は実りの季節を表し、穂を揺らす風は「麦の秋風」。 刈り取りを待つ麦畑は一面の黄金色。この頃、降る雨を麦雨ばくうと呼ぶ。 枇杷が黄色く色づき、四十雀しじゅうからがツィピーツィツィピーと啼いて 緑の山並みに彩りをつける。 どこかで蛙が鳴き、田圃に水が引き込まれ、小さなせせらぎが微妙な音を 奏でていた。水の張られた田圃には、7、8羽の白鷺がその白さを水面に 映しながらひと時の安らぎと食べ物を得ている様でもある。 春から夏への季節の移ろいが始まり、大きく育った草花がそれぞれの花や 大きな葉を気の向くまま広げていた。
2016年5月25日水曜日
志賀の古墳
志賀町史第4巻より ①北小松古墳群 遺跡の立地は比良山系の尾根筋を山系の北から数えて2つ目となる尾根筋 最先端から一段と下がった低位に位置する山塊の先端近くに主に分布する。 AからCと北の支群の4つのグループが見られる。計12基の古墳がある。 概ね、主体部は横穴式石室からなり、長さは4メートルほど高さは2メートル弱と 想定さる。出土品には須恵器と鉄釘があった。 石室などはしっかりとしている。 ②南船路古墳群 南船路の集落から天川を隔てた西南西の丘陵裾野にある。総計7基の古墳がある。 多くは径7,8メートルの円墳で、主体部は横穴式石室からなり、高さは2メートル弱 と想定される。 ③天皇神社古墳群 天皇神社の境内にある。3基ほどの古墳があるが、高さ1メートル強の円墳。 ④石神古墳群 小野神社と道風神社の中間にあり、眺望のよい場所である。4基の古墳からなる。 主体部は横穴式石室からなり、一番大きな4号墳は直径15メートルほどの墳丘 である。 天井石は1石で高さは3メートルほどあり、比較的高い。家形石棺が出土しているが、 須恵器と土師器に刀の小片があった。鉄滓も採取された。 大きさなどからも有力豪族(小野氏?)の墓と思われる。 なお、志賀町史第1巻には、以下の記述もある。 「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の 一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では 一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から 精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が 作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡 単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための 送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び 出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産 の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で 出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や 大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる 場合も多くあった。、、、、」 ⑤石釜古墳群 和邇川沿いの井の尻橋付近にあり、琵琶湖をまじかに見れる場所ではない。 南北2つの支群からなり、総計で7基の古墳がある。直径5メートルから 19メートルほどのものもある円墳である。 ⑥から⑩まではいずれも曼荼羅山を囲むようにして、築造されている。 ⑥ヨウ古墳群 曼荼羅山の北にあり、ゴルフ場と和邇川の中間に位置する。3基の古墳からなる。 直径22メートルほどの円墳の1号機をはじめ結構大きい。 ⑦前間田古墳群 曼荼羅山の北裾とヨウ古墳群との中間にある後期古墳群である。3基の古墳からなる。 直径が10メートル前後のものであり、規模的には大きくない。 ⑧曼陀羅山北古墳群 小野朝日と緑町の中間、曼荼羅山の尾根に築造されている。眼下に和邇川河口や 琵琶湖、対岸の湖東も見える場所である。5つの古墳からなる。 直径は10から20メートルほどの円墳であり、主体部は横穴式石室になっている。 ⑨大塚山北古墳群 曼荼羅山の尾根筋上のなだらかな頂部に築造された3基からなる古墳群である。 いずれも直径10数メートルの円墳である。 ⑩ゼニワラ古墳 曼荼羅山北寄りの東に位置し、丘陵の尾根筋に占める単独の古墳である。 直径は20メートル、横穴式の石室で何枚かの岩で積み重ねられている。 出土には須恵器があった。 ⑪唐臼山古墳 小野妹子公園の中にあり、前方後円墳の崩れたものではないかとの推測もある。 墳丘は南北18メートル、東西20メートルほどあり、大きめの古墳とみられる。 白洲正子「近江山河抄」に以下の記述がある。 国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、 大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の 尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと 重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から 湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、 思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、 いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように 迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。 ⑫小野不二ケ谷古墳群 滋賀丘陵の尾根筋上部で傾斜変換点を創り下降する交点に位置する。 2つの古墳からなり、集落の間に築造されているため、その集落で祭祀されて きた集落間の一体化が考えられる。3点の土器を含め、幾つかの遺物がでている。 ⑭和邇大塚山古墳 ゼニワラ古墳の近くにあり、前方後円墳を成している。琵琶湖が広く望め、 その規模は全長72メートルほどある。盗掘があり、その原型を推し量るのは厳しい。 副葬品としては、鏡一面、刀剣三点、甲冑一点、鉄斧二点などがある。 ⑮小野神社古墳群 小野神社本殿の北脇にある。2基の古墳からなるが、小野神社の敷地整備に伴い、 その規模は不明。主体部は箱式石棺と思われる。以前には、石棺が他に5基 あったといわれるが、確認できない。 ⑯道風神社古墳群 道風神社本殿のすぐ西側に古墳がある。2基の円墳があり、直径は20メートルほど、 であるが具体的な形は不明。 なお、志賀町史第1巻にも、同様の記述があり、それと合わせて確認するのもよい。 |
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2016年5月7日土曜日
志賀、立夏
比良の山が雪帽子を被った立春から雪から雨になる雨水を過ぎ、虫たちの 這い出す啓蟄、そして春分、清明と陽射しがその強さを増し、桜咲く日々を 迎え、穀雨となり田畑に水が入り込む。さらに、夏の先駆けとしての立夏、 今のこの季節なのである。暖かな陽気の中、かすかに夏の気配が漂い始める頃なのだ。 山あいでは田に水が張られ、田植えが行われる。古代より変わらない日本の原風景 がまだ此処には深く根付いている。また、様々な花の色の季節でもあり、青々とした 緑の葉の季節でもある。そして、その緑にも様々な色合いがあることを知る 季節でもある。 深くやや黒ずんだもの、萌えたての白さが強く光る緑、さらにやや黄色身を帯びた緑、 それらが幾重にも重なり、比良の山並みに変化を与え、夏への旋律を奏でようとしてい る。 人も猫も生きる事への感謝と新しい自分探しの季節でもある。 田には水が満ち、稲の子供たちが一列となって希望の歩みを始めるようだ。 5月初め、近くの天皇神社の春の祭りでもある。 昨日から風に乗って祭囃子の練習の音が聞こえて来るようだ。 その昔は、ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを伴った太鼓の連打する音が これを聞く人々にもなにか心地よさを与えてくれたのであろう。 石の鳥居から砂利の参道を過ぎ、社殿を見ながら、蒼く萌え立つ榊に囲まれた 桧葺のちんまりした本殿に向かい合う。その横にもいくつかの本殿が鎮座している。 普段は、後背の杉たちに囲まれ、静寂な空気を醸し出しているが、やがてここは 神輿の放つ金色の光りと人々の喧騒の織り成す初夏への旅立ちの場所となる。 我が家の猫たちもピンクの花が敷き詰められた道路を歩いていた。 すでに桜の木には数えるぐらいほどの花びらが残っているのみで若い緑の葉が まだしがみついている花々を追い立てるかのように日に映えて緑色を増している。 猫たちの歩く先にも幾重にも重なったピンクの淡い色が道路一面を覆っている。 既に春の華やかな芳しさは、燃え立つ緑の生命の光景に変わっていた。 目の前を見えてはまた隠れる家々の庭には、紫のワスレナグサをはじめ、黄色、 ピンクなどの小さな花たちに混じって少し背の高いチューリップやウンナンオオバイの これも紫や黄色、ピンクの色合いが猫たちを見ている。上からは既に花を落とした 桜の明るい緑の葉の群れが幾重にも重なってその影を白く光る道路に投げかけている。 季節は立夏という人間の勝手につけた季節になっている。あの暑い夏、身に まとっている毛皮の存在を恨めしく思う夏の到来を告げる季節なのだ。 悠然と構える石の鳥居から3、4百メートルの道の両脇には色々なテントが軒を 並べ、喧騒の渦が周辺を覆っている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、 たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの 塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。 ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。 周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。 駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に 照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。 揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、 携帯で写真を撮る女性、さらに、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちの ゆるリゆるりとした歩み、いずれもその顔に汗が光り、空気が小刻みに揺れている。 やや広めの道路と様々な彩を発している家々の間を抜けてくる喧騒と艶やかさは、 初夏の彩にあっている。つつじの小さな蕾がその色づいたピンクを緑の中に、 見せ始めるのも立夏の頃である。
