清明、穀雨、そして立夏となり、彼方此方で春の祭りが行われる。 田には水が満ち、稲の子供たちが一列となって希望の歩みを始めるようだ。 すでに桜の木には数えるぐらいほどの花びらが残っているのみで若い緑の葉が まだしがみついている花々を追い立てるかのように日に映えて緑色を増している。 歩く先にも幾重にも重なったピンクの淡い色が道路一面を覆っている。 既に春の華やかな芳しさは、燃え立つ緑の生命の光景に変わっていた。 五月初め、天皇神社の春の祭り、和邇祭、である。 前日からは、風に乗って祭囃子の練習の音が聞こえて来るようだ。 その昔は、ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを伴った太鼓の連打する音が これを聞く人々にもなにか心地よさを与えてくれたのであろう。 そして全く雲が一片足りとも見えない蒼い空とともに祭りの日となった。 西近江路を歩き、和邇川を渡り少し行くと十字路の真ん中に石垣の上に注 連縄が巻かれ「榎」と彫られた大きな石がある。 この場所は、古代北陸道・和邇の宿駅として平安朝以降、湖西の交通の要拠であった。 江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚を設けるように指示し、ここの一里塚にも 榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、この道を左へと途中峠に向かうと天皇神社 ご神木として噂宗されていた。樹齢360年余で朽ち、神木榎と榎の宿を偲ぶ有志によ り「榎の顕彰碑」として建立された。この石碑の横には、少し前まで木下屋という 宿屋(和邇の陣屋)があったが、今は取り壊され何もなく、時の流れを感じる。 天皇神社は、途中峠に向かう道沿いある。大きな石の鳥居を前景に、杉の林が これを支えるかのように周囲を囲んでいる。砂利の小気味よい音を感じながら、 少し進むと社務所と社殿が目につくように木漏れ日の中に建っている。 二日にわたる神事があるが、神輿渡御までの様子を少しなぞってみる。 普段は、社殿と後背に並び立つ各本殿が静かに迎えてくれるが、いま立っている 境内には五基ほどの神輿がきらびやかに鎮座している。 悠然と構える石の鳥居から三、四百メートルの道の両脇には色々なテントが軒を 並べ、喧騒の渦が周辺を覆っているようだ。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、 たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの 塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りは人払いの 儀式から始まる。 ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。 周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。 駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に 照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。 神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。 揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、 携帯で写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。 その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。 いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。 神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け 抜けた興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。 近世では、周辺はほとんど田圃であり、祭りには、畦道を通って、氏子たちが 奉納行事を始めたそうだ。だが、今はモダンな家々に囲まれ、その面影は 薄い。やや広めの道路と様々な彩を発している家々の間を抜けてくるようで、 厳粛な雰囲気は消えつつあるが、人が醸し出す明るさは今のこの街には、 ふさわしいのであろう。 神輿渡御の時間となった。五つの神輿が中天にかかった陽を浴びて、ゆらりと 動き出す。金色の光りが四方に放たれ、若者の発する熱気とともに、周囲の 空気を燃え上がらせていく。裃姿の年寄りたちがその若さを取り戻すかのように、 先頭に立ち、走り始める。入り乱れる足音と道路沿いの店店と人々が放つ 喧騒とが、一体となって、神輿の後を追う。神輿はやがてその熱気を残し 浜へと向かい、金色の光りを和邇川に映しながら、小さくなって行く。 古き良き時代と新しい波の訪れ、その混じり合う香りを残していく。 多分、御旅所に無事着いた時には、若者たちの息切れと年寄りたちの安堵の 溜息で、湖のさざ波も静かに揺れるのであろう。 天皇神社の由来は、社伝によれば、創建は康保3年(966)と伝えられ、元は 天台宗寺院鎮守社として京都八坂の祇園牛頭天王を奉還して和邇牛頭天王社 と呼ばれていたが、明治9年(1876)に天皇神社と改称された。祭神は、 素盞嗚尊(スサノオノミコト)である。 社殿の奥には、本殿の横に、ちんまりした様子で三宮神社殿、樹下神社本殿、 若宮神社本殿、大国神社、松尾神社本殿もあり、近世では、五か村の氏神 となっている。五つの本殿が並び立つように静かなたたずまいを見せている。 現在の本殿は、隅柱や歴代記等から鎌倉時代の正中元年(1324)に建立されと 考えられており、本殿は流造の多い中、全国的にも稀な三間社切妻造平入の 鎌倉時代の作風を伝える外観の整った建物で、滋賀県内では隣接の小野篁神社本殿、 小野道風神社本殿の3棟にすぎない。二頭の狛犬が守り神の如く横に鎮座している。 5月8日には旧六か村の和邇祭が行われる。 これは近世の和邇庄の成り立ちに関係する。 庄鎮守社としてこの天皇神社(天王社)の境内には、各村の氏神が摂末社としてある。 天王社本社(大宮)は和邇中、今宿、中浜は樹下(十禅師権現)、北浜は三之宮、 南浜は木元大明神、高城は若宮大明神があり、夫々の神輿を出す。 また、10世紀以前の神像がある。像の由来は分かっていないが、和邇氏の寄進 によるもので、昔は和邇川の中に神輿を入れて御旅所に向かったとそうだ。 また、天皇神社の少し手前には「いぼの木」の碑があるが、これは和邇祭の際に 神輿を担ぎ出す時の合図のための竹を入れたとのこと。 時は、人を変え、祭りの姿もかえ、地域とのかかわりも変えていく。
2016年5月7日土曜日
天皇神社、その祭から時を見る
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