2016年11月15日火曜日

志賀の古墳

この地域は敦賀と京都、奈良への陸路、水路の重要地域でもあり、和邇部氏、
小野氏などの有力豪族が支配していた地域でもある。
このため、琵琶湖を望む比良のすそ野には、多くの古墳がある。
志賀町史第4巻を中心に簡単な紹介をする。
①北小松古墳群
遺跡の立地は比良山系の尾根筋を山系の北から数えて2つ目となる尾根筋
最先端から一段と下がった低位に位置する山塊の先端近くに主に分布する。
AからCと北の支群の4つのグループが見られる。計12基の古墳がある。
概ね、主体部は横穴式石室からなり、長さは4メートルほど高さは2メートル弱と
想定さる。出土品には須恵器と鉄釘があった。
石室などはしっかりとしている。

②南船路古墳群
南船路の集落から天川を隔てた西南西の丘陵裾野にある。総計7基の古墳がある。
多くは径7,8メートルの円墳で、主体部は横穴式石室からなり、高さは2メートル弱
と想定される。

③天皇神社古墳群
天皇神社の境内にある。3基ほどの古墳があるが、高さ1メートル強の円墳。

④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間にあり、眺望のよい場所である。4基の古墳からなる。
主体部は横穴式石室からなり、一番大きな4号墳は直径15メートルほどの墳丘
である。
天井石は1石で高さは3メートルほどあり、比較的高い。家形石棺が出土しているが、
須恵器と土師器に刀の小片があった。鉄滓も採取された。
大きさなどからも有力豪族(小野氏?)の墓と思われる。
なお、志賀町史第1巻には、以下の記述もある。
「本町域の比良山麓製鉄遺跡群を構成する多くの遺跡の共通する大きな特徴の
一つは、そのなかに木瓜原型の遺跡を含まないことである。木瓜原遺跡では
一つの谷筋に一基の精錬炉だけではなく、大鍛冶場や小鍛冶場を備え、製錬から
精錬へ、さらには鉄器素材もしくは鉄器生産まで、いわば鉄鉱石から鉄器が
作られるまでのおおよそ全工程が処理されていた。しかし、この一遺跡
単一炉分散分布型地域では、大鍛冶、小鍛冶に不可欠なたたら精錬のための
送風口であるふいごの羽口が出土しないことが多い。本町域でもその採集は
ない。山麓山間部での製錬の後、得られた製品である鉄の塊は手軽に運び
出せるように適度の大きさに割られ、集落内の鍛冶工房で、脱炭、鉄器生産
の作業がなされる。小野の石神古墳群三号墳の鉄滓もそのような工程で
出来たものである。しかし、この古墳時代には、粉砕されないままで、河内や
大和に運ばれ、そこで脱炭、鉄器生産がなされるといった流通形態をとる
場合も多くあった。、、、、」

⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近にあり、琵琶湖をまじかに見れる場所ではない。
南北2つの支群からなり、総計で7基の古墳がある。直径5メートルから
19メートルほどのものもある円墳である。

⑥から⑩まではいずれも曼荼羅山を囲むようにして、築造されている。
⑥ヨウ古墳群
曼荼羅山の北にあり、ゴルフ場と和邇川の中間に位置する。3基の古墳からなる。
直径22メートルほどの円墳の1号機をはじめ結構大きい。

⑦前間田古墳群
曼荼羅山の北裾とヨウ古墳群との中間にある後期古墳群である。3基の古墳からなる。
直径が10メートル前後のものであり、規模的には大きくない。

⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日と緑町の中間、曼荼羅山の尾根に築造されている。眼下に和邇川河口や
琵琶湖、対岸の湖東も見える場所である。5つの古墳からなる。
直径は10から20メートルほどの円墳であり、主体部は横穴式石室になっている。

⑨大塚山北古墳群
曼荼羅山の尾根筋上のなだらかな頂部に築造された3基からなる古墳群である。
いずれも直径10数メートルの円墳である。

⑩ゼニワラ古墳
曼荼羅山北寄りの東に位置し、丘陵の尾根筋に占める単独の古墳である。
直径は20メートル、横穴式の石室で何枚かの岩で積み重ねられている。
出土には須恵器があった。

⑪唐臼山古墳
 小野妹子公園の中にあり、前方後円墳の崩れたものではないかとの推測もある。
墳丘は南北18メートル、東西20メートルほどあり、大きめの古墳とみられる。

白洲正子「近江山河抄」に以下の記述がある。
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。

⑫小野不二ケ谷古墳群
滋賀丘陵の尾根筋上部で傾斜変換点を創り下降する交点に位置する。
2つの古墳からなり、集落の間に築造されているため、その集落で祭祀されて
きた集落間の一体化が考えられる。3点の土器を含め、幾つかの遺物がでている。

⑭和邇大塚山古墳
ゼニワラ古墳の近くにあり、前方後円墳を成している。琵琶湖が広く望め、
その規模は全長72メートルほどある。盗掘があり、その原型を推し量るのは厳しい。
副葬品としては、鏡一面、刀剣三点、甲冑一点、鉄斧二点などがある。

⑮小野神社古墳群
小野神社本殿の北脇にある。2基の古墳からなるが、小野神社の敷地整備に伴い、
その規模は不明。主体部は箱式石棺と思われる。以前には、石棺が他に5基
あったといわれるが、確認できない。

⑯道風神社古墳群
道風神社本殿のすぐ西側に古墳がある。2基の円墳があり、直径は20メートルほど、
であるが具体的な形は不明。

なお、志賀町史第1巻にも、同様の記述があり、それと合わせて確認するのもよい。

2016年7月23日土曜日

堅田散策

夏の暑さも少しその勢力を衰え始めたころ、主人のよく言っている堅田の街なるものが
気になり、下の街の古老猫に色々と聞いたのだが、今1つ納得できずにいた。
さらに、その古老猫が「あそこにはなかなか面白い猫がいるねん、お前さんも一度
おうて見るとよろしい」という。そこで、少し遠出の現地調査なるものを行うこと
にしたのだった。
朝の光の中、草むらや葦の生い茂る中を湖に沿って大分歩いたころ、古老猫が
言っていた小さな湖にかかる橋があり、そこをゆっくりと行く。
ハスの花が水面にそのピンクの形良い姿を現している。その下を黒いものがゆったりと
動き、はすの花たちがわずかな動きを見せる。たぶんアユなのだろう、この時期、
もっと北の方では川を競り上がる鮎たちの銀色の光に映える姿があちこちで見られる。
琵琶湖が家の庇を埋めるかのように見え始める。細い道が琵琶湖の縁に沿って先まで
伸びていた。その道沿いには、魚の匂いが漂う店、ガラス戸に豆腐と書いてある店、
さらには甘酸っぱい香りを漂わせている和菓子の店、それらが格子戸のある家や
黒板塀でおおわれた家をはさんで何軒か置きに、チャトの前に現れた。
それでは、所在ないと、路地へと入り込む。足の向く方へまた十歩ばかりも歩いて、
路地の分れる角へ来ると、「ぬけられます」という立て板が見えるが、そこまで
行って、今歩いて来た後方を顧ると、どこもかしこも一様の家造やづくりと、一様
の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなっ
てきた。
おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって同じような植木鉢が並べ
てある。
しかしよく見ると、それは決して同じ路地ではない。 路地の両側に立並んでいる二階
建の
家は、表付に幾分か相違があるが、これも近寄って番地でも見ないかぎり、全く同じよ
うである。
いずれも小さな開戸ひらきどの傍に、格子の窓が適度の高さにあけてある。
迷っているとき現れた手押し車の老婆の後を追う形で歩くことにすると、小さな川に出
た。
5段ほどに積み上げられた石垣の水面に浮き草が浮かび、川沿いの柳の木が左右に
分かれて一方は入り込む家々の並びに消え、他方は琵琶湖の岸へと向かっているが、
そこは、ほとんど葦におおわれた川面となり、葦のあいだには破船が傾き、その彩
が日にきらめいている。その端には堅田漁港という看板がすこしペンキの剥げた姿
で立っていた。右の路地には白壁に囲まれたお寺が瓦屋根の門をこちらに向けて
チャトをいざなうような風情に見えた。
「もう寺も見飽きたわ」と一声発し、さらに先へと進む。途中、チャトと同じ茶色と
胸白の猫が桔梗や芙蓉の紫や白の花壇の横から見ていたが、のんびりとした様子を
崩さず、眼でチャトを追うのみ、よそ者にはあまり関心がないようだ。
小川を過ぎても、黒板塀がくすんだ色となった風雪を感じる二階建ての家々、
ガラス戸越しに見られる肉屋や広く野菜を道路まで出している店の橙色に
染められた店先、その横の木造りのベンチでじっとこちらを見ている浴衣姿
の老人がいた。頭を綺麗に剃った小柄な体の人。年は無論七十を越している。
その顔立ち、物腰から着物の着ように至るまで、湖族と言われた気概を、そのまま
くずさずに残しいる姿が、チャトの目には不思議にさえ見えた。我が家の周辺や
下の街ではお目にかかれない風情であったのだ。折から急に吹き出した
琵琶湖からの風が老人の一片翻し、その小道から路地へと流れ込み、あちらこちらに
突き当たった末、格子戸の小さな窓から家の内に入り、さらには小金細工の風鈴
を鳴らして消えた。その涼しさを含んだ音に誘われたかのように子供連れで忙しそうに
走り行く親子、白い割烹着で小走りに魚屋の店に入る人、がチャトの前に現われては
消えていった。人の匂いがする路地が次々と現れ、また違う路地へとつながっていく、
そんな考えがチャトには思いもかけず浮かんだ。
路地の隅にひっそりと建つ小さな神社と立ち枯れた様な榊の木々、さらには破れかけた
広報紙が張り付いている掲示板、白く剥げ落ちたところが目立つ郵便ポスト、さらには
この先は「行き止まり」という立て看板、雑多な情景がここにはあった。
昨夜の雨の残り香のような水たまりが午前のまだ柔らかい日を浴びて、その面を薄青く
見せていた。チャトはその重い体を宙に浮かせ飛び越した。
左方の家々の間から、御堂の瓦屋根が、その微妙な反りによって、四方へ白銀の反射を
放っていた。やや広い道路と交差しその左手に「浮御堂」と掛かれた大きな石と
その上に大きく迫立した松が青い空と湖の中にはめ込まれるようにあった。
これが主人の言っていた湖中に御堂があるという浮御堂と察した。
その猫はこのお堂の前にある魚屋にいた。黒い毛並みにおおわれ、顔は鼻を中心に白く
胸のところまで白い毛が伸びていた。青く澄んだ目がひと際目立ち、チャトも彼に
見つめられると、その強さに思わず目をそらさずにはいられなかった。
その猫は、ゴンと呼ばれていた。
この魚屋は湖魚を扱っているので、よくチャトがゴローからもらったりするアユや
フナなどが店先にちょっこんと並んでいる。
ゴンは浮御堂を囲む白い塀の上にチャトを誘い、話し出した。そこからは湖に浮かぶ
御堂、松が数本影を落とす庭園、書院らしき桧原葺きの建物が見られ、琵琶湖の
浜辺である東側は石垣に区切られているが、対岸の三上山を中心とする湖東の連山
が遠景となって一幅の湖水画をなしていた。
「あんたはん、ホカヒビトって知ってるか」
「知りませんわ、ホカヒビトって、なんですねん」
「人間がまだ文字を持ってへん時代、色々なことを語り継ぐ必要があったんや。
特に、天皇さんや地域の支配者って言われる人は語り部が必要だったんや。
それは王権の歴史や王権の系譜を語り継ぐ語り部であったやろうし、王が王で
あるための、王権が王権として存在するための1つの装置やった。
こうした王権の維持装置としての語り部は、神語りあるいはフルコトと呼ばれる固定的
な
詞章を暗記し、それを祭祀の場で音声によって語り伝えるというんやけど、そうした
聖なる言語表現を「呪力あるもの」にする力ももたねばならなかったんや。
ことばが呪力を持つためには、言葉自体の装い、神語りになるためのさまざまな様式や
表現形態を整えたりし、その1つに我が猫族も裏で働かされた時代があったようや。
例えば、私らの持つ予知能力も利用しよったんや。
語り部や古老のように、王権に隷属したり、土地に定着したりして伝承を語る者たち
に対して、共同体から浮遊し巡り歩く者たちがいて、それが「乞食者(ホカヒビト)」
と呼ばれる存在やった。この巡り歩くホカヒビトは古代の伝承者として、共同体から
離れた、あるいは離された存在であったけど、神の立場に立ちうる存在として、
ホカヒビトも変わらへん。それは、国家の内部に抱え込まれるものと外部にさすらう者
との違いがあるだけや。さらには、原初的な存在として、共同体には「古老」たちが
いたんや。わしらの祖先は、都から来た語り部が飼っていた猫やったけど、この地で
古老となり、ホカヒビトになったものおるんや」
チャトは、彼の言っていることが分からなくなったが、要するに、彼らの一族はほかの
猫と違うんや、と言いたいんやな、と理解した。
「それで、ほかの古老たちとあんたはんはどう違うんや」
その直線的な物言いに、ゴンはちょっと驚いた風情をしたが、すぐに元の大仰な態度
に戻った。彼の特徴ある長いひげがさらにその緊張を増したかのように張り出している
。
「例えば、わしらは、お前さんらの近くにいる仙人猫や古老猫のように今昔の生活の記
憶
よりも、歴史的な記憶が多いし、お偉いさんの近くで色々と聞いているから、ややこし
い
政治的な物事も、そして少し神がかり的な出来事をよく知っているんや」
「わてはこの街は少し主人から聞いているんやけど、もう少し細かく教えてや」
「この街はかなりの昔からこの湖の海上交通の要衝として栄え、堅田衆と呼ばれたんや
。
彼らは、自らの手で郷づくりを行い、「堅田千軒」といわれる、近江最大の自治都市を
築いたようや。16世紀半ば、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは彼の故郷への手
紙
の中で、当時の堅田のことを、泉州堺と並び称し、「はなはだ富裕な堅田」と
述べてらしいわ。浮御堂周辺の町並みは、家々の造り、その石畳、など当時の雰囲気を
伝えているやろ。その情景は多くの人が行きかい、熱気盛んな土地であったそうや。 
戦国時代には、繁栄する堅田には早くから神仏思想が流入、多くの寺社が建立された
らしゆて、南北約2kmの湖畔地域には、六社十ヶ寺が現存し、豊かさと風光の美しさ
に魅せられ、天皇、摂家、武人、僧侶、文人が往来し、様々な文化を作ったそうや。
藤村庸軒・北村幽安というお人の茶の湯文化、芭蕉さんの俳諧文化は堅田文化を
なしていたんや。この郷には7基の句碑と「堅田十六夜の弁」記碑があるんや。
「病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな」、「からさきの松は花よりおぼろにて」~本福寺
「鎖あけて月さし入れよ浮御堂」、「比良三上雪さしわたせ鶯の橋」~浮御堂
「朝茶飲む僧静かなり菊の花」 ~祥瑞寺
「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」 ~堅田漁港
「やすやすと出でていざよう月の雲」、「十六夜や海老煎る程の宵の闇」~十六夜公園
わしもこの俳句というのを気に入っているんやけど。
ちょっとあんたらの里山の雰囲気とは違うやろ」、と言う。
チャトは、この街と我が家の周辺とそんなに違うものか、と思ったが、なるほどという
仕草でゴンにあわした。
心の想いとは違う態度、この人間が至極当然やっていることをチャトもやった。
「俺もかなり人間ずれしてきたんやな」と心に想った。
やがて、塀の2人の影がやや朱色を帯び、長く伸びていることに気付いた。
まだゴンは話したりないといった風情であったが、チャトは家路へとついた。
ホカヒビトという仙人猫、中々に面白い奴や、帰り道は楽しく長い影を引きながら
我が家へと戻った。

小暑木戸の周辺

比良は比良の山端が琵琶湖の間近まで伸びてきており、多くの集落は
そのわずかの場所に散在している。集落の間には、わずかな水田や畑が初夏の
緑に埋もれ、残った空間は林や神社や寺の森の緑に占有されている。
夏は愛想がない、春のような多種多様な色、匂いは消え去り、緑1つと草草の
放つ草いきれだけが支配する世界だ。これらに加えて、肌を塗り込めるような
湿気と絶え間ない雨の雫、大粒の水滴の続く日々、愛想のなさに、やりきれなさ
が各人の気持ちをとめどなく押しつぶしていく。
だが、初夏の緑に囲まれた湖面は、藍を溶かしたように美しく輝いている。
これが小暑の季節だ、植物たちの成長の中、人はただ黙ってそれに耐えていく。
この時期、木戸や荒川の山端近くの集落を歩くといつも思うことだ。

二十四節気「小暑(しょうしょ)」については、
この頃から暑さがだんだん強くなっていくという意味であり、例年では
小暑から3~7日くらい遅れて梅雨明けすることが多いようだ。
これを七十二候では、さらに細かく言っている。
・温風至(あつかぜいたる)7月7日頃
熱い風が吹き始める頃。温風は梅雨明けの頃に吹く南風のこと。
日に日に暑さが増す。
・蓮始開(はすはじめてひらく)7月12日頃
蓮の花が咲き始める頃。優美で清らかな蓮は、天上の花にたとえられている。
・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)7月17日頃
春に生まれた鷹の幼鳥が、飛び方や獲物を捕らえる技を覚え、巣からの旅立ちを迎える
頃。日本では古今タカといえば「大鷹」をさすことが多く、優れたハンターであること
から「鷹狩り」などに使われた。
この頃、近くの森には親子連れの鷹が悠然と青空を舞っている。

彼はこのような日に出かけたのを後悔していた。
台風が過ぎたとはいえ、夏の顔にならない。陽射しもまだそれほど強くはないし、
なんと言っても、この蒸し暑さはなんなのだ。
体の隅々に水が染み渡るように湿気が私の身体を被いつくす。毛穴からは
その湿気が逆流するかのように汗が染み出してくる。首筋と額から頬にかけて
一筋、二筋と汗が流れて行く。まるで私のけだるさと憂うつな気分を声なき
声として洗い出しているようだ。
黒い雲が駆けていく。その間を縫うように白い雲を突き抜けるかのように
陽射しが私の顔に届く。白い雲の上にはさらに高層の雲が秋の天空を
思い出させるかのように霞み光る太陽のまわりにゆっくりと一筆を描くか
のごとく流れ過ぎ行く。それは蜘蛛なのであろうか、視界の端にうごめく
黒いものがいる。
季節は少暑、梅雨明けが近付き、暑さが本格的になるころである。
「暦便覧」には「大暑来れる前なればなり」と記されている。蝉が鳴き始め、
そのまま夏空になり、梅雨入りの発表が特定できなくなる年もある。
小暑あるいは大暑から立秋までの間が暑中で、暑中見舞いはこの期間内に送る。

小暑の終わりごろに夏の土用に入る。そんなどうでもよいことを考えながら、
目はじに平板な青さを持った湖を感じながら、
木戸の公民館からやや勾配のある道を樹下神社に向かっていた。
石の鳥居をくぐり蓬莱の山に向かう形で小さく盛り上がった森へと進んでいく。
杉木立が比良の山を隠すかのように立ちふさがり、杉と杉のあいだには、
端正な黒い沈黙が漂っている。生き物の気配はどこにもない。
さらに歩くと、そこからわずかに明るくなる雑木の疎林に入った。
すると、石垣と鳥居が彼を迎えた。奥に桧原葺きの本殿が見える。
その説明文によると、
「御祭神は、玉依姫命タマヨリヒメノミコトです。
創祀年代不詳であるが、木戸城主佐野左衛門尉豊賢の創建と伝えられます。
永享元年社地を除地とせられ、爾来世々木戸城主の崇敬が篤く、木戸庄
(比良ノ本庄木戸庄)五ヶ村の氏神として崇敬されてきました。ところが
元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年社殿が焼失しました。
当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が社頭
の荒廃を痛憂して、天正六年社殿を再造し、坂本の日吉山王より樹下大神を
十禅師権現として再勧請して、郷内安穏貴賤豊楽を祈願せられました。
日吉山王の分霊社で、明治初年までは十禅師権現社と称され、コノモトさん
とも呼ばれていました。しかし類推するところ、古記録に正平三年に創立と
あるのは、日吉山王を勧請した年代で、それ以前には古代より比良神を産土神
として奉斎して来たもので、その云い伝えや文献が多く残っている。

当社境内の峰神社は祭神が比良神で、奥宮が比良山頂にあったもので今も
「峰さん」「峰権現さん」と崇敬されている。この比良神は古く比良三系を
神体山として周辺の住民が産土神として仰いで来た神であるが、この比良山
に佛教が入って来ると、宗教界に大きな位置をしめ、南都の佛教が入ると、
東大寺縁起に比良神が重要な役割をもって現れ、続いて比叡山延暦寺の勢力
が南都寺院を圧迫して入って来ると、比良神も北端に追われて白鬚明神が
比良神であると縁起に語られ、地元民の比良権現信仰が白山権現にすり
替えられるのである。(比良神は貞観七年に従四位下の神階を贈られた)
当社の例祭には五基の神輿による勇壮な神幸祭があり、庄内五部落の立会の
古式祭で古くより五箇祭と称され、例年5月5日に開催され、北船路の
八所神社の神輿とあわせ五基の神輿が湖岸の御旅所へ渡御する湖西地方
で有名な祭です。本殿は、一間社流造 間口一間 奥行一間の造りです」
とあった。白山信仰や富士信仰などの山を神として崇める自然信仰が
此処にも残っている。

