2016年3月8日火曜日

弁天神社、大物百間堤

弁天神社と念仏山周辺
きれいに整備された道路をその少し勾配に負けるような気持になりながらも、
比良の手前にある小さな山の麓、念仏山と呼ばれる山端に、たどりつく。
舗装された道が切れ、数条の小さな草の列が細く長く続く山道へと変わった。
左へ折れた十メートル先に小さなやしろが杉の木々に覆われるように
静かな佇ずまいを見せていた。弁天神社であった。神社の入り口には、石で
蛇を模した像が神社を守るかのような形で鎮座していた。この辺の
人々は「みーさん」とも呼んでいるそうだ。起源は弁財天が南小松 大仙寺
開基の守護神として祀られた事によるとのこと。その後、織田信長の
比叡山攻めによって荒廃したが、明治43年8月に現在の地に祀られた。
境内には、白光大神の社もある。
その小ぶりな社殿を2つほどめぐると、後ろには、沼があった。
沼辺の大きな栗の強い緑の影が水面に伸びている。風一つなくて、
水すましの描く波紋ばかりの青黄いろい沼の一角に、枯れた松が
横倒しになって、橋のように懸っているのが見え、その朽木を癒すかのように
二筋の水が黒く繁った羊歯の間から滴り落ちていた。その朽木の周辺から
円い円を描きさざなみがこまやかに光っている。そのさざなみが、映った空
の鈍い青を掻き乱している。朽木は万目の緑の中に、全身赤錆いろに
変わりながら、立っていた頃の姿をそのままにとどめて横たわっている。
疑いようもなく松であり続けているかのように、そこにいた。
彼は、草草のきれた合間からさらに数歩池に近づいた。池の対岸の青さびた
檜林が、こちら側へも広がって来ていて、さらにその影が多くしていた。
その木立の暗闇の中を、白い蝶がよろめき飛んだ。点滴のように落ちた日差し
が湖面に新たな光を与えている。遠目には影絵の蝶が、近くへ来ると、
羽根の朽葉色を彩るコバルト色が鮮やかに見えた。
燦と光る羊歯の上を、社殿の方へと低くうつろいながら飛んでいった。
神社の下には、さらに細い道が続いているが、数メートル先では檜の若木の
中に消えている。小さな水のせせらぎが聞こえてきた。
石灰岩の白い粒がその流れの底で薄く広がって川とは言えない、小さな水の
流れを作り出している。黒い緑の羊歯の間を抜けてきた水はたえず
ゆらぎながら、羊歯の葉裏をひるがえすほどの力があると思えば、物憂げに、
悩ましげに、左右へその葉を振るばかりでもあり、その蛇行する形が
いやが上にも葉の揺れ方を不規則にしている。よく見れば、多くの葉は、
葉心は葉脈も初々しく滑らかなのが、葉辺は錆色に蝕まれて破れている。
ちらばった錆色の斑から、葉の敗れが始まって、それがうつって、
波及していくものらしい。ときおり、裏革のような肌の、胡粉を含んだ
粉っぽい緑の葉が、目の前を通り過ぎ、さらに葉が不安定に揺れながら、
そのかすかな声の合唱を奏でるように小さな沼へと流れを作っている。
揺れ方をつぶさに見ているうちに、それが実に複雑な動きを示すのに、
気付いた。流れに沿って一応にその沼へ流れ込むだけではなく、その途中には
水のたまった形の茶色の輪が乾いており、そこにいくばくかの
枯葉の幾葉かが納まっている。木々からの光りはまだ明るいのに、沼への
流れには、どこからか暗さが迫っていた。
この流れを少し下ると、手作りの山道があった。念仏山へと通じる道だそうだ。
地元の古老がちょっと上がってみようとの誘いで、進んだが、結構きつい。
道は途中から消え、杉の灌木と松の林が斜めに迫る中を十五分ほど、
息を切らしながらも上ると、三百メートルほどある頂上にたどり着く。
そこはぽっかりと空が開き、杉や檜の木々が消え、その先には、近江舞子の
内湖や湖に浮かぶ対岸の沖島、さらには八幡山などの山並みが碧い水面の先に見えた。



大物、百間堤
国道を逸れるとