2016年3月30日水曜日

比良の里、立春の頃

「立春の頃」
風景は画巻や額のようにいつでも同じ顔はしていない。
まず第一に時代がこれを変化させる。我々の一生涯でも行き合わせた季節、
雨雪の彩色は勿論として、空に動く雲の量、風の方向などはことごとく
その姿を左右する。事によっては、これに対面した旅人の心持、例えば、
昨晩の眠りと夢、お腹の加減までが美しさに影響するかも知れない。
つまりは万物それぞれが、個々の瞬間の遭遇であって、だからまた生活
とつながり、変化することの面白さがそこにある。
この地も古代より、既に心づいた者も多いのであろうが、これら無名の
山川を愛する情を長く保ち来た土地柄であり、風景のなりわいに大きな
意味を持つ。しかし、古来よりの水陸大小の交通路として人の往来は
なおこの地の風景を変えざるを得ない。だが、ここを愛する心根の人々
はまだ消えたわけではない。

しかし、時は人、そして猫も待たずして、そろそろ立春と呼ばれる季節へと
進んでいる。我が家の庭の梅の木、その天を突く新しき槍の枝には小さな豆
のようなピンクの蕾がひしめき合あい始めている。
少し前に手を入れた夫々の木々は、夫々の想いと姿で、春の匂いを嗅ごうと
している。春の仄かな香りがヒタヒタと近づいているのだ。
まだ、比良の山並には、白い雪が、頑固に張り付いているが、立ち込める
霞が春になったんだよ!言わんばかりに、白いベールの世界を造っている。
比良山が霞んで遠景の隠れる点では、あるいは秋の中ごろに劣るという人も
あろうが、その代わりには山麓の下を覆いつくす若い木々の緑がある。
黒木に映ずる柔らかな若葉の色が見え始める。全体にこの地の人々は、
まだ山の花を愛する慣習がないのか、あれだけの樹林と広がる家々と比べても
見渡したところ天然の彩色が少し寂しい。これから咲くさくらなどもかって
山修行が最も盛んな時代に植えておいたらしい数株の老木があるのみである。
山の斜面はほぼ正東に向いている。そこから直線的に琵琶湖に落ちていく山並
が、登るにつれて少しづつその色を変え琵琶湖の光を受けて光ってくる。
それが半腹を過ぎるとほとんど全部、寒風の峰を覆うように見えるのである
が、蓬莱山や武奈岳の姿やはりこのあたりから見るのが良いようである。
細やかに観察したならば、美しいと言うともいうべきものが分かるであろう。
山の傾斜と直立する常緑木との角度、これに対する展望者の位置等が
あたかもころあいになっているのではなかろうか。

「まだ少し冬が残る頃」
既に2月も終わりである。季節は雨水から春分へと移りつつある。
まだ寒い日もあるが、少しづつ暖かさの断片が周りを覆うような日も
増えてきた。
灰色の空を後景にして、これも灰色の比良山が幾筋かの雪影を合わせて
佇んでいる。モノクロ一色の世界に少し赤みが差し始める。天空を
覆いつくしている雲をこじ開けるが如く僅かな朝陽がその峰を照らす。
しかし、それも一瞬の事とて、またもとの静寂の白と黒の世界にもどる。
その静寂を破るように、それは四十雀であろうか、その尾を小刻みに
震えさせながらまだ硬く寒さにこらえている梅の芽のうえを飛んでいく。
この庭から見る比良は毎日、その顔を変える。昨日は薄青いカーテン
が引かれた様な空を背景に、斑模様の雪がへばりついた顔を見せていた。
その下を一筋の薄き羽衣のような雲がゆっくりと湖の方へ流れて行く。
よくみれば、その下には真綿のような雲の塊りが黒い木々に変わり、
全体を覆い隠していた。
今日は雨になるのであろう。幾筋かの雨足が見えるが、それは地面に
着く前に消えるが如く弱いものである。すこし温かみを含んだ弱い風が
頬を撫ぜながら左から右へと流れている。
春の予感はそこからは感じられない。

「春の兆しが足元まで来ている」
長く白い砂地が左から右へと大きな湾曲を描きながら延びている。
湾曲に沿ってまばらではあるが松林も続いていた。沖にはえり漁の仕掛け棒が
水面から何十本となく突き出し、自然の中のくびきでもしているようだ。
私のいる砂浜に向かってゆっくりとした波長をもってさざなみが寄せていた。
春は浪さえも緩やかにさせるのであろうか、冬に見たときのそれとは大きく違う。
私の10メートルほど先には、数10羽の鳥たちが青白い空とややくすんだ
色合いの青を持つ湖面の間に浮かんでいる。あるものはえり漁の仕掛け棒の上で
羽を休め、何羽かの鳥たちは遊び興じているようでもある。2羽のコガモが
連れ立って水面をゆっくりと進んでいる。やがて彼らもここを離れ、次の住まいへと
向かうのであろう。春は出発と別れのときでもある。
遠く沖島と少し黒く霞んだ山並を背景にして数艘の釣り船が浪に揺られ、釣り人が
その上で釣り糸を垂れている。そのモノトーンのような光景を見ながら、私は、
春がその辺に来ている事を感じた。
砂浜の切れるところに港がある。港には朝の漁を終えたのであろうかノンビリと
とした風情で浮かんでいる。時折かもめが船の舳先を飛び、また離れて行った。
古来よりこの地域は魚を取る事を生業とした和邇氏と呼ばれる部族が住んでいた。
このため、ここから北へ向けても幾つかの漁港がある。多分、古代人が見た風景も
私が見ているこの春に手をかけたような風景も同じであったのであろう。