しかし、今回は神社手前の道を北へと進む。
琵琶湖を横に見ながら小道を行けば是も林が隠すかのような形で木元神社がある。
昔の木戸樹下神社の跡地であり、祭神は、木花咲也姫命、昔の木戸部落はこの
神社を中心に生活していたという。木造りの鳥居が木立の中に姿を見せ、
周囲を石垣でおおわれた小さな本殿が鎮座していた。その小ささが奥ゆかしさを
漂わせている。
萬福寺の白壁が小道の先に見えた。瓦引きの門をくぐると石畳の先に
黒く光る瓦屋根の本堂が数本の松に守られる様な趣でこちらに向いていた。
真宗大谷派東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は宝積山萬福寺という。
相変わらず目を潤すような草花、樹々にはあまり出会わない。せまる比良の
山並みがその緑をここまで押し流してきているようだ。愛想のない小道を
湖から吹き渡ってくるわずかの風のすずとした装いを感じながら歩を進める。
大谷川の水音が聞こえるほどになると、道の山側に猪垣が5段ほどの石積みを
なして、数100メートルほど続いていた。苔むした石の1つ1つが時代の
流れを感じさせる。この地域では、昔はあちらこちらにこのような猪垣があり、
集落の出入り口にもなっていたが、往時の姿は今はない。

さらには、大谷川などの氾濫に備えて水防ぎの石垣跡が集落の外れにあった。
この大谷川を三キロほど遡ると、湯島の地に弁財天が祀られた湯島神社があり、
昔この地域は大谷川の氾濫が多々あり、竹生島の宝厳寺から弁財天の分霊を
いただき、祀ったという。少し奥にある百閒堤と合わせ、この辺は水との
戦いの場所でもあったのだろう。自家製のお茶の栽培でもしているのだろう、
茶畑からひょっこり老婆が顔を出し、にこりと笑ってまた消えた。
黒ずんだ茶の葉と千地たる光こもれる林、神社を押し込むような小さな森、
野辺の草叢、色調豊かな緑の世界だが、それ以外は石が主役のようだ。
川に沿って、下り始めると今まで目はじにあった琵琶湖が正面に来た。
平板とした青の中に3筋ほどの白い線が右から左へと航跡を残し、沖島の
上には櫛で引いたような薄雲が数条航跡に合すかのようにたなびいている。
道野辺の濃い緑が目に届き、左の大根畑や右の竹藪の青さばかりが目立った。
大根畑のひしめく緑の煩瑣な葉は、日を透かした影を重ねていた。さらに進むと
日は下草の笹にこぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
境があるとは言えない野菜畑や茶畑が切れると小さく区切られた水田が現れ、
左手に大きな寺の瓦屋根が日を浴びて光っている。

超専寺は真宗東本願寺の末寺でご本尊は阿弥陀如来、山号は念仏山宝積院
超専寺と号され、三浦荒治郎義忠入道の創始である。
親鸞ゆかりの旧跡であり、上人が越後に流罪になったときにこの地の三浦義忠
が上人の盛徳に感じ入り、弟子となる事をねがい、この時「咲きぬべき時こそ
きたれ梅の花、雲も氷もとけてそのまま」と詠まれ、彼に明空と言う法名を
与えた。その後、覚如上人や蓮如上人もこの寺を参詣されたという。
二十四輩の旧跡でもある。「二十四輩順拝図会」にもある。
小さな芝の庭が、比良の山並みを背景にして、烈しい初夏の陽にかがやいている。
芝の切れたあたりに楓を主とした庭木があり、裏の雑木林へみちびく枝折戸も見える。
門の横には、初夏というのに紅葉している楓もあって、青葉の中に炎を点じている。
庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。
左方の一角に大きな庭石が見え、また、見るからに日に熱して、腰掛ければ
肌を焼きそうな青緑の陶の椅子が本堂の手前に据えられている。さらに比良の山並み
が続きに沿って透かしたような青空には、夏雲がまばゆい姿を見せている。
これといっててらいのない、閑雅な、明るく開いた庭である。数珠を繰るような
蝉の声がここを支配している。このほかには何1つ音とてなく、寂莫を極めている。
寺を少し山側に上れば、杉の木立に囲まれた観喜寺薬師堂がある。
この周辺を歩くといつも思うが、寺も多い。この近くだけでも木立寺、長栄寺
さらには、正覚寺、安養寺などなど。
比良三千坊の名残り香は消えていない。




>木戸公民館出発(11時)、木元神社(シシ垣)、万福寺道標、万福寺(昼食休憩)、
水防ぎ石垣、
>白鬚神社道標、超專寺となりの茅葺の家、力士の墓(?)、樹下神社遙拝所、国土地理
院標準点


15)昔の西近江路と道標
西近江路は大津の札の辻から穴太、和邇、木戸、小松、三尾(高島)へと続き、
海津から敦賀へ越える道があった。また、北陸と畿内を結ぶ交通の要路でもあり、
様々な人が行きかった。このための道標も多く残っています。近江の街道と言う
本にも、「道は、八屋戸守山の集落の手前で、左に入り右へ曲がるが、その角には
「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。」と記述されています。
主に神社、寺院、部落に入り口のありかを教え、白髪神社への道程を示すものも
特に多いようです。
木戸、守山、大物などに多く残っています。北小松楊梅の滝に向うための道標も
小松駅の近くに建っています。
・木戸  宿駅跡と石垣近くに常夜燈とともにあります。
・守山  旧街道の横に地蔵菩薩とともに道標があります。
・大物  旧街道横に二つほど残っています。
かつて近江の湖西地方を通っていた西近江路は別名北国海道と呼ばれている
そうですが、なぜ「街道」ではなく「海道」の字が使用されたのか。
『図説滋賀県の歴史』によりますと、「江戸時代の古絵図をはじめ街道筋に
散在する石造道標のほとんどに「北国海道」と刻まれているところから海の字
を用いている。」とあります。『近江の街道』でも、同じく石造道標の記載を
あげたうえで、「それだけこの道が、北国の海へのイメージが強かったので
あろう。」とあり、『図説近江の街道』でも同様の見解が示されています。
しかし、『近江の道標』には、「街道でなくて、海道という名前がついたのは、
北国の海をさす道か、あるいは、びわ湖に沿うてあるからか明確ではない。」
とあります。
http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/nisioomi/nisioumi2.html
http://members.e-omi.ne.jp/eo2320539/5michishirube/5signpost.html 


12)白髪神社の道標
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い当社まで数多くの都人たちも参拝
されました。その人たちを導くための道標が、街道の随所に立てられていました。
現在その存在が確認されているのは、7箇所(すべて大津市)です。
・大津市八屋戸(守山)  JR湖西線「蓬莱」駅下の湖岸通り
・大津市木戸       木戸公民館上の道を少し北へ入ったところ
・大津市大物       大谷川北の三叉路国道の東側
旧志賀町では、4箇所です。
建てられた年代は天保7年で、どの道標も表に「白鬚神社大明神」とその下に距離
(土に埋まって見えないものが多い)、左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に
建てられた「天保七年」が刻まれています。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうと思われますが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで受け
継がれてきたものです。その最後の道標が八幡神社の参道の手前にあります。
http://shirahigejinja.com/douhyou.html
http://kaidouarukitabi.com/map/rekisi/nisioomi/nisioomimap1.html




⑬本立寺(真宗 南比良)
真宗大谷派東本願寺の末寺で、山号は法持山本立寺と号す。
承和元年(834)天台宗の彗達により創始され、文徳天皇の快癒を喜び、法華経の
「我本立誓願今者己満足」から寺号を本立寺とした。その後、蓮如の教化により、
真宗に転承した。顕如上人より親鸞の「三狭間の真影」を賜り比良山中から現在の
地に移り、500年以上を受け継いでいる。
本寺が湖畔に移ったときに残された薬200体の地蔵があるが、その地蔵跡もある。


⑮長栄寺(日蓮宗 大物)
日蓮宗本長寺に属している。元和年に創立された。感応院日安(この地の代官小野
宗左衛門といわれる)によって創立された。

6)毘沙門天(木戸)
比良山が荒廃した時代、毘沙門天が道端に棄てられていた。村人が祠を守る神として祀
られ、地域の氏神とともに
ある。祭日は毎年1月の寅の日となっている。

7)寺屋敷遺跡(木戸)
打見山にあり、昔の比良三千坊の寺院の1つといわれます。この寺跡に
大正12年ごろ不動尊が安置されました。

なお、木戸には「臼摺りうた」と言う、ちょっと小粋な歌があります。
東山から出やしゃる月は
さんしゃぐるまの花のような
高い山には霞がかかる
わたしゃあなたに気がかかる
あなた何処行く手に豆のせて
好きなとのごの年とりに



頭上には黄や赤の入り混じった葉が残光を透かしていた。そこからのぞかれる
憂わしい夕空に、煌めく緑のきわめて重たい冠が一瞬掛かったように、静止して見えた
刹那があった。この放り上げられ冠は、羽ばたきによって解体され、栄光は散乱した。
攪拌する羽ばたきが、空気の重たくなった、母乳のように濃くなり、忽ちも
モチのように翼にまつわりつく力を語っている。鳥は、自分でもわからぬながら、
突然、鳥である意味を失ったのだ。翼のあがき、それを思わぬ方向へ横滑りさせる。
いくら見透かしても見透かせぬあたりで、鳥は急激に落ちた。
勲は雑木林から竹藪のほうへ駆け下りた。竹藪の中には水のような光が漂っていた。
鳥は固く目をつぶっていた。赤い毒キノコのような斑に満ちた羽毛が閉じた眼を囲んで
いる。
ふっくらした金属の光彩、ふくよかな鎧、暗鬱に肥った、夜の虹のような鳥だ。
のけぞった部分の羽毛が疎になって、そこがまた別の光彩をひらいている。
首のあたりは黒に近い葡萄紫の麟毛である。胸から腹にかけて、前垂れのような濃緑の
羽毛が重複して、光をこもらせている。




湖面は大溝の出鼻をとりまいて、半紙を敷いたように白かった。


いつみても変わりないはずの琵琶の水が、今日は冷たく沈んでいるような気がした。

陽の輝きはじめた湖面は朱をとかしたような色の中で、こまかいちりめん
皺を光らせ はじめた。

湖面へ桟橋がつき出ていて、いま、暮色になずみはじめた水面に点々と?の
さし竹が ういてみえる。

琵琶湖は山の奥の暗い湖じゃと思うておった

高次は、整然とひろがる町並みを眺めたあと、遠い湖面を見やった。
冬の朝である。 清澄な空気は、陽を受けて、いま橙色に湖面の小波を輝かし、
 遠い山影をくっきりとう かべている。

2016年7月17日日曜日

堅田の歴史

古代では、敦賀からの物資や人の往来から北小松や和邇が海上交通の拠点として、
栄えたが、比叡山を源とする天神川、真野川、御呂渡川の沖積地に誕生した堅田。
衣川を中心とする背後の丘陵地に、平安時代には、琵琶湖の最狭部という絶好の地
に形成された堅田に、京都加茂御祖社(下鴨神社)の御厨が置かれ、また比叡山
延暦寺の荘園となった。以来、恵まれた地形と両社寺の勢力を背景に、中世には
琵琶湖の水運・漁業の権益を一手に掌握して、湖上に圧倒的な力を誇った。
当時、堅田衆と呼ばれた人々は、自らの手で郷づくりを行い、「堅田千軒」
といわれる、近江最大の自治都市を築いた。
16世紀半ば、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは彼の故郷への手紙の中で、
当時の堅田のことを、泉州堺と並び称し、「はなはだ富裕な堅田」と述べている。
浮御堂周辺の町並みは、家々の造り、その石畳、など当時の雰囲気を伝えている。
 
戦国時代には、織田信長を筆頭に、天下を狙う武将たちが、軍事・物流の最重要
拠点とし、加えて強大な経済力と堅田湖族の団結力を頼りにした。近世を迎えると、
湖上秩序の差配を司った堅田浦は、湖を業の場とする人々から「諸浦の親郷」
と呼ばれ信望を集めた。繁栄する堅田には早くから神仏思想が流入、多くの寺社
が建立された。南北約2kmの湖畔地域には、六社十ヶ寺が現存、様々な由緒を
今に伝えている。
また、豊かさと風光の美しさに魅せられ、天皇、摂家、武人、僧侶、文人が往来、
様々な文化をもたらした。藤村庸軒・北村幽安による茶の湯文化、芭蕉によりさらに
興隆をみた俳諧文化は堅田文化の二大源流となる。
水運が主体であった時代には湖上交通の要衝として栄え、琵琶湖沿岸で最大の
自治都市が築かれた。
近江国滋賀郡に属し、11世紀後半には堅田の漁師達が下鴨社の支配下に入り
(堅田御厨)、続いて堅田とその周辺地域に比叡山延暦寺の荘園(堅田荘)
が成立した。

承久の乱後、佐々木信綱が現地の地頭に任じられたが、延暦寺・下鴨社ともに
対抗するために延暦寺は堅田に湖上関を設置して他所の船を排斥し、下鴨社は
堅田の漁民・船主に漁業権・航行権(水上通行権)を保障する事で堅田の経済的・
交通的特権を保証した。以後、彼らと近江守護に任ぜられた佐々木氏(信綱の一族)
は、堅田とその漁業権・航行権を巡って激しく争うことになる。
中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つ
の惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる
「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。
殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊
行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保
していた。
一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を
築いてきた。室町時代、殿原衆は延暦寺から堅田関の運営を委任されて、堅田以外
の船より海賊行為を行わない代償として上乗(うわのり)と呼ばれる一種の通行税
を徴収する権利を獲得するようになる。
また、この頃堅田に臨済宗が広まって武士階層が多い殿原衆の間で広く支持されて
祥瑞寺が創建された。この寺は青年期の一休宗純が修行した寺としても知られている。
一方、同じ頃浄土真宗の本福寺が堅田に創建された。その後一時期臨済宗に改まる
ものの、3代目にあたる法住、明顕(4代目)が浄土真宗に復帰して本願寺に
属すると、本願寺8世蓮如からの厚い信任を受けるようになった。やがて、蓮如
が寛正の法難によって大谷本願寺を延暦寺によって破壊されると、堅田に逃亡する事に
なる。蓮如は全人衆からの強い支持を受けて後に「堅田門徒」と称せられるほどの勢力
をこの地に築くことになった。
しかし、蓮如を匿ったり、積荷を勝手に押収したしたことで、延暦寺は堅田に対して
焼き討ちを行った。これによって延暦寺を支持していた地域を含めて堅田の町のほぼ
全域が焼失して住民は沖島に逃れたという。これを堅田大責(かたたおおぜめ)
と言う。
この戦いで対延暦寺戦で大敗を喫した殿原衆は権力を失墜させて逆に全人衆は彼ら
と対等な発言力を獲得することになった。
その結果、人口の多数を占める全人衆の多数が組織していた堅田門徒の発言力が高まり
、堅田衆の指導的地位を獲得するようになった。その後は、織田政権・豊臣政権・
江戸幕府はいずれも経済的特権に関しては、基本的には大津代官従属のもとで以前
のものを承認し続けた。
近世では、江戸時代後期彦根藩などの保護を受けた他の琵琶湖湖畔の諸港の台頭、
船主・漁民と農民・商人との利害対立による内紛などがあり、徐々にその
影響力を低下させていった。

文化的には、
芭蕉が本福寺千那の招きで初めて近江に入ったのは貞亨2年(1685)の春。以来、
大津そして堅田を再三訪れ、俳諧文化を盛んにした。湖族の郷には7基の句碑と「堅田
十六夜の弁」記碑がある。
「病む雁の夜寒に落ちて旅寝かな」、「からさきの松は花よりおぼろにて」~本福寺
「鎖あけて月さし入れよ浮御堂」、「比良三上雪さしわたせ鶯の橋」~浮御堂
「朝茶飲む僧静かなり菊の花」 ~祥瑞寺
「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」 ~堅田漁港
「やすやすと出でていざよう月の雲」、「十六夜や海老煎る程の宵の闇」~十六夜公園

「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」

「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」

「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」

「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな(堅田漁港)」

「朝茶飲む僧静かなり菊の花(堅田祥瑞寺)」

「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」

「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」




居初家(いそめけ)天然図画亭(てんねんずえてい)
居初家は、堅田の支配層殿原衆の筆頭党首であった(堅田の三豪族:居初家、刀禰家、
小月家)。御厨が置かれると供御人になり、その差配とその後の自由都市形成の運営を
司った。同家はまた、幾多の文人墨客の訪れる所であった。
茶室「天然図画亭」と庭園は、千宋旦四天王の一人、藤村庸軒と弟子の堅田の豪農北村
幽安によって作られた。主室に海北友松(桃山時代の絵師)の花鳥図がある。「天然図
画亭」の名は、寛政11年に天台の学僧六如上人が命名。一茶も同家を訪れ句を残す。
居初家の庭園は国指定名勝。庭園は書院と繋がる茶室「天然図画亭」の東側と北側に位
置し、琵琶湖の浜辺である東側は石垣により境界を成す。天然図画亭からの眺望は琵琶
湖と対岸の三上山を中心とする湖東の連山が遠景となるよう、湖西岸の畔という立地を
生かして設計がされている。

夕陽山 本福寺(本願寺旧跡)
鎌倉時代(1312年頃)、三上神社神職・善道によって創建。馬場の道場と言った。
第三世法住・法師は蓮如上人の片腕とも言われ、比叡山の圧迫から良く蓮如上人を守っ
た。蓮如上人から、他に類のない立派な裏書きをいただいて道場の本尊として
賜わった。大谷本願寺が、応仁元年(1465)に比叡山の僧兵に襲われ、近江に
逃げた蓮如上人が、親鸞聖人の御影を本福寺に移された。

堅田港周辺には、今でも多くの神社仏閣があり、古き良き時代の情感が残っている。
以下のサイトには、更に詳細な説明がある。
http://kusahato.web.fc2.com/soukyuan-2/walking/uo-78katata/katata.html
http://inoues.net/club3/katata2008b.html 

坂本から堅田、小野など古墳神社、湖西の城跡

小野周辺古墳
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.html
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8b46.html
幻住庵
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0b62.html
高島安曇川
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-7419.html

松尾芭蕉
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/89-2469.html
芭蕉が初めて大津を訪れたのは1685年の春、『野ざらし紀行』の旅の途中でした。
『山路来て何やらゆかし菫草』『唐崎の松は花より朧にて』の二句を詠んだのもこの時
でした。
大津の美しい景観が気に入った芭蕉は木曽塚の草庵(現・義仲寺)に仮住まいし、
その後「奥の細道」の旅に出ました、旅を終え、旅の疲れを癒すため、芭蕉は
再度大津を訪れ、大津市国分にある幻住庵で4ヶ月程過ごしました。
幻住庵からの眺望と山中での生活が気に入り、ここでの体験をもとに書いたのが有名な
「幻住庵記」で、「奥の細道」と並ぶ傑作と言われています。
以後も大津を第二の故郷のように愛した芭蕉は、
「鎖(じょう)明けて月さしいれよ浮御堂(堅田)」
「やすやすと出でていざよう月の雲(堅田)」
「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな(堅田本福寺)」
「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとどかな(堅田漁港)」
「朝茶飲む僧静かなり菊の花(堅田祥瑞寺)
「比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋(本堅田浮御堂)」
「海晴れて比叡(ひえ)降り残す五月かな(新唐崎公園)」
「唐崎の松は花より朧にて(唐崎神社)」
「行く春や近江の人とおしみける」
「大津絵の筆のはじめは何佛」
「石山の石にたばしるあられかな」
「古池や蛙飛び込む水の音」など、大津で多くの句を
詠み、その数は芭蕉の全発句の約一割にあたる89句にものぼります。

志賀町史第4巻より
①北小松古墳群
写真では石室などはしっかりとしている。
②南船路古墳群
③天皇神社古墳群
④石神古墳群
小野神社と道風神社の中間、形は残っていない
⑤石釜古墳群
和邇川沿いの井の尻橋付近
⑥ヨウ古墳群
ゴルフ場と和邇川の中間
⑦前間田古墳群
⑥の隣り
⑧曼陀羅山北古墳群
小野朝日の西側
⑨大塚山北古墳群
⑧の北側
⑩ゼニワラ古墳
⑨の北側。玄室の写真あり
⑪唐臼山古墳
小野妹子公園の中

①ダンダ坊遺跡
北比良タンタ山中。比良管理事務所付近


小野神社と古墳紹介
白洲正子「近江山河抄」より
国道沿いの道風神社の手前を左に入ると、そのとっつきの山懐の丘の上に、
大きな古墳群が見出される。妹子の墓と呼ばれる唐臼山古墳は、この丘の
尾根つづきにあり、老松の根元に石室が露出し、大きな石がるいるいと
重なっているのは、みるからに凄まじい風景である。が、そこからの眺めは
すばらしく、真野の入り江を眼下にのぞみ、その向こうには三上山から
湖東の連山、湖水に浮かぶ沖つ島もみえ、目近に比叡山がそびえる景色は、
思わず嘆息を発していしまう。その一番奥にあるのが、大塚山古墳で、
いずれなにがしの命の奥津城に違いないが、背後には、比良山がのしかかるように
迫り、無言のうちに彼らが経てきた歴史を語っている。

大津の神社
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/otsu2/otsu.html


大津市古墳群紹介
http://mj-ktmr2.digi2.jp/p25om/pom25201kokubu.htm
百穴古墳群はその数に圧倒される。
滋賀県大津市滋賀里。何とも鄙びた郷愁を感じる町名ではありませんか。考古学や古代
史、それに民族学に興味のある方には意外と知られている地名で、実は滋賀里周辺は遺
跡や古墳の宝庫なのです。特に崇福寺跡や倭姫塚、南滋賀廃寺や穴太廃寺、高穴穂宮跡
など名前がある遺跡だけではなく、無名の大小様々な古墳や遺跡が出土しており、ヤマ
ト朝廷が大和を拠点とする以前から、数々の渡来人が住み着いたと言われる近江国の歴
史を鑑みると、これらの遺跡群も何となく納得できますね。 

京阪電車滋賀里駅正面の八幡社の左側道路を比叡山に向かって急な勾配の坂道を上り
人家が途切れた先の右側に鬱蒼とした竹林が見えますが、ここが百穴古墳群と言われる
地域です。正確な墳墓は不明ですが大凡150基の墳墓が在るとされ、現在までに60基以
上
が発掘されています。

墳墓や建立様式からは6世紀後半のモノとされていますので、
天智天皇の大津京より100年前ということになり、この古墳群からもこの周辺が渡来系
豪族の拠点だったとされる所以です。この直ぐ北側の滋賀里二丁目では昭和40年代前半
の宅地造成に際にやはり広大な竪穴式古墳が出土し、かなりの勢力を誇った氏族が居た
事を裏付けています。 百穴古墳群の先には地元の人が「オボトケさん」と呼ぶ石仏が
祀られ、そこを過ぎると崇福寺跡に至ります。
山道は今も残っていて比叡山を越えて京都白川に至りますので、興味のある方は是非!

大津歴史博物館
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/index.html
和邇や周辺文化財の一覧が参考となる。

堅田周辺、春日山古墳群や真野郷の史跡
http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-kasugayamakofun.html

かすがやまこふんぐん【春日山古墳群】
滋賀県大津市真野谷口町にある古墳群。琵琶湖の西岸、堅田(かたた)地区背後の滋賀丘
陵の先端部に位置し、約220基からなる湖西地方最大で古墳時代後期の古墳群。5世紀代
に始まって6世紀後半に集中的に形成され、7世紀初頭に築造が終わったが、古墳群の中
心をなす春日山古墳以外はほぼ6世紀後半の円墳である。古墳群が所在する地域は、和
珥部臣(わにべのおみ)(壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)側につい
て活躍した豪族)、小野臣(おののおみ)、真野臣(まののおみ)など和邇(わに)氏につな
がる氏族の居住地で、彼らとの関連が強いと考えられる古墳群である。古墳は6群に分
けられ、これまでE支群と呼ばれてきた1群は23基の古墳からなるが、5世紀代の全長65m
の前方後円墳である春日山古墳に始まって、2基の大型円墳が築造され、2小群に分かれ
ると、6世紀後半に横穴式石室墳がこの2小群に継続して造られ、新たに1小群が誕生す
るという推移を見せる春日山古墳群における中枢群である。埋葬の形式は、横穴式石室
や箱式石棺、木棺直葬とバラエティに富んでいる。1974年(昭和49)に国の史跡に指定
された。JR湖西線堅田駅から徒歩約15分。


曼荼羅古墳
http://katata.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-44d8.htm

歩きながら思ったのは、たとえば霊山やスピリチュアルなものを探して
人は遠くへ行こうとするけど、
素晴らしい場所が意外な足元にあったりする。

それを掘り起こして撮っていこうというのが、このシリーズの始まりだった。

白洲正子さんの「近江山河抄」を手がかりに歩いてみようと思ったのは、なぜだろう。
この風景を、今のうちにきちんと撮影しておきたいと思ったことが大きい。
・・・
「近江山河抄」の風景は、現に消え行く風景になっていないだろうか。
消え行くことさえ気付かれないまま、静かに消えようとしている風景があるとしたら。
この風景を撮っておきたいと思った。近江(滋賀)は、私の故郷でもある。

木の岡古墳
http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/2-e0f0.html

堅田観光協会
http://katatakankokyokai.com/mano.php

大津市南部の古墳
http://obito1.web.fc2.com/ootuminami.html

参考
http://www.sunrise-pub.co.jp/%E5%85%B6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%9B%9B%E3%

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やな漁
10月も下旬頃になると、朝夕はめっきり気温が下がって、時折、湖上を北西の強風が吹
き抜けるようになる。12月の始めにかけて、こんな荒れた日やその翌日には、体を紅色
に染めたアメノウオが、琵琶湖から産卵のために川を上ってくる。アメノウオとは、万
葉の昔からのビワマスの呼称で、この魚を捕獲するために川に仕掛けられるのが「ます
ヤナ」である。また、ビワマスとは、成長すると全長60㎝にもなる琵琶湖だけに生息す
るサケ科の魚である。
 琵琶湖のヤナというと安曇川河口に設置されるアユのカットリヤナがよく知られてい
るが、おそらく古代から近世に至るまで、川の河口や内湖の出口にはどこでも、サイズ
や構造が異なるさまざまなヤナが仕掛けられ、湖と川や内湖の間を移動する魚類が漁獲
されていたものと思われる。ヤナという漁具は、魚が獲れるかどうかは魚まかせのとこ
ろがあるが、ヤナを設置する権利を得ると、待っているだけで魚が手に入るという便利
なものである。そのために、ヤナの漁業権を得ることは、その地域のかなりの実力者で
その時代の権力者と結びつきをもった者でないとかなわなかったものと考えられる。写
真は、安曇川の南流に北船木漁業協同組合によって今も設置されている「ますヤナ」で
ある。北船木漁業協同組合では、毎年10月1日に、京都の上賀茂神社へビワマスが現在
でも献上されており、古代の結びつきの名残がうかがわれる。
 ところで、安曇川の「ますヤナ」が「今も設置されている」と断ったのは、かつて琵
琶湖では各所で見られたこのヤナが、どんどん消えているからである。小さな川のヤナ
はほとんど消えたし、大きい川でも私が知っているだけでもこの20年ほどの間に犬上川
、愛知川、知内川、百瀬川などのアユやマスのヤナが消えている。
 時代の流れとは言え、ヤナに限らず恐らく数千年の歴史をもち、その権利を得るため
にどれほどの犠牲や労力が払われたか知れないヤナなどの漁業権やそれを行使する漁労
文化・技術がなくなってきていることは寂しい限りである。アメノウオを獲るための「
ますヤナ」も、もう写真の安曇川の南流のものしか残っていない。魚の減少にともなっ
て、生業としてのヤナ漁が成り立たなくなってきているのである。琵琶湖の在来種を増
やし、漁業としてのヤナ漁が存続するようにすることが必要である。
滋賀県水産試験場 場長 藤岡康弘

日吉大社と宇佐山
http://uminohakata.at.webry.info/201409/article_1.html

訪問の城跡は、
北比良、小松、衣川、壷坂山、坂本、細川、生津、宇佐山の8つがある。
他には、大津、膳所なども近くにあるが、浜大津から東であり、対象外。

滋賀の城跡
http://www.oumi-castle.net/bunrui/ootu.html

日本城郭大系という本がある。

滋賀の城郭
http://maro32.com/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%9F%8E/

志賀町史第4巻からは、
1)小松城跡
戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館跡である。現在の北小松集落の中
に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる伝承地が残る。
当該地は町内でも最北端の集落で、湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐり
この城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じて
いたであろう。
旧小松郵便局の前の道は堀を埋めたもので、その向かいの「吉兵衛屋敷」の道沿い
には、土塁の上に欅が6,7本あったと言う。また、民部屋敷にも、前栽の一部に
なっている土塁の残欠があり、モチの木が植えられている。土塁には門があり、
跳ね橋で夜は上げていたと伝えられる。

2)比良城跡
比良城は北比良の森前に存在したと伝えられる。湖西地域を南北にはしる北国街道
がこの場所で折れ曲がっている。街道を挟み、樹下神社が隣接している。在所の
古老にもこの場所に城があったとの伝承が残っている。北比良村誌によると
「元亀二辛未年九月織田信長公延暦寺を焼滅の挙木村の山上山下に之ある全寺の別院
より兵火蔓延して」とあり、この時期他の城郭と同様破滅したしたものであろう。

3)歓喜寺城跡
大物の集落より西の比良山の山中に天台宗の古刹天寧山歓喜寺跡がある。今では
そこに薬師堂だけが残り、わずかに往時ここが寺であった事を偲ばせる。
歓喜寺城は比良山麓に営まれた比良三千坊の1つである天寧山歓喜寺跡の前面
尾根筋上に営まれた「土塁持ち結合型」平地城館である。
この遺構は三条のとてつもなく大きい深い堀切によって形成され、北側の中心主郭
はきり残された土塁を基に四周を囲郭し、この内側裾部や内側法面に石垣積みが
認められる南側の郭は北に低い土塁が残り、近世になって修復、改造がなされた
と思われる。また、背後、前面の歓喜寺山に山城が築かれており、L字状の土塁や
北東を除く三方には掘り切りなどが認められる。

4)荒川城跡
荒川城は荒川の城之本と言うところにあったとされる。この城に関しての
文献資料はほとんど見当たらないが、絵図が残っており、それには城之本の地域の中に
古城跡と書かれている。また、ここの城主が木戸十乗坊という記録があり、
同氏は木戸城の城主でもあり、木戸城の確定とともに確認をする必要がある。

5)木戸山城跡
現在の木戸センターより西北西の比良山中腹の尾根部分にあったとされる。この地域は
古くから大川谷に沿って西に向かい、木戸峠より葛川の木戸口や坊村にいたる木戸
越えの道が通る。このため、この城の役目は木戸越えの道の確保であったとも推測され
る。城としては、堀切りを設け、東を除く三方に土塁を築いていた。
しかし、この城も「元亀三年信長滅ぼす、諸氏山中に隠れる」とあり、その時に
破壊されたのかもしれない。


まさに之は「春 望  <杜 甫>」の世界かもしれない。
國破れて 山河在り 城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に(すべてしんに)勝えざらんと欲す

戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、
町は春を迎えて、草木が生い茂っている。時世のありさまに悲しみを感じて、
(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、
(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、
たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)
もさすことができないほどである。

