2016年3月23日水曜日

水に育まれた、栗原水分神社と棚田


艶やかに日に照る柿は、一つ一つの小枝にみのり、いくつかのそれに
漆のような影を宿していた。ある一枝には、その赤い粒が密集して、
それが花とちがって、夥しく空へ撒き散ったかの柿の実は、そのまま
堅固に張り付かくように端然とした静けさを保った空へ嵌め込まれていた。
野辺の草葉はその碧さを失い、大根畑やそれを囲むかのような竹藪の青さ
ばかりが目立った。大根畑のひしめく緑の葉は、日を透かした影を重ねていた。
やがて左側に沼を隔てる石垣の一連が始まったが、赤い実をつけた葛がからまる
垣の上から、小さな泉の澱みが見られた。ここをすぎると、道はたちまち暗み、
立ち並ぶ老杉のかげへ入った。さしも広く照っていた日光も、下草の笹に
こぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。
秋の冷気が体に寄せてきた。
身の丈ほどの石垣に色づいている数本の紅葉が、敢えて艶やかとは言いかねるが、
周りのややかすれた木々の黒ずんだ木肌と合わせ、彼にはひどく印象に残る
朱色のように見えた。
紅葉のうしろのかぼそい松や杉は空をおおうに足らず、木の間になおひろやかな
空の背光を受けた紅葉は、さしのべた枝の群れを朝焼けの雲のように
たなびかせていた。
枝の下からふりあおぐ空は、黒ずんだ繊細なもみじ葉が、次か次へと葉端を接して、
あたかもレースを透かして仰ぐ空のようだった。
左へ折れて、小さなせせらぎを横目で見ながらゆっくりと登る。幾段にも続く道
がつづら折りのように上へ上へと延びていた。川面には枯草がその縁を伝うように
両脇を薄茶色で彩っている。小さな堰堤がその流れを遮るように青草が縞模様に
映える壁となっていた。そこから丘陵への道がひっそりと姿を現した。
その丘陵の端には、一本の蜜柑の木が寒々した空に身をゆだね、立っている。
春に来たときは、その枝枝に白い蕾をつけ周辺の緑の若草に映えて天に
伸びきっていた。
今は冬の寒さに耐えるため、厚い木肌に覆われたその気の横に立つと、遠く
琵琶湖の白く光る姿が見えた。何十にも続く小さく区切られた田圃が琵琶湖に向かって
駆け下りている。すでに今年の役割を終えた水田は黒々とした地肌を見せ、
中天の光りの中で来る冬の寒さに備えるかのように身を固くしている。
しかし、彼の眼には一か月ほど前の金色に光る稲穂のさざめきの光景が見えていた。
何十年、何百年とこの地で住いしてきた人々の変わらぬ世界でもあった。
丘を下り、幾重にも重なるように立ち並ぶ栗原の集落を抜けると、その小高い
場所に水分(みくまり)神社があった。古老の話では、
「御祭神は、天水分神アメノミクマリノカミという。
当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘全域の祈雨場
であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を領した際采地の内より若干の
神地を寄進した。元禄五年社殿改造の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であった
のが、後に和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村のみの
氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから村座として十人衆があり、
その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。この為古神事が名称もそのままに
残っている。その主なものは、神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日)
菖蒲祭(六月五日)権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)等があり、
御田植え祭が6月10日にある。八朔祭には若衆による武者行列があったが、
今はやっていない」という。
広く長い参道の中間点あたりの勧請木に青竹を渡し勧請縄が掛けられている。
何本有るのかもわからない程多くの子縄が垂れ下がりそれぞれに御幣と
シキミの小枝がつけられている。ちょっと不可思議な光景でもある。
しかし、雨乞い、田植え祭りなど水に育まれた集落である。
なお、栗原には道路を挟んだ対面にもう一つ棚田がある。それは昔、何気なく
竹藪の流れに身を任せるかのように分け入った先に突然現れた。道を
一気に駆け下り、さざめく小川のほとりから上を見上げた時のあの風景は
中々に忘れ難い。丘に張り付き隠れるように幾重にも水路が走り、それが
細長く仕切られた水田に小さな水の流れを起こしていた。さらにその先には、
緑深く敷き詰めた比良の山端がその丘を懐に抱くように、迫っていた。
心が癒される一刻の鎮まりと絵画のごとき風景がそこにあった。

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