「春が姿を現し始めた」
朝から茜色の朝陽が小さな雲と一緒に見えていた。
比良の山は白い雪帽子が頂上の稜線と空の間に残っているが、少し前の黒々とした
木々のまといとは違う姿を見せている。薄ぼんやりと薄いベールを被ったような
山並がこれもやや薄れた蒼さの見える空とそれを取り巻く春の陽光の中に悄然と
立っている。今年初めて見せるその姿は、それだけで春の訪れを告げている様
でもある。
少し視線をずらせば、いつも見えるはずの湖の蒼さも対岸にある山並もその
ベールの中に消えている。存在するはずのものがそこに見えないと言う感触は、
自分の存在さえ否定されているようでなにか不思議な思いに駆られた。
しかし、この身体にまとわりつく心地よき温かさと柔らかな日差しは間違いなく
春が我が身にもにじり寄ってきている事を感じさせ、家の前を行きかうお年寄り
の顔にも冬の間見られた固く黒ずんだ陰りが柔らかく赤みを帯びたそれに変って
いた。皆が新しい光の中で、生きていた。
この街は風の街でもある。
特に春の訪れとともに、「比良おろし、比良八荒」が吹き荒れる。
比良山地南東側の急斜面を駆け降りるように吹く北西の風である。
強い比良おろしが吹くときには、比良山地の尾根の上に風枕という雲が見られる。
その風に合わすかのように「比良八講(ひらはっこう)」という法要が行われる。
周辺の琵琶湖で僧りょや修験者らが、比良山系から取水した「法水」を湖面に注ぎ、
物故者の供養や湖上安全を祈願するのだ。
今年も3月26日、無事その祈願も終えた。
すでに桜はこじんまりとした蕾をつけ、やがて迎えるその華やかな姿を整えつつある。