さらには、
6)衣川城跡
細川高国に滅ぼされた湖西の城塞跡としては、JR湖西線の堅田駅からほぼ路線沿い
に進んだ先にある住宅地の中に衣川(きぬがわ)城がある。
現在は児童公園となっており石碑と解説板がそれぞれ設置されている。日本城郭大系
では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったとのみしか紹介されていませんので、ま
ず歴史背景は現地の解説板を元に紹介する。
衣川城を築城したとされるのは、文暦元(1234)年の「粟津の合戦」で武功をたてた
山内義重がこの地を賜り築城したとされる。
先ほど名前を出した山内駿河守宗綱は11代目に辺り、浅井公政、京極高清らと共に永正
5年(1508年)から8年もの間、近江、坂本、石山らの戦いで朝倉貞景らを
相手に取り、勝利を収める、大永6(1526)年に細川入道高国に攻撃され落城した。
その後の歴史に関しては記載されていませんが、廃城となった。
現在の公園は琵琶湖から見ると随分と高台に位置する。また二段構えのような構造に
なっており、当時の郭の跡を利用しているのかと勘ぐってしまう構造。また一部に土塁
のような土盛を確認できますが、これも当時の遺構かどうかは分からない。
見所は正直多くありませんが、周辺も舗装されており、年中時期や天候を問わずに訪問
できる城跡。

7)宇佐山城 
現地の状況 宇佐山城へは近江神宮に隣接する宇佐八幡宮の参道から登ること約20分
で尾根に出るが、道は少々判り難い。
宇佐山城は3つの曲輪から構成されており、テレビ塔の建っているところが本丸で、南
側の一段下がった曲輪の南斜面には20メートルにわたって高石垣が築かれている。
雑木のために展望は北方しかきかないが、この方面には今道越え(山中越え又は県道30
号線)があり、雑木を刈り取れば今道越えを一望できることは間違いない。
また、少し距離はあるが、逢坂越え(東海道)をも押さえることは十分可能であり、織
田信長が京への街道を確保するためにこの宇佐山城を築いたことが窺える。
元亀元年(1570)4月、越前・朝倉攻めの際、浅井長政に背後を衝かれ、あわてて京都
へ逃げ帰った織田信長は、京都から岐阜城へ帰陣に先立ち築いた城が宇佐山城で、
配下の森可成(よしなり)に守備させた。
元亀元年9月、石山本願寺攻めをする信長の隙を衝いて、浅井・朝倉軍は宇佐山城を
攻めた。浅井・朝倉軍は2万、これに対し宇佐山城を守る森可成の配下は500人余り、
城兵は奮戦するも、9月11日に落城した。
宇佐山城の落城を知った信長はすぐさま摂津より引き返し、宇佐山城を奪回し、比叡山
壺笠山城に楯籠もる浅井・朝倉連合軍と対峙したが、比叡山からの援助を受ける浅井
・朝倉軍に対し四方に敵を抱えた信長は、勅命を仰ぎ和議を結ぶと岐阜に帰陣した。
翌元亀2年9月、信長は浅井・朝倉に味方した比叡山に対し焼き討ちをかけた。元亀3年
(1572)に坂本城が築城されると、宇佐山城も廃城となった。

8)大津陣屋
大老堀田氏の子孫が統治した大津の陣屋
大津市堅田の浮御堂のすぐ隣の駐車場に堅田陣屋の案内板などが残ります。
元禄11(1698)年に、徳川幕府大老の堀田正俊の三男正高が、下野国から堅田に移り、
堅田藩の中心として陣屋を建設したと日本城郭大系に説明されています。
文政9(1826)年に、当主の正敦が再び下野佐野に移転されると、堅田藩は廃止になり
徳川幕府が直接治める天領となったそうです。
目だった遺構はありませんが、近くの伊豆神社へ繋がる舟入遺構など水路はよく確認で
きます。あと、有料(300円)ですが冒頭の浮御堂から、陣屋方向を眺めてみるのがオ
ススメです。
城跡として見所は決して多くはありませんが、JR堅田駅から琵琶湖方面へ歩き、周辺に
は中世の城塞跡とされる伝承地も少なくない場所なので、天気のいい日に、湖畔をじっ
くりと散策してみると楽しめると思います。ちなみに浮御堂ですが、正式名称は満月寺
といい、その歴史は古く平安時代に遡るそうです。
江戸時代の俳人・松尾芭蕉も訪れたそうで、その句が記念碑として境内に設置されてい
ます。
琵琶湖に浮かぶ情緒ある建物は昭和初期に再建されたもので、堅田陣屋の頃の建物では
ありませんが、堀田氏もこの景色は楽しんだでしょうね。
当サイトだけでなく、日本城郭大系などでも堅田陣屋の写真として紹介されていますが
、こちらは陣屋と直接の関係はありませんが、こちらも合わせて訪問したい観光スポッ
トです

9)大溝城(滋賀県)
明智光秀が縄張りした信長の甥・津田信澄の城
滋賀県高島市。2005年に合併新設された街で、そのため市域が相当広大になったため、
管理人のようにしばらく関西から遠ざかっていた方には、旧高島町といったほうが場所
がイメージしやすいと思います。
JR湖西線の近江高島駅で降りると、目の前にガリバーの像が建っている広場があり、そ
の右手に総合病院があります。その病院の駐車場部分と隣接した場所に大溝城の天守台
などが残ります。
明智光秀の縄張りとされ、城主は若かりし織田信長に叛き、殺害された実弟の信行の嫡
男・津田信澄(父の一連の事件の関係で織田氏を名乗らず、津田氏を名乗った
そうです)。
しかし、信澄は信長には大変気に入られ重宝されていたようです。
浅井長政を滅ぼした後、信長は信澄を、高島を治めていた磯野員昌の養子に入れ、その
後、信長が員昌を追放するような形で信澄に、高島の地を与え、この大溝城が完成した
とされます。
天正10(1582)年に「本能寺の変」で信長が斃れると、光秀の娘を妻にしていた信澄にも
嫌疑がかけられ、四国征伐の副将の一人として大阪にいた際に、丹羽長秀らの軍によっ
て野田城(大阪城内の二の丸千貫櫓とも伝わります。)で殺害されました。享年28歳の
若さだったそうです。
その後、この城はいくつか城主を代えながら、豊臣秀吉の時代には京極高次が城主をつ
とめます。
訪問した時が2012年の5月で、前年のNHK大河ドラマ「お江」の影響でしょうが、高次の
妻だった浅井三姉妹の次女「お初」が新婚生活をすごした城としても現地では解説板な
どで説明されていました。
現在の地形も琵琶湖はすぐ近くですが、当時は琵琶湖の水を取込んだ水城だったそうで
す。
慶長8(1603)年に一度は廃城になり、あらためて徳川幕府が成立した後の元和5(1619
)年に分部光信が2万石でこの地に入り、大溝藩を樹立。
かつての大溝城三の丸付近に大溝陣屋を建て、その惣門は現在も残されています。
さて、この大溝城ですが、この近辺は個人的に相当思い入れがありました。20代の頃、
当時の愛車スカイラインでよく琵琶湖一周などを楽しみ、この湖西エリアは毎週通って
いました。
そんな懐かしの旧高島町にも、天守台の石垣が残る城跡があることを知り、迷うことな
く訪問。残された遺構はわずかですが、はっきりとそれと天守台の形がわかる形で残さ
れていることに感激しました。
小ぶりな天守ではありますが、一応天守台の上に上がることもできます。ただ初夏に訪
問したため、足元で突然カエルが跳ねたり、また一匹でしたがスズメバチに一時追いま
わされるなど、少し怖い目にも・・・
街中の平城跡ですが、暖かい季節の訪問は、ちょっとした小さな森のようになっている
ため、多少は注意をした方がいいかもしれません。
湖西線は電車の本数なども少なく、公共交通機関での訪問は少し躊躇してしまうところ
もありますが、旧高島町域だけでもゆっくりと歴史散策が楽しめるのでオススメですね
。ただ大型ショッピングセンターなどが駅前にはない街のため、トイレなどには多少不
便な場所だと付記しておきます(訪問時、駅前にコンビニが建設中だったため、今は少
し変化しているかもしれませんが)。

10)坂本城(滋賀県)
安土城につぐ名城と謳われた明智光秀の居城
1571(元亀2)年、日本史上に大きく残る比叡山の焼き討ちの後、織田信長が当時、近
くの宇佐山城主だった明智光秀に命じ築いたのがこの坂本城とされます。
宣教師ルイス・フロイスの著書である「日本史」によると安土城に次ぐ華麗な名城だっ
たと伝わります。
この城を拠点に明智光秀は近江の平定を目指し、1580(天正8)年には丹波の亀山城の
城主になるも、引き続きこの坂本の城主も務めていたようです。
1582(天正10)年に「本能寺の変」で主君・信長を討った光秀は、その10日後ほどに羽
柴秀吉軍と京都山崎で激突。敗れ、この坂本に逃げ延びる途中で、京都伏見の小栗栖で
農民らに襲われこの世を去ったとされますが、それを知った安土城に入っていた光秀の
重臣・明智秀満によって、坂本城は天守に火をかけられ落城したと伝わります。
その後、秀吉方についた信長の重臣だった丹羽長秀によって再建。秀吉と、同じく信長
の重臣だった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは基地として機能しましたが、その戦後1586
(天正14)年に秀吉が浅野長政に命じて、近くに大津城を築城させ、建造物なども移築
。坂本城は廃城になったとされています。
現在は国道161号沿線のキーエンスの研修所になってる場所が本丸とされ、研修所の入
り口に記念碑が設置されています。
そこから南へ少し移動したところにある坂本城址公園の琵琶湖の浜辺には石垣が残りま
す。この沿岸には埋もれている石垣が多く、おそらくは坂本城の石垣だと思います
また妙に古代の埴輪のような明智光秀の像も建っていますがほかに目立った遺構はあり
ません。公園から東北側にある二の丸付近にも、小さな石碑が設置されています。
かさねがさね残念なのが、この滋賀県大津市には琵琶湖に接した建物も美しい城がこの
坂本や、文中にも出た大津の他、日本三大水城の一つにも数えられる膳所城があるもの
の、どれも往時の荘厳な姿を見ることができないことです。
遺構は今触れたように、決して満足いくものではありませんが、個人的には、日本史上
に於いて重要な役割を担った明智光秀の居城に訪問できたこと自体で満足ですね。

11)田中城跡 高島市
上寺(うえでら)集落の裏山にあることから、通称上寺城と呼ばれる。
急傾斜の山全体に、段々畑のような「郭」が築かれており、その規模は高島郡では新旭
の清水山城跡に次ぐ大きさと言える。
元亀3年(1570)、織田信長は越前の朝倉義景を討つため「田中の城」に逗留した
と「信長公記」に記載されてるが、まさしくこの田中城には信長とのちの豊臣秀吉、徳
川家康の武将が逗留したことになる。