天皇神社、その祭から時を見る
清明、穀雨、そして立夏となり、彼方此方で春の祭りが行われる。 田には水が満ち、稲の子供たちが一列となって希望の歩みを始めるようだ。 すでに桜の木には数えるぐらいほどの花びらが残っているのみで若い緑の葉が まだしがみついている花々を追い立てるかのように日に映えて緑色を増している。 歩く先にも幾重にも重なったピンクの淡い色が道路一面を覆っている。 既に春の華やかな芳しさは、燃え立つ緑の生命の光景に変わっていた。 五月初め、天皇神社の春の祭り、和邇祭、である。 前日からは、風に乗って祭囃子の練習の音が聞こえて来るようだ。 その昔は、ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを伴った太鼓の連打する音が これを聞く人々にもなにか心地よさを与えてくれたのであろう。 そして全く雲が一片足りとも見えない蒼い空とともに祭りの日となった。 西近江路を歩き、和邇川を渡り少し行くと十字路の真ん中に石垣の上に注 連縄が巻かれ「榎」と彫られた大きな石がある。 この場所は、古代北陸道・和邇の宿駅として平安朝以降、湖西の交通の要拠であった。 江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚を設けるように指示し、ここの一里塚にも 榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、この道を左へと途中峠に向かうと天皇神社 ご神木として噂宗されていた。樹齢360年余で朽ち、神木榎と榎の宿を偲ぶ有志によ り「榎の顕彰碑」として建立された。この石碑の横には、少し前まで木下屋という 宿屋(和邇の陣屋)があったが、今は取り壊され何もなく、時の流れを感じる。 天皇神社は、途中峠に向かう道沿いある。大きな石の鳥居を前景に、杉の林が これを支えるかのように周囲を囲んでいる。砂利の小気味よい音を感じながら、 少し進むと社務所と社殿が目につくように木漏れ日の中に建っている。 二日にわたる神事があるが、神輿渡御までの様子を少しなぞってみる。 普段は、社殿と後背に並び立つ各本殿が静かに迎えてくれるが、いま立っている 境内には五基ほどの神輿がきらびやかに鎮座している。 悠然と構える石の鳥居から三、四百メートルの道の両脇には色々なテントが軒を 並べ、喧騒の渦が周辺を覆っているようだ。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、 たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの 塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りは人払いの 儀式から始まる。 ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。 周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。 駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に 照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。 神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。 揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、 携帯で写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。 その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。 いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。 神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け 抜けた興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。 近世では、周辺はほとんど田圃であり、祭りには、畦道を通って、氏子たちが 奉納行事を始めたそうだ。だが、今はモダンな家々に囲まれ、その面影は 薄い。やや広めの道路と様々な彩を発している家々の間を抜けてくるようで、 厳粛な雰囲気は消えつつあるが、人が醸し出す明るさは今のこの街には、 ふさわしいのであろう。 神輿渡御の時間となった。五つの神輿が中天にかかった陽を浴びて、ゆらりと 動き出す。金色の光りが四方に放たれ、若者の発する熱気とともに、周囲の 空気を燃え上がらせていく。裃姿の年寄りたちがその若さを取り戻すかのように、 先頭に立ち、走り始める。入り乱れる足音と道路沿いの店店と人々が放つ 喧騒とが、一体となって、神輿の後を追う。神輿はやがてその熱気を残し 浜へと向かい、金色の光りを和邇川に映しながら、小さくなって行く。 古き良き時代と新しい波の訪れ、その混じり合う香りを残していく。 