2つの八所神社

その路は、琵琶湖のさざなみが寄せ波間の音が聞こえる足元から
一直線に西へと伸びている。国道を切り取るようにそのまま大きな
石の鳥居の下から数段の石段を駆け上がり拝殿へと続く。鳥居には
大きな注連縄がかかり、薄茶色に化した樒がそこに吊り下げられている。
鳥居の横の大きな石碑には、「八所神社」と深く刻まれ、こちらを
にらむかのように建っていた。横道の常夜灯と道端の羊歯、南天の赤い実、
風にさやぐ杉の木肌、がひそやかに彼を迎える。
地表に広がる無数の苔、その雑念とした空間を斑模様に拡がる水溜りの薄灰色の道が、
ゆくての拝殿のややくすんだ中へと紛れ入っていた。ゆっくりと小砂利の道を
踏みしめながら周りを見れば、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林や無造作に
打ち捨てられた朽木がさびしげに見られる。拝殿を回り込む形で、その先に進むと
小さな本殿が杉木立を後景にその華奢な姿を木漏れ日の中に浮き立たせている。
右手の社務所とある建物は、数十年という風雪がしみ込む形で杉陰の中に見えた。
石碑の横にある神社の由来によれば、
「祭神は、大己貴命、 白山菊理姫命の二座です。
織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼を避けて
日吉七社の御神体をこの地に遷し日吉神社再興までこの地で奉祀したと伝えています。
日吉大社七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて八所神社と称するとしています。
日吉大社が再興されるまで日吉祭りはこの八所神社で実施されたため、現在、
日吉山王と書かれた菊入りの高張りがあり、五か祭には使用されます。
天正6年(1578)の再建とされました。例祭は、5月5日で木戸の樹下神社の例祭と
あわして行われ、湖岸を朝早く木戸の樹下神社に渡御し、夕方還御します。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りで、柱間を桁裄三間、梁間二間とした
木割の太い建物です」とある。
静けさの中に水音がわずかな動きを伝える。右横の竜神の口からは、幾筋かの水滴が
落ちている。神社の後ろには、隠れるように、祝部行丸の墓や愛宕さんの石灯篭、
山ノ神を祀る石像などがある。
拝殿から来た道を振り返れば、まっすぐ伸びた道は湖へと消えている。拝殿の柱間に
その碧き色が光をくねらすように見えていた。
更にここには、同じ名前の八所神社がもう一つある。
先ほどの八所神社の横の参道の少し先に同じ石の鳥居が建っている。
石段の手前には、神社由来の辻立てがある。
「祭神は八所大神 住吉大神の二座です。
創祀年代不詳ですが、神護景雲2年(768)に良弁(ろうべん 689~773)
によって創建されたと伝えられています。良弁は、奈良時代の学僧として
名高いが、南船路辺りの出身とする伝承があります。
斎明天皇5年比良行幸の際、当社にも臨幸ありと伝えられます。
又良弁僧正と深い関係があり、天平宝字6年(762)社宇を改造し社側に
一字一石経塚を建て(此経塚現存す)法楽を修しました。
又足利将軍が安産の神として崇め、和邇金蔵坊が郷の産土神と崇敬し
社領若干を寄進されたともあります。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りです。
中には、伝良弁納経の石塔があり、良弁が書いた経文を納めたものと伝えられます。
層塔の残欠で、厚さ6~7cmの自然石の上に三層の笠を置き、その上に宝珠形の石
をのせ、良弁が一石一字の法華経を納めた塚であると伝えます。
例祭は、5月5日、神輿二基が湖岸の御旅所へ渡御します」とある。くすんだ
杉板には黒い染みが点々とあり、年代を感じる。
社殿の西側に、タブイキの林が広がり、境内にその静けさをもたらしている。
中には、胸高周囲4メートル以上のタボノキ・コジイの巨木が深き境界を創りだし、
中央に鎮座する拝殿に千々たる光の葉影を落としていた。
拝殿から湖を見れば、柱のフレームに切り取られた碧い水模様が午後の光りの
中で絶えず変化するように煌めいている。この拝殿もその昔は、国道や湖西線の
無様な遮蔽物もなく、1つのつながりとして湖へ伸びていたのであろう。
静かに目を閉じれば、湖の小さきさえずりが聞こえ、幾重の葉影がこの身を
包みこんでいる。
良弁(689~773)については、奈良時代に活躍した僧。石山寺の建立に
尽力しました。出自について諸説ありますが、良弁は南船路辺りの出身とする伝承
があり、また近江国志賀里の百済氏とする説もあります。
残された伝承によると、良弁が2歳の頃、大きな鷹が良弁をつかんで飛び去り、
行方不明になり、奈良の春日社で義淵(ぎえん)という僧が鷹につかまった
子どもを見つけ自分の弟子とし、「良弁」と名づけ大切に育てたとのことです。
その後、良弁は成長して僧正にまでなり、母親は奈良まで出向き、30数年
ぶりに親子の再会がかないました。良弁の師匠の義淵は、飛鳥の岡寺の創健者
と知られる高僧で、弟子に行基や玄昉(げんぼう)などの著名人が多くいます。
良弁は聖武天皇や光明皇后とのつながりも深く、東大寺の初代別当にもなっています。
これは、地元の古老から聞いた話である。
この奥には、円墳横穴式石室の古墳があったが、今は見ることが出来ない。

2016年3月28日月曜日

大津と湖西の石仏について

大津と湖西の石仏について
・延暦寺弥勒仏
・藤尾寂光寺磨岸仏
・西教寺阿弥陀仏
・早尾地蔵
・慈眼寺の石仏
・小坂田阿弥陀仏
・西教寺二十五菩薩
・西教寺六地蔵
・聖衆来迎寺石棺仏
・聖衆来迎寺笠塔婆
・上仰木地蔵
・穴太の石仏
・見世の大仏
・山上不動磨崖仏
・長等山阿弥陀板碑
・石山寺の石仏
・納拝の石仏
・白洲不動石仏
・西方寺薬師石仏
・法蔵寺地蔵石仏
・新免不動磨崖仏
・富川大磨崖仏
・富川不動磨崖仏

・鵜川四十八体仏
・鵜川古墳二体地蔵
・長盛寺地蔵石仏
・玉泉寺の石仏
・玉泉寺墓地石仏群
・宿鴨の二体地蔵
・南鴨三体石仏

2016年3月23日水曜日

狛犬の南小松、八幡神社

やや黒味を帯びた松林の間には、白き碧さの湖が静かに横たわっている。
目を転じれば、東からの陽光を浴びる比良の山端の切れたあたりに
小さな湖がいた。
先ほど乗ってきた電車の去る音が静かな時の流れを引き裂いていく。
やや褐色の強くなった山肌に白き亀裂の目立ち始めた比良山の山並み
に向かって緩やかに上る小道をたどり始めた。国道を横切り
更に小道を歩くと、石の道標が出迎えた。地元の古老の話では、
古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い神社まで数多くの
都人たちも参拝したという。その人たちを導くための道標が、街道の
随所に立てられたが、現在その存在が確認されているのは、七箇所
ほど(すべて大津市)。建てられた年代は天保七年で、どの道標も表に
「白鬚神社大明神」とその下に距離(土に埋まって見えないものが多い)、
左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に建てられた「天保七年」が刻まれている。
二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうが、
ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで
受け継がれてきたものだ。その最後の道標がここ、八幡神社の参道の
手前にある。
その道標の先にある家の庭には敷き詰められた石と淡然とした趣のある
石灯篭がこちらに向かってにこやかな笑いを帯びた風情で置かれていた。
横を手押しの車を押して白髪の髪を後ろでまとめ上げた女性が、ゆっくりとした
テンポで通り過ぎていく。がたがたという音がやや朽ちた壁と石畳の道の間に
強く響いていゆく。その先には、八幡神社との刻銘がある常夜灯の大きな
石の影が参道を寸断するかのように、一直線に伸びていた。
その常夜灯の先に八幡神社があった。
古老の話と説明文から、
「南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。
木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬
大師と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁
によってこの地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。
大師が直ぐに目を覚まし夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、
水中に飛び込み引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。
祭神は応神天皇です。
創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と
白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と
日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています」と説明する。
大きな狛犬が、本殿を守るかのように鎮座していた。
右のそれのタテガミは、やや逆立つように大きな目は怒りを含んで本殿に向かう
ものへの畏敬を望んでいるようであり、左のそれは緩やかな鬣にあわすかのように
目や口の造作から穏やかな空気が流れ出てくるようだ。ともに180センチ
ほどの大きな体を悠然と台座の上に横たえ、周囲を圧した情感を発している。
静かな空気を剥ぎ取るようにどこからか水音がした。
本殿の横、石の水路からその音は出ていた。水路は小さいものの、水しぶきが
水路にそって伸びる苔の帯に降り注いでいる。小さな光の筋がその緑に絡み
つくように映え、水の強さをさらに深くしているように見えた。
水音をたどれば、後背の杉の群れの中に消え、念仏山といわれる比良の前面に
ある小山へと続いているのであろう。また下へとたどれば、神社の石垣に沿って、
正面の鳥居の下へとそれは続いている。小さいながらも、まるでこの神社を
守るかのように水音が周囲を覆っている。
春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿
がこの地域を巡るという。拝殿の前には、土俵の堤があり、八朔祭(9月1日)
が行われ、夜七時ごろからは奉納相撲が開催される。子供たちが裸電燈の下で
勢いよくぶつかり合い、周囲からの声援で踏ん張り、そして投げを打つ。
そんな様が自身の少年時分の思い出と重なって古いトーキー映画のごとき
緩やかなモノクロの映像の流れにしばらく身を置く自分がいた。
昭和といわれた時代の名残香が一瞬鼻をつく、しかしそれは五十年以上の
古き香りなのであろう。
さらさらという水音に、沖天の光の中にいる自分、引き戻された。
狛犬の目が一瞬、お前はここで何してんねん、と言っているようでもある。
石と水の里、そんな想いがさらに強まった。

水に育まれた、栗原水分神社と棚田


艶やかに日に照る柿は、一つ一つの小枝にみのり、いくつかのそれに
漆のような影を宿していた。ある一枝には、その赤い粒が密集して、
それが花とちがって、夥しく空へ撒き散ったかの柿の実は、そのまま
堅固に張り付かくように端然とした静けさを保った空へ嵌め込まれていた。
野辺の草葉はその碧さを失い、大根畑やそれを囲むかのような竹藪の青さ
ばかりが目立った。大根畑のひしめく緑の葉は、日を透かした影を重ねていた。
やがて左側に沼を隔てる石垣の一連が始まったが、赤い実をつけた葛がからまる
垣の上から、小さな泉の澱みが見られた。ここをすぎると、道はたちまち暗み、
立ち並ぶ老杉のかげへ入った。さしも広く照っていた日光も、下草の笹に
こぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
秋の冷気が体に寄せてきた。
身の丈ほどの石垣に色づいている数本の紅葉が、敢えて艶やかとは言いかねるが、
周りのややかすれた木々の黒ずんだ木肌と合わせ、彼にはひどく印象に残る
朱色のように見えた。
紅葉のうしろのかぼそい松や杉は空をおおうに足らず、木の間になおひろやかな
空の背光を受けた紅葉は、さしのべた枝の群れを朝焼けの雲のように
たなびかせていた。
枝の下からふりあおぐ空は、黒ずんだ繊細なもみじ葉が、次か次へと葉端を接して、
あたかもレースを透かして仰ぐ空のようだった。
左へ折れて、小さなせせらぎを横目で見ながらゆっくりと登る。幾段にも続く道
がつづら折りのように上へ上へと延びていた。川面には枯草がその縁を伝うように
両脇を薄茶色で彩っている。小さな堰堤がその流れを遮るように青草が縞模様に
映える壁となっていた。そこから丘陵への道がひっそりと姿を現した。
その丘陵の端には、一本の蜜柑の木が寒々した空に身をゆだね、立っている。
春に来たときは、その枝枝に白い蕾をつけ周辺の緑の若草に映えて天に
伸びきっていた。
今は冬の寒さに耐えるため、厚い木肌に覆われたその気の横に立つと、遠く
琵琶湖の白く光る姿が見えた。何十にも続く小さく区切られた田圃が琵琶湖に向かって
駆け下りている。すでに今年の役割を終えた水田は黒々とした地肌を見せ、
中天の光りの中で来る冬の寒さに備えるかのように身を固くしている。
しかし、彼の眼には一か月ほど前の金色に光る稲穂のさざめきの光景が見えていた。
何十年、何百年とこの地で住いしてきた人々の変わらぬ世界でもあった。
丘を下り、幾重にも重なるように立ち並ぶ栗原の集落を抜けると、その小高い
場所に水分(みくまり)神社があった。古老の話では、
「御祭神は、天水分神アメノミクマリノカミという。
当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘全域の祈雨場
であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を領した際采地の内より若干の
神地を寄進した。元禄五年社殿改造の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であった
のが、後に和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村のみの
氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから村座として十人衆があり、
その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。この為古神事が名称もそのままに
残っている。その主なものは、神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日)
菖蒲祭(六月五日)権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)等があり、
御田植え祭が6月10日にある。八朔祭には若衆による武者行列があったが、
今はやっていない」という。
広く長い参道の中間点あたりの勧請木に青竹を渡し勧請縄が掛けられている。
何本有るのかもわからない程多くの子縄が垂れ下がりそれぞれに御幣と
シキミの小枝がつけられている。ちょっと不可思議な光景でもある。
しかし、雨乞い、田植え祭りなど水に育まれた集落である。
なお、栗原には道路を挟んだ対面にもう一つ棚田がある。それは昔、何気なく
竹藪の流れに身を任せるかのように分け入った先に突然現れた。道を
一気に駆け下り、さざめく小川のほとりから上を見上げた時のあの風景は
中々に忘れ難い。丘に張り付き隠れるように幾重にも水路が走り、それが
細長く仕切られた水田に小さな水の流れを起こしていた。さらにその先には、
緑深く敷き詰めた比良の山端がその丘を懐に抱くように、迫っていた。
心が癒される一刻の鎮まりと絵画のごとき風景がそこにあった。