高島市には、かつて「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院が存在しました。「七
カ寺」と称される寺院については諸説ありますが、『近江輿地誌略』では長法寺を
「高島郡七箇寺の第一」としています。長法寺の創建や廃絶した年代は不明ですが、
開基は慈覚大師円仁とも伝えられています。
また、伝承では織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したとされますが、
室町時代末に廃絶した後、その所在は長らく不明となっていました。昭和 31 年、県立
高島高等学校歴史研究部によって再発見された時には、ほとんど人の手が入らない状態
で、
今なお中世に栄えた山岳寺院の姿を伝えています。
今回の探訪は、高島町観光ボランティア協会のガイドと市と県の文化財専門職員が同行
案内し、近世城郭のような大規模な石垣や石塁、ひな壇状の造成地にみられる高度な土
木技術により造営された長法寺遺跡を詳しく訪ねます。

2016年6月29日水曜日

北船路棚田、夏至のころ

日本の大部分では梅雨のさなか、北半球では一年中で一番昼が長く夜が短い日、
夏至である。「暦便覧」には「陽熱至極しまた、日の長きのいたりなるを以てなり」
と記されている。6月22日ごろとあり、この日から、次の節気の小暑前日まで
とのこと。夏の至りて、梅雨がある。天皇、小野神社の境内もしっとりと雨に濡れ
ひと時の静けさに包まれる。この頃、京都では、半年間の罪のけがれを祓い清めて、
残る半年を無病息災を願う神事「夏越祓」(なごしのはらえ)が行われる。
もっとも、猫族にとっては、人間の勝手に決めたことであり、猫の営みから
すれば、真冬と真夏の時期さえ分かればよいのである。
庭には、赤みを帯び青が幾重にも重なり合った紫陽花が五月雨にひっそりと
咲いている。ここ三日ほどこの花の上に小さな水滴を残す静かな佇まいの
日々であった。比良山も益々緑色が濃くなり、少し前までまだらだった中腹も
深緑一色に化粧している。ただ、その緑も静かに降り注ぐ雨の中では、ぼんやりと
浮かんでいる様だ。灰色の中にやや茶げた山頂と緑の中腹、そしてピンクや
黄色に彩られた麓がやや霞んだ琵琶湖へと一直線に伸びている。

蓬莱の駅は無人駅だ。少し前まで、手打ちそばの蕎麦屋があったが、すでに休業
している。やや硬めのそばは歯ごたえがよく結構通ったものだ。そこは琵琶湖
が近くに迫り、わずかに茶褐色を見せる畑と田んぼが緑をたたえて湖の青さの
中に消えていく。その風景も見られなくなった。
久しぶりの快晴だ。ふと、熱いさなかの歩きをしたくなった、老人の冷や水か
熱中症に一片の不安は残るが。

駅前からの道はやや勾配を保ち、比良の山端に向かって伸びている。
初夏の日差しがさえぎるものがない舗装道路に強く照りかえり、その白さを一段と
強めながら、彼の体を突き抜いていく。小さな影が彼の歩みに合わせ静かに
ついてくる。集落を外れ、砂利道に入ると、草草の発する息がむっとした水蒸気
となり、朝日をうけて金色に輝き、体にまとわりつき始める。すでに数10センチ
に伸びた稲穂が鋭い穂先を見せながらゆったりと風に乗って動いている。
朝の雫に光り輝く蜘蛛糸がそのあり様を誰の目にも明らかにするかのように水平な
網を稲穂の揺れ動く中、あぜ道の草むらの中に見せている。その細く雫を帯びた糸は、
五線の譜のようでゆらゆらと揺れている。大きな水玉がしなった葉の上を転がり
すっとんと落ちた。

深緑、薄い緑、白い小さな花、その群生の中を日差しを跳ね返しながら、川が顔
を出す。小さな凹凸が水にいくつかの階を作り、下へと流れている。数条の水の筋を
造りながらそのくねり進む様は悠々たる大河の趣を感じさせる。
夏の暑い日、友達とパンツ一つとなり、ザリガニや小魚を捕りあった日、小魚が
その銀色を一ひねりしながら水草に隠れるのをさらに追いかけた友の水浸しの体、
葦に伝わる泥と小石の感触と水の冷たさ、さらには背中に刺す太陽の熱さ、
ふとそんな昔の情景が浮かぶ。

川を少し上ったところにその情景はあった。
蓬莱山の横たわるかのように何十となく緑に熟れた水田が上へ上と重なっていた。
北船路の棚田だ。伸びた先に森の一団がこれも蓬莱の山に溶け込む形で棚田と青い
空を仕切るかのように横一線に伸びている。飛行機雲が一つ青く広やかな空を
二分するかのように西へと伸びている。覚悟を決めて、棚田の最上部へと一歩
踏む出す。見た目でもその勾配の強さが感じられるが、歩き始めるとその強さが
足の裏を伝わり、体全体に感じられる。かなりきつい。夏の田んぼは、浮草がその
水面を覆うかのようにひろく生えわたっている。その中にいくつかの目がこちらを
うかがうように水面に盛り上がっている。蛙たちだ。その緑の肌と大きな目は
闖入者の動きを見張るかのようにじっと眼を据えて動かない。あぜ道に身を
伏せるかのようにそれに近づくと一瞬にしてそれは消えた。

途中、紅色の花が群れ咲く2本の木に寄り添って、強烈な日差しを避け、ひと時の
息休めをする。頬を撫ぜる風がわずかな流れで彼に心地よさを与える。
まだ成長の途中であろう稲たちが一斉に右へとその穂先を傾け、また左へと
揺れ動いている。渡る風の音は聞こえない。
棚田の中ごろあたりであるが、平板な青さの湖に白い帆を揺らめかせているヨットや
2筋の波線を引きながら右から左へと流れるボートが見られる。その先は夏の
霞の中にただ茫洋と白さが広がり、いつも見える三上山の小さくも華麗な姿は
その白き霞の中に消えている。

比良は山端が琵琶湖の湖岸まで直接伸びており、平地が少ない。伝承によれば、
明智光秀の時代から山麓の傾斜地に水田の開発が進められてきたという。
どこの地域の棚田もそうだが、水をたたえるため、石垣等をつくり、等高線に
従い平坦な土地を確保している。棚田百選などと言われているが、ここも先人たちの
努力が営々と続けてこられた結果でもある。我々は写真などで美しいとは思うものの、
その地道な毎日の生業を忘れてはならない。
ここも、後継者の問題などで一時その姿を失う状況ともなったが、水田を大きな区画
につくりかえる圃場整備事業を行うことで、大きな区画の水田が雛壇状に並ぶような
棚田になったという。多分かってあった棚田の形はだいぶ消えたのかもしれない。
千地と寄せる光の中で、彼はそんなことを思った。

最上部の棚田の横に来た。途中の道で見た情景よりもさらに艶やかに広がる緑と
琵琶湖の千地に光る群青、雲の幾重にも重なった空の薄青きが1つのフレームに
はめ込まれたように目の前にある。既にここでは棚段という意識は覚えず、
幾重にも重なる緑の絨毯がいくつもの黒い線で区切られ、下へ下へとと延びている、
ただそれだけだ。その緑も平板なそれとは違い、そばの森のざわつきに合すか
のようにその緑の中に小さな影が出来、全体がふわり浮かび上がりまた下がる、
その緩やかなリズムが彼の鼓動と同期し、緩やかな和らぎを与えていく。
足元をゆったりとした水縞を描きながら水音が流れる。その溝の横に、ツユ草が
群れ咲いていた。真っ青な花びらには、紺色の筋が枝葉のように広がり、さながら
ガラス細工のようである。黄色のおしべはその目の覚めるような色をさらに
強めている。ここはちょうど梅の木の下、強く光る日差しの中で、ややくつろいだ
空気が占めている。小さな草花たちもその日陰の中で、休息している。
静かな時間が流れ、彼は一刻の眠りにつく。

棚田は自然と人の結節点だ。ひな壇のように落ちていくそれぞれの水田のすぐ横には、
樫の木や栗の木がその葉群をざわつかせながら取り巻き騒いでいる。今はのびやかに
育つ稲たちも人の手が手控えられた瞬間からこれらの森の様々な木々や草たちに
侵略され朽ちていく。どこの棚田もそのような宿命の中で生き続けるのだ。春先に
聞こえる田植えに集まった人々、そこには幼児の初々しい声もある、がある限り
この水田たちも永く生きていけるのだ。午睡の中で、そんな取り止めのない思いが
湧きまた消えた。そのウツらとした中にブーンという羽音が彼を引き戻す。
虎模様のカミキリムシが彼の肩に止まり、その長い触角を揺らしていた。

緑続く水田と湖の照り映える蒼さの中を一直線に白い線が通っている。やや高めの
ブレーキ音を出して緑色の電車が駅に滑り込んできた。数時間前までの灼熱の空は
やや柔らかさを増し、頬を撫でる風にも涼やかさが加わり始めている。彼は木陰から
重たげに体を起こし、もう少し周りを見るかの仕草で棚田の外れへとあぜ道を
たどりながら進む。かっ、かっ、かっ、と少し早いヒグラシの声が近くの森、遠くの
森から木霊してくるようだ。その澄んだ声が足元の草藁を撫ぜるかのように彼の
耳に届く。やがてここにもアブラゼミやミンミンゼミの声があふれその穂先を
揺るがすかのように四方に飛び交う。

2016年6月17日金曜日

米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)

和邇日触・・応神紀に応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。系図・伝承では米餅搗大使主の弟、または同一人物。
米餅搗大使主(鏨着大使主)・・建振熊(和邇の祖)の子。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖。
天足彦国押人命七世の孫である米餅搗大使主の子・市川臣を祖とする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人となる
米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)
孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。
応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。 
小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。
米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。)
富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図の米餅搗大臣命の注釈【若狭國三方郡和爾部神社是也】は、現在の福井県三方郡美浜町佐柿の日吉神社を指す。
表記は「米餅搗大臣」の他、『新撰姓氏録』においては「米餅搗大使主」「米餅舂大使主」「鏨着大使主」の三通りがある。「米餅」の訓は、「鏨」の訓である「たかね / たがね」とされるが、上記の餅の伝承に関連して「しとぎ」とする見解もある。
父:武振熊命
兄弟:日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰
子:八腹木事、春日和邇深目、春日市河、春日人華(仲臣)