多分、御旅所に無事着いた時には、若者たちの息切れと年寄りたちの安堵の 溜息で、湖のさざ波も静かに揺れるのであろう。 天皇神社の由来は、社伝によれば、創建は康保3年(966)と伝えられ、元は 天台宗寺院鎮守社として京都八坂の祇園牛頭天王を奉還して和邇牛頭天王社 と呼ばれていたが、明治9年(1876)に天皇神社と改称された。祭神は、 素盞嗚尊(スサノオノミコト)である。 社殿の奥には、本殿の横に、ちんまりした様子で三宮神社殿、樹下神社本殿、 若宮神社本殿、大国神社、松尾神社本殿もあり、近世では、五か村の氏神 となっている。五つの本殿が並び立つように静かなたたずまいを見せている。 現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立されと 考えられており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の 鎌倉時代の作風を伝える外観の整った建物で、滋賀県内では隣接の小野篁神社本殿、 小野道風神社本殿の3棟にすぎない。二頭の狛犬が守り神の如く横に鎮座している。 5月8日には旧六か村の和邇祭が行われる。 これは近世の和邇庄の成り立ちに関係する。 庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)の境内には、各村の氏神が摂末社としてある。 天王社本社(大宮)は和邇中、今宿、中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、 南浜は木元大明神、高城は若宮大明神があり、夫々の神輿を出す。 また、10世紀以前の神像がある。像の由来は分かっていないが、和邇氏の寄進 によるもので、昔は和邇川の中に神輿を入れて御旅所に向かったとそうだ。 また、天皇神社の少し手前には「いぼの木」の碑があるが、これは和邇祭の際に 神輿を担ぎ出す時の合図のための竹を入れたとのこと。 時は、人を変え、祭りの姿もかえ、地域とのかかわりも変えていく。
国破れて山河あり、ダンダ坊遺跡
すでに人家は途絶え、先ほどまで後ろに光り輝いていた湖の姿も消えた。
道は舗装から砂利道へそして、山道へと変わり、まるで俗世と来世はここだ、
と宣言している様でもある。まるで来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が
目の前に広がっていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さを被い
隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。細い山道がつづら折りに
伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き薄い光がその先で揺れている。
わずかな空気の流れが私の頬をかすめていくが、聞こえるのは山道を
踏みしめ歩く自分の足音と踏みしだかれる落ち葉の音だ。
静寂が周囲を押し包み、はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。
さわりと、その音さえ聞こえて来た。森の光りを切るようにいくつかの影が
通り抜けていく。ヤマガラかホオジロか定かではない。
朽ちかけた標識がやや傾きながら目の前にあった。
上りの勾配がきつくなり、山道を歩く音に合わすかのようにその息づかいが高まり、
別な人がいるかのように聞こえ始まる。千年以上前に建てられたという寺、
天台僧の修業の場であり、多くの寺院が山中に営まれた。江戸時代には、この様子を
「比叡山三千坊、比良山七百坊」と称していたという。
しかし、歩いてきた風景の中には一片の証も見られなかった。
道が切り取られたような崖の間を抜け、右手の山へと続いている。歩けるように
整備された細い道が山の端に沿って、上に向ってさらに伸びている。
ちょっときついな、と心なしか不安を覚える。上っては下り、下りを暫らく
感じると直ぐに上る。そんなことが暫らく続く。小さな水の流れを渡り、
また小さなきざはしとなっている山道を上がる。膝とその周りの肉がそろそろ
悲鳴をあげ始まった時、突然、森が切れ、視界が広がる。
そこは縦五十メートル幅百五十メートルほどの広さを持ち森の重さがすっぽり
抜けたように蒼い空の下に小さな草花を咲かせていた。参道と思われる道が
枯草に身を隠すように伸びている。そこを登り切った所にかっての山門の
名残であろう礎石が二つ置かれている。広場には、苔むした石垣がいくつかの
群れを成し、やや細い灌木の中に散在している。
鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を二羽の鳥が旋回している。
その昔には、遠く彼らの親たちは数百人の人間が天に念仏を唱えながら日々
暮らす姿を見てきたのであろう。滑稽なりと思ったか。
見渡せば、いくつかの遺跡らしきものが私を手招いている様だ。
寺院遺構は、北から南に張出す尾根の先端に位置している。山の端を切りとったで
あろう広い敷地に石垣で築かれた階段、山門、本坊、開山堂、池、礎石と思われる
遺構が残っている。さらに東側の谷筋には、下から坊跡が並び、谷筋の一番奥に
館跡がある。前面を石垣で固め、その背後は築山を兼ねた土塁と堀がある。
風雪にややその姿を緩やかな曲線に落としているものの、正面に開口する石垣で
築かれた桝形虎口というものがある。直角に折れた石垣は見事である。