2016年3月20日日曜日

金比羅神社への道

すでに人家は途絶え、先ほどまで後ろに光り輝いていた湖の姿も消えた。
道は舗装から砂利道へと突然変わり、まるで俗世と来世はここだ、と宣言
している様でもある。まるで来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が
目の前に広がっていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さを被い
隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。細い砂利道が真っ直ぐに
伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き薄い光がその先で揺れている。
わずかな空気の流れが私の頬をかすめていくが、聞こえるのは砂利道を
踏みしめ歩く我々の足音のみ、静寂が周囲を押し包んでいた。
はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。さわりと、その音さえ聞こえて来た。
やがて二つに道がわかれ、苔の薄緑に覆われた石碑には、「金比羅神社」とある。
上りの勾配がきつくなり、砂利道を歩く音に合わすかのように夫々の息づかい
が聞こえ始まる。
今から200年ほど前に農家の老婦が柴刈をしていると金毘羅さんの御神符が
ひらりと落ちてきてこの地に祀って欲しいとのお告げがあり、村人はこの景勝の
場所に祀った。
道が切り取られたような崖の間を抜け、右手の山へと続いている。
歩けるように整備された細い道が山の端に沿って、上に向って伸びている。
ちょっときついな、と心なしか不安を覚える。上っては下り、下りを暫らく
感じると直ぐに上る。そんなことが暫らく続くが、案内人は黙々と
歩き続ける。小さな水の流れを渡り、また小さなきざはしとなっている山道を
上がる。膝とその周りの肉がそろそろ悲鳴をあげ始まった時、突然、
森が切れ、視界が広がる。
そこは縦横二百メートルほどの広さを持ち森の重さがすっぽり抜けた
ように蒼い空の下に小さな草花を咲かせていた。
勾配のきつい山肌に石垣が組まれ、小さな神社が下からも見られた。
金比羅神社が湖を見下ろすかのように鎮座している。
江戸時代、湊も活気があり、漁師や船頭が海の守り神として信仰し、
毎月の例祭に加え、百年祭、百五十年祭も行われていた。大祭の日には猿の
飾りをつるした大きな幟が立てられた。三月の大祭には、地元の人が
お神酒や御餅をもって参詣したという。今はひっそりとその影を強く光る
石の中に落としている。気が付けば、彼の立っている木の枝にはすでに
その形も判然としなくなった猿の人形がわずかに流れる空気の中に
ゆるりと動いた。神社は思いのほか大きくそこからは碧く澄んだ湖の
佇まいがよく見える。色づき始めた木々の画枠の中に沖島や遠くかすむ
三上山の円錐の形が光に映える水面の後背にして具象的な1つの風景画
をなしている。風が一陣、ほおを撫ぜ過ぎ去っていく。
鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を2羽の鳥が旋回している。
彼らから見たら、我々はどう見えているのだろう、とふと思う。
彼らから見れば、単なる石垣と広場と思われる場所に数人ほどの人間が
うごめいている。更には、遠く彼らの親たちは数百人の人間が天に念仏を
唱えながら日々暮らす姿を見てきたのであろう。滑稽なりと思ったか。
苦行は更に続いた。先ずは、先ほどと同じ様な道を南に上っては下り、更に上る。
小さなせせらぎを渡り、同じ様な山道を踏み外さないように慎重に上り、
また下り、上る。和邇は、今日はこれで何回上がったり下がったりしたのか、
そんな考えを巡らしながら眼の前にある細い道を上がっていく。
最後の一踏みを終えると眼の先には大きな池が桜の木に囲まれ、色づき
始めた山の端を後背にして、鎮座している。
池辺の大きな杉の強い緑の影が水面に伸びている。風一つなくて、
水すましの描く波紋ばかりの青黄いろい沼の一角に、枯れた松が
横倒しになって、橋のように懸っているのが見え、その朽木を癒すかのように
二筋の水が黒く繁った羊歯の間から滴り落ちていた。その朽木の周辺から
円い円を描きさざなみがこまやかに光っている。そのさざなみが、映った空
の鈍い青を掻き乱している。朽木は万目の緑の中に、全身赤錆いろに
変わりながら、立っていた頃の姿をそのままにとどめて横たわっている。
疑いようもなく松であり続けているかのように、そこにいた。
彼は、草草のきれた合間からさらに数歩池に近づいた。池の対岸の青さびた
檜林が、こちら側へも広がって来ていて、さらにその影が多くしていた。
どこかから緩やかな調子で水音が聞こえてくる。
羊歯を濡らすかのように幾すじもの水糸が、光に反射するように池辺へと
落ちている。
陽はすでに中天から外れ、徐々に秋の寒さを周囲に撒き散らし始めている。
背中に滲み出している汗が徐々に消えていく。
和邇は思う。すでに心は家路へと急いでいた。

2016年3月12日土曜日


水に守られていた、北小松と樹下神社周辺

国道にその長い影を横たえていた。比良の山並みにもすでに赤みを帯びた

雲がかかり始め、秋の涼しさが横たわり始めている。国道すぐ横にある

大きな石の鳥居が彼を見下ろすように建っていた。

そこから数百メートル先に社殿が松並木に囲まれるように佇んでいる。

小さな石橋を渡る。松並木と横に広がる田畑の間には、緩やかな水の流れが

あり、その橋を潜り抜けるように大きな溝へとそれをつなげていた。

松並木にそっては、四つほどの石灯篭が、交互に居並ぶように道を作っている。

ひりかえれば、その道は国道を横切り、一直線に光映えている琵琶湖へと

延び消えていた。その昔は湖北、敦賀へと海上をつなぐ湊として、また伊藤氏が作ったという城もあったという要害の地として、栄えたという残り香が

漂っているようでもある。

境内へは石の車止めを通るのだが、右手に瓦葺の大きな社務所が白壁に

囲まれるように建っている。その横には、龍の口から湧水が吐き出されるように湧き出ていた。この神社には、このような龍の湧水が三つほどあり、涸れることなく流れ出てきたという。

社務所の総代の話では、

「御祭神は、鴨玉依姫命です。水を守る神様です。

 創祀年代は不詳であるが、天元5年(982年)に佐々木成頼により日吉十禅師

 (現日吉大社摂社樹下宮)を勧請したのに創まるとの伝えがあります。

以来、近江国守護佐々木氏の崇敬を受け、社頭は発展しました。

元亀の争乱時(16世紀後葉)に、織田信長軍により壊滅的な打撃を受けたが、

続く天正年間に規模は小さくなったが再建されました。明治3年(1870年)

に十禅師社と称していた社号を、樹下神社に改め、明治9年には村社に列し、

41年には神饌幣帛料供進社に指定されました。

境内社には、比較的大きな社務所もあり、天滿宮、金比羅宮、大髭神社があります。」との説明がある。

本殿の前には、大きな石造りの社があり、精巧な作りを見せている。

また、天保時代の石燈籠があり、その造りは真っ直ぐといきり立つ宝珠、それを受ける見事な請花、露盤のくびれもその鋭い形を残したままで優雅に立っている。

本殿と社務所の丁度中頃には、大きな石をくり抜いたであろう石棺が古代の威容をそのままに鎮座していた。先ほどの龍の湧水とは別の水口があり、その横には緑の縞が明瞭に出ている2メートルほどの守山石が置かれていた。かっては、この石の上に楠正成の銅像があったというが、その雄姿は、写真でしか味わえない。

周辺の秋枯れた世界とは別の世界がここにある。

この神社を少し山側に行くと、修験堂の登り口の前に「生水(しょうず)」と

呼ばれている湧水の場所がある。

北小松の集落は、伊藤城(小松城跡)があったとされ、その石の水路の織り成す城下の面影が残っている。白壁と大きな松にかたどられた瓦屋根の家々がその姿をとどめている。戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館であった。

北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる

伝承地がある。湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていたであろう。街を歩くと、幾重のも伸びている溝や石垣の作りは堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じる。苔むした川は、三面水路で造られ、春ともなると、小鮎がいくつもの群を作り遊びに興じている様だ。また「かわと」の風情も残っている。