子孫の一部
左京:大春日朝臣(もとは仲臣である)、小野朝臣、櫟井臣、和安部臣、山上朝臣
山城国:小野朝臣、粟田朝臣、小野臣、和邇部、大宅
大和国:柿下朝臣(柿本臣)、布留宿禰(もとは、物部首)、久米臣
摂津国:井代臣(井出臣)、津門首、物部、羽束首
河内国:大宅臣、物部
右京未定雑姓:中臣臣
米餅搗大使主のもとの名は「日布礼大使主」とされる(滋賀県神社庁)。
 『阿波国続風土記』5巻、大麻比古神社項より
仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定 此ヨリ以前ハ中臣佐久命ニテ㫪米部起テヨリ米餅㫪大使主ト称フ事明ナリ
津門神社 (島根県江津市):米餅搗大使主を津門氏の祖とする。
和珥氏の祖は天足彦国押人命。奈良盆地東北部・春日の辺りを本拠とします 。 孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命を祖とするが、小野神社境内には小野氏系図として敏達天皇の皇子の春日皇子を起点とする系図も紹介している。
葛城氏や蘇我氏のように一族である妃所生の皇子女から天皇を出すことはありませんでしたが、后妃を多く輩出し、孫世代からの皇后も何人かいました。 欽明天皇の頃に名が見えなくなり、春日氏に改姓したと推測されています。
宮主宅媛【みやぬしのやかひめ】.<宮主矢河比売(古事記)>
15代応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。
所生の皇子女
菟道稚郎子皇子(応神天皇皇太子)、 八田皇女(仁徳天皇后)、雌鳥皇女(隼別皇子妃)
.古事記によると、菟道稚郎子皇子は父・日触使主とともに宇治の辺りに住んでいたようです。応神天皇の求婚譚があります。
.媛の所生の皇子・菟道稚郎子皇子は応神天皇に皇太子に指定され、渡来人・王仁を家庭教師としました。しかし応神天皇の死後、兄・大鷦鷯皇子(後の仁徳帝)と帝位を譲り合い、即位せぬままに3年後死没したと伝えられ、播磨風土記に「宇治天皇」とあります。あるいは皇位をめぐる騒動があったのかもしれません。
.死に際し、菟道稚郎子皇子は同母妹・八田皇女を仁徳帝の後宮に入れるよう頼んだといいます。が、これも後世に加えられたものでしょう。
袁那弁郎女(古事記)
応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。宮主宅媛の妹。
所生の皇子女
菟道稚郎姫皇女(仁徳天皇妃)
.媛の所生の皇女・菟道稚郎子皇女は、古事記によると異母兄の仁徳帝の妃となりましたが、子供はなかったといいます。この結婚も、仁徳帝と伯母の宮主宅媛の子・菟道稚郎子皇子との皇位継承に関する騒動と関連しているものでしょうか。
和邇氏の系譜、難波根子武振熊命
五代孝昭帝の子孫を称し、その系図は、
天足彦国押人命--和邇日子押入命--彦国姥津命--彦国葺命--大口納命--難波根子武振熊命
と繋がり、神功皇后に味方して仲哀帝と大中姫との間に生まれていた忍熊王の軍勢を撃破したと伝えられる難波根子武振熊命(ナニワネコタケフルクマ)の子供の代に至って大きく

①日触使主命・口子(和邇臣)、
②大矢田宿禰、
③米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)、
④石持宿禰
の四つの血筋に分岐します。その内の米餅搗大使主命の子供達の世代で和邇氏そのものが更に、
①市河(春日臣、物部首--布留宿禰)、②深目(春日和邇)、③八腹小事(大宅臣)、④人華(粟田氏、柿本氏、小野氏)
の四流に分かれたとされており、人麻呂の出たとされる柿本家(柿本臣)は、この四番目に相当する家系だと言う事になっているのです。尤も、武振熊命と息長帯比売命を「同じ世代」に生きた者として伝える「系図」の危うさには留意するべきか。
「日本書紀」垂仁三十九年冬十月条の五十瓊敷入彦命「剣一千口を作る」の本文に続く一書の中で、
  鍛名は河上を喚して、太刀一千口を作らしむる。(中略)その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して
石上神宮に蔵む。この時に、神、乞わして言わく「春日臣の族、名は市河をして治めしよ」とのたまう。
因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首(もののべ・おびと)が始祖なり。
和邇氏から春日氏が出て、その名 市河から、物部の首が出ている。
市河=物部首が武器庫の管理者として「神」から直に「指名」されたのだ、という伝承を公に日本書紀が採録している点に注目するなら、それぞれ「和邇」を名のる家々に血縁があったのかは不明にしても、応神朝よりも「以前」から金属生産や銅器、鉄器の供給で帝室を支える「和邇」を自称する「族」が複数存在していたことが容易に推察されます。
「新撰姓氏録」大和皇別
柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男木事命、男市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、
布都努斯神社を石上御布瑠村の高庭の地に賀いたまう。市川臣を以て神主と為す。
四世孫、額田臣、武蔵臣、斉明天皇の御世、
宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首ならびに神主首と号う。これによりて臣の姓を失ひ物部首と為れり。男正五位上日向、天武天皇の御世、
社地の名に依りて、布瑠宿禰(ふる・すくね)の姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。
布留宿禰の項に在る一文によって「市川臣」が先の「市河」と同一人物だと推測出来ますから、元々、金属器の生産を受け持っていた氏族が武器そのものを神として「祀る」立場を与えられたことによって「もののべ」「おびと」を名乗ったのだと分かります。更に「姓」の授与剥奪が大王の専権事項であったことに思いをいたすなら、この文章は「宗我蝦夷大臣」が実質的に大王であった事を示唆しているのかも知れません。
時代は下りますが六世紀初頭、ヤマト朝の大王に迎え入れられた継体帝と息子達(安閑・宣化)がこぞって和邇一族の皇后を迎えている
西暦702年遣唐使として混乱の最中にある大陸へ渡った粟田朝臣真人(?~719)は、太宰帥を務め正三位にまで昇った「人華和邇」の出世頭で柿本氏とも同族、そして、ほぼ人麻呂と同世代を生きた人物のはずなのですが、日本書紀・続日本紀は同族の柿本人麻呂に関して何も語ろうとはしません。
続日本紀や新撰姓氏録でこの姓を「丸部(わにべ)」と書く。
万葉巻十一(2362)に「相狹丸(あうさわに)」【巻八では「相佐和仁(あうさわに)」と書いてある。】とあるのも同じだ。【ただしこれらは、上記の「印(いに)」と同じく、「わに」の二音の仮名である。】
「丸邇」は地名で、大和国添上郡にある。この地のことは、水垣の宮の段に「丸邇坂」とあるところで言う。【伝廿三の七十六葉】この姓は、書紀の孝昭の巻に「天足彦國押人(あめたらしひこくにおしひと)命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」とある。この命はこの記では「天押帯日子(あめおしたらしひこ)命と書き、子孫の氏をたくさん挙げたうちに、【伝廿一の廿六葉から卅三葉まで】この姓は漏れている。だがこの氏人は、水垣の宮の段に日子國夫玖(ひこくにぶく)命、訶志比の宮(仲哀天皇)の段に難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)命、その他明の宮(應神天皇)、朝倉の宮(雄略天皇)、廣高の宮(仁賢天皇)などの段にも見える。書紀の雄略の巻には「春日の和珥臣」ともある。
ところが浄御原の朝の御世、臣姓の氏々の多くに朝臣姓を加えた中(天武十三年十一月の五十二氏の叙位)に、どういうわけかこの氏は漏れている。続日本紀廿六に「天平神護元年七月、左京の人、丸部(わにべ)臣宗人ら二人に、宿禰の姓を与えた」、【「丸部」は丸邇部である。天武紀に「和珥部臣君手」と書かれている人が、続日本紀一では「丸部臣」と書かれているので分かる。】廿九に「神護景雲二年閏六月、左京の人和珥部臣男綱ら三人に和珥部朝臣の姓を与えた」とある。
新撰姓氏録
【左京皇別】「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の四世の孫、矢田宿禰の子孫である」【左京皇別】「和邇部朝臣は、大春日朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」、「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖云々」、「丸部は和邇部と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の子、伊富都久(いおつく)命の子孫である」
【右京皇別】「和邇部は、天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である」
【山城国皇別】「和邇部は、小野朝臣と同祖、天足彦國押人命の六世の孫、米餅搗大使主(しとぎつきのおおおみ)命の子孫である。一本に彦姥津命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」
【摂津国皇別】「和邇部は、大春日朝臣と同祖、云々」
【これらのうち、続日本紀や新撰姓氏録の「和邇部朝臣」の「邇」の字は、諸本に「安」と書いてある。ところが多くのうちで、朝臣姓だけがそうなっているから、何か理由があってのことかと思ったが、やはり「邇」を誤ったのだろう。】
三代実録七に「左京の人和邇部大田麻呂に姓を与えて宿禰とした。大田麻呂がみずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、また「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅繼(やかつぐ?)に姓を与えて邇宗宿禰とした。みずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、【「邇宗」は「ちかむね」と読むのか。】九に「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅貞、宅守らに姓を与えて邇宗宿禰とした」などと見える。
この姓は、古くは「和邇」とだけあるのだが、天武紀に初めて「和邇部臣君手」とあり、その後は「和邇部」とばかり書かれる。いつから「部」が加わったのか。延喜式神名帳には若狭国三方郡に和邇部神社がある
  
 

2016年6月1日水曜日

「江戸衆三百遠年(おんねん)忌法要」


訴訟の末に犠牲となった江戸衆の墓石(左の巨岩)前で読経する僧侶と参列者。奥は種徳寺=大津市北小松で、塚原和俊撮影
 大津市北小松の種徳(しゅとく)寺で29日、「江戸衆三百遠年(おんねん)忌法要」が営まれた。江戸時代の1716(享保(きょうほう)元)年、近隣の村と土地の境界などを巡って争いになった北小松村に対し、幕府は主張を認めなかったうえ、争いを起こしたとして罪科を問い、多くの村人が刑病死したと伝えられている。法要には、地元住民ら約60人が参列し、300年前の犠牲者を慰霊した。【塚原和俊】
     旧「志賀町史」などによると、北小松村は1710(宝永7)年、境界、入会、湖上輸送などを巡って北隣の鵜川(うかわ)、打下(うちおろし)両村(いずれも現・高島市)から訴えられた。京都町奉行所は二度にわたり北小松村の主張を認めたが、鵜川、打下村が承服せず、審理は幕府の最高司法機関だった江戸の評定所に上げられた。
     ところが、幕閣による裁きは一転して北小松村の敗訴となり、刑罰まで下った。この翌年の1717年に建立された種徳寺の前の墓碑には、50人以上の村人が捕縛され約40人が刑病死したと刻まれている。当時の政治家で儒学者、新井白石は自叙伝「折たく柴の記」に幕府の評定について記述している。
     種徳寺の心山(むねやま)義昭・前住職(84)は「あまりにも悲惨な結末。北小松は当時約150戸の村。帰村できたのは5人といい、打撃はさぞ大きかっただろう」と長年、心を痛めていた。法要では「三百遠年忌法要をするまで寺を去れないとの信念で来た」と心境を述べ、法要を終えると「言葉にならん」と目頭を押さえていた。
     この日、種徳寺創建時に住職を送った臨済宗相国寺(京都市上京区)から大通院の小林玄徳住職が、江戸衆を慰霊する七言絶句を携えて来訪。心山・前住職や近隣の4カ寺住職とともに読経した。北小松自治会の木原喜三郎会長(67)は「住民が毎年、盆に供養をしているが、先祖の無念を後世にしっかり伝えていきたい」と話した。