更には、屋敷跡の北奥には、築山を築き、中心に三尊石を置き、この裾から滝が落ち、
築山裾の池へと流れるような造りがある。武家儀礼のための庭園と思われて
いる様だが、ここは一種の城でもあったのであろうか。まさに城は春にして、
草木深しの趣だ。まばらに林立するブナや杉の木々が柔らかい影をその遺構に
落とし、冴えわたるヤマガラの囀りと枯草の触れ合う音のみがここを支配している。
読経の響く伽藍と御堂が甍の波となって彼の身体を駆け巡る。館跡と庭園
の残照がすでに亡き人々の想いと合わせ、一類の悲しささえ見える。
陽はすでに中天から外れ、徐々に秋の寒さを周囲に撒き散らし始めている。
背中に滲み出している汗が徐々に消えていく。
過去の栄華に想いをはせるには、余りにも小さすぎる広さだ、そんな事を
彼は思う。時は残酷だ。人の肉体と同様に、祈りの場であり、象徴である存在を
見事に風化させている。来たことへの満足感と荒廃した栄光の場への寂寥が
微妙なバランスで彼を取り込み、すでに心は家路へと急いでいた。
道は舗装から砂利道へそして、山道へと変わり、まるで俗世と来世はここだ、
と宣言している様でもある。まるで来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が
目の前に広がっていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さを被い
隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。細い山道がつづら折りに
伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き薄い光がその先で揺れている。
わずかな空気の流れが私の頬をかすめていくが、聞こえるのは山道を
踏みしめ歩く自分の足音と踏みしだかれる落ち葉の音だ。
静寂が周囲を押し包み、はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。
さわりと、その音さえ聞こえて来た。森の光りを切るようにいくつかの影が
通り抜けていく。ヤマガラかホオジロか定かではない。
朽ちかけた標識がやや傾きながら目の前にあった。
上りの勾配がきつくなり、山道を歩く音に合わすかのようにその息づかいが高まり、
別な人がいるかのように聞こえ始まる。千年以上前に建てられたという寺、
天台僧の修業の場であり、多くの寺院が山中に営まれた。江戸時代には、この様子を
「比叡山三千坊、比良山七百坊」と称していたという。
しかし、歩いてきた風景の中には一片の証も見られなかった。
道が切り取られたような崖の間を抜け、右手の山へと続いている。歩けるように
整備された細い道が山の端に沿って、上に向ってさらに伸びている。
ちょっときついな、と心なしか不安を覚える。上っては下り、下りを暫らく
感じると直ぐに上る。そんなことが暫らく続く。小さな水の流れを渡り、
また小さなきざはしとなっている山道を上がる。膝とその周りの肉がそろそろ
悲鳴をあげ始まった時、突然、森が切れ、視界が広がる。
そこは縦五十メートル幅百五十メートルほどの広さを持ち森の重さがすっぽり
抜けたように蒼い空の下に小さな草花を咲かせていた。参道と思われる道が
枯草に身を隠すように伸びている。そこを登り切った所にかっての山門の
名残であろう礎石が二つ置かれている。広場には、苔むした石垣がいくつかの
群れを成し、やや細い灌木の中に散在している。
鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を二羽の鳥が旋回している。
その昔には、遠く彼らの親たちは数百人の人間が天に念仏を唱えながら日々
暮らす姿を見てきたのであろう。滑稽なりと思ったか。
見渡せば、いくつかの遺跡らしきものが私を手招いている様だ。
寺院遺構は、北から南に張出す尾根の先端に位置している。山の端を切りとったで
あろう広い敷地に石垣で築かれた階段、山門、本坊、開山堂、池、礎石と思われる
遺構が残っている。さらに東側の谷筋には、下から坊跡が並び、谷筋の一番奥に
館跡がある。前面を石垣で固め、その背後は築山を兼ねた土塁と堀がある。
風雪にややその姿を緩やかな曲線に落としているものの、正面に開口する石垣で
築かれた桝形虎口というものがある。直角に折れた石垣は見事である。
更には、屋敷跡の北奥には、築山を築き、中心に三尊石を置き、この裾から滝が落ち、
築山裾の池へと流れるような造りがある。武家儀礼のための庭園と思われて
いる様だが、ここは一種の城でもあったのであろうか。まさに城は春にして、
草木深しの趣だ。まばらに林立するブナや杉の木々が柔らかい影をその遺構に
落とし、冴えわたるヤマガラの囀りと枯草の触れ合う音のみがここを支配している。
読経の響く伽藍と御堂が甍の波となって彼の身体を駆け巡る。館跡と庭園
の残照がすでに亡き人々の想いと合わせ、一類の悲しささえ見える。
陽はすでに中天から外れ、徐々に秋の寒さを周囲に撒き散らし始めている。
背中に滲み出している汗が徐々に消えていく。
過去の栄華に想いをはせるには、余りにも小さすぎる広さだ、そんな事を
彼は思う。時は残酷だ。人の肉体と同様に、祈りの場であり、象徴である存在を
見事に風化させている。来たことへの満足感と荒廃した栄光の場への寂寥が
微妙なバランスで彼を取り込み、すでに心は家路へと急いでいた。
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