家の中に湧き水や琵琶湖の水、川の水を引き込み生活用水として利用していた。

山からの湧水が小川となり、それがこの街を幾重にも重なりながら静かな水の流れを作り上げている。彼方此方にその残滓は残っているが、多くは数段の石段が川に延びた状態で、今はほとんど使われていない。家々の間にそれとなく顔を出す湖の碧さと白地の強い砂浜がここが、かっては水運の街であったことをそれとなく教えてくれる。少し歩けば小松漁港に出るが、まだそこには石造りの防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われて、苔むした石垣は時代の長さを感じさせる。

今も残るその風情に遠くを見つめるように古老の姿が揺らいでいた。

静かな午後の日差しがその背を白くとらえていた。

2016年3月8日火曜日

弁天神社、大物百間堤

弁天神社と念仏山周辺
きれいに整備された道路をその少し勾配に負けるような気持になりながらも、
比良の手前にある小さな山の麓、念仏山と呼ばれる山端に、たどりつく。
舗装された道が切れ、数条の小さな草の列が細く長く続く山道へと変わった。
左へ折れた十メートル先に小さなやしろが杉の木々に覆われるように
静かな佇ずまいを見せていた。弁天神社であった。神社の入り口には、石で
蛇を模した像が神社を守るかのような形で鎮座していた。この辺の
人々は「みーさん」とも呼んでいるそうだ。起源は弁財天が南小松 大仙寺
開基の守護神として祀られた事によるとのこと。その後、織田信長の
比叡山攻めによって荒廃したが、明治43年8月に現在の地に祀られた。
境内には、白光大神の社もある。
その小ぶりな社殿を2つほどめぐると、後ろには、沼があった。
沼辺の大きな栗の強い緑の影が水面に伸びている。風一つなくて、
水すましの描く波紋ばかりの青黄いろい沼の一角に、枯れた松が
横倒しになって、橋のように懸っているのが見え、その朽木を癒すかのように
二筋の水が黒く繁った羊歯の間から滴り落ちていた。その朽木の周辺から
円い円を描きさざなみがこまやかに光っている。そのさざなみが、映った空
の鈍い青を掻き乱している。朽木は万目の緑の中に、全身赤錆いろに
変わりながら、立っていた頃の姿をそのままにとどめて横たわっている。
疑いようもなく松であり続けているかのように、そこにいた。
彼は、草草のきれた合間からさらに数歩池に近づいた。池の対岸の青さびた
檜林が、こちら側へも広がって来ていて、さらにその影が多くしていた。
その木立の暗闇の中を、白い蝶がよろめき飛んだ。点滴のように落ちた日差し
が湖面に新たな光を与えている。遠目には影絵の蝶が、近くへ来ると、
羽根の朽葉色を彩るコバルト色が鮮やかに見えた。
燦と光る羊歯の上を、社殿の方へと低くうつろいながら飛んでいった。
神社の下には、さらに細い道が続いているが、数メートル先では檜の若木の
中に消えている。小さな水のせせらぎが聞こえてきた。
石灰岩の白い粒がその流れの底で薄く広がって川とは言えない、小さな水の
流れを作り出している。黒い緑の羊歯の間を抜けてきた水はたえず
ゆらぎながら、羊歯の葉裏をひるがえすほどの力があると思えば、物憂げに、
悩ましげに、左右へその葉を振るばかりでもあり、その蛇行する形が
いやが上にも葉の揺れ方を不規則にしている。よく見れば、多くの葉は、
葉心は葉脈も初々しく滑らかなのが、葉辺は錆色に蝕まれて破れている。
ちらばった錆色の斑から、葉の敗れが始まって、それがうつって、
波及していくものらしい。ときおり、裏革のような肌の、胡粉を含んだ
粉っぽい緑の葉が、目の前を通り過ぎ、さらに葉が不安定に揺れながら、
そのかすかな声の合唱を奏でるように小さな沼へと流れを作っている。
揺れ方をつぶさに見ているうちに、それが実に複雑な動きを示すのに、
気付いた。流れに沿って一応にその沼へ流れ込むだけではなく、その途中には
水のたまった形の茶色の輪が乾いており、そこにいくばくかの
枯葉の幾葉かが納まっている。木々からの光りはまだ明るいのに、沼への
流れには、どこからか暗さが迫っていた。
この流れを少し下ると、手作りの山道があった。念仏山へと通じる道だそうだ。
地元の古老がちょっと上がってみようとの誘いで、進んだが、結構きつい。
道は途中から消え、杉の灌木と松の林が斜めに迫る中を十五分ほど、
息を切らしながらも上ると、三百メートルほどある頂上にたどり着く。
そこはぽっかりと空が開き、杉や檜の木々が消え、その先には、近江舞子の
内湖や湖に浮かぶ対岸の沖島、さらには八幡山などの山並みが碧い水面の先に見えた。



大物、百間堤
国道を逸れるとすぐに、若い杉の木々の群れがいくつも彼の周りに現れた。
それらが織りなすまだら模様の光の影が時には明るい道筋となり、さらに
数歩先には光を強く拒絶するような一面黒色模様の帯となってその歩みに
逡巡の心地を湧きあがらせるような道ともなった。
比良は、他の地区でも見られたように、静かに彼を受け入れるかのように
淡然とその行く手に鎮座していた。しかしその光に映えた姿も、時に、
覆いかぶさるように繁茂した蔓草や見知らぬ木々の群れに遮られ、消えて
いた。やがて、太く重い音の響きとともに、目の前を一直線にその灰色の
無様な姿を横たえたコンクリートの塊が現れた。比良の山端を縫うように
走る高速道路がそこにいた。右手方向へは「志賀清林の墓」とある。
白く舗装された道と今まで通ってきた砂利の道が何の思いもなく単に
物理的にまじわった、そんな風情の出会いであった。
しかし、その砂利道は、舗装道路に分断されたものの、さらに山への力強く
続いているようであった。でも少し違うと彼は思った。
よく見れば、更なる道にはその横を細いながらもその力強さを映える光の中に
持っているような湧水からの一条の流れがあった。
草木の匂いがあたりに満ちている。道の両側に松が多くなり、見上げる空には、
日が強いので、松笠のその鱗の影も一つ一つが明確な意思を示しているように見えた。
左方には、荒れて褐色の形を成した蔓のいっぱい絡まった小さな空間があらわれた。
道の行く手を、なおいくつもの木陰が横切っている。あるものは崩れた簾の影のように
透き、別のそれは喪服の帯のように三、四本黒く濃厚に横たわっている。
身体の内を汗が数条流れるような感触が強まり、疲労が徐々に体全体を
覆っていくようだ。
あたりに幾つかの露草があるが、花は日差しの中で萎んでいる。若い燕の翼のように
躍動した葉の間で、ごく小さい青紫の花が萎えている。見上げた空には、掃き残した
ような雲の幾片も、ことごとく怖ろしいほどに乾いている。時折落ちる葉のかさりと
する音のほか、しんしんとした静寂が身の回りを包む。
左方に竹藪がはじまったのは、道がやや左へ迂回して間もなくである。
竹藪は、それ自体が人間世界のの聚楽のように、しなやかな繊細な若葉の
ものや悪意と意地を帯びた強い黒ずんだ緑まで、身を寄せ合って群がって繁っている。
松林がやがて杉林にその領域を譲るあたりに、一本孤立した合歓があった。
杉の強い葉の間に紛れ込んだ、午睡の夢のようにあえかな、そのやわらかい葉叢
そこからも一羽の白い蝶がたって、行く手へ導いた。
道はややその勾配を高めながらもまっすぐに林の奥へと消えている。
さざめく木の葉の音ずれとゆらゆらと飛ぶ蝶の白き影を追って、十分ほど経つ
のであろうか、突然それは表われた。三メートルほどの石垣が前を遮っていた。
それが右手の方に途切れた林にそって、さらに先へと延びている。
何処からか、力強い水音が彼を誘うかのように聞こえてきた。手作りの
階段を上がると、それは見えた。大きな石を何十となく積み上げた堤が川の
流れに沿って、数百メートルほど伸びている。百間堤であった。
比良の山並みを光背にして、十メートルほどの川幅の、その強い流れを音と
岸にそそぐしぶきの踊りで表した、四ツ子川があった。
堤と川の切れ目の間に、白く輝く琵琶湖の水面が陽光を見せながら、静かに見えた。
ここは石と水の戦いの場でもあったのであろう。
百間堤の説明があった。
「この周辺は、洪水ごとに何度も決壊した場所で、現在の石積は、嘉永5年
(1852)の洪水後、6年近い歳月を費やして完成したと伝えられます。
堤の上巾15m、長さ200mの堤です。
「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』
(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻
(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や
人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して
流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、
下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米
の減額をたびたび役所に願い出ていました。そこで、当時大物村を治めていた
宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大
石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて
棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。
1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、
天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月を
かけて完成させました。
下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の
強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)と
よばれ、女性でも運べる程度の石で造られています。」
この堤に立って、周囲の空気に交われば、自ずとこの石たちの持つ優しさを感じる。
対岸に若い二人連れがいた。この堤の上で見る風景とあちらから見るそれは、
大分違う、そんな思いが湧いてきた。多分それは、これを作り上げた人々の想いが
足元を通じて伝えてくるものと少し離れ、観察者として見ることの違いなのであろう。
四ツ子川から引き込んだ小川が堤の間を、それは苔むした石で覆われているが、
緩やかに流れていく。先ほどの小川の流れはここから出ていたのであろう。
そしてその水がさらに下り、大物の集落の水の恵みとなった。しかし、それは突然
神の顔から荒れ狂う風神、雷神の顔に一変し、その昔は集落を襲ったのだ。
人もこの自然の中の一員であることを知らしめるための神の仕業なのかもしれない。
この周辺は、その神への信仰もあるのか、弁天、金毘羅など水への畏敬を
表した神社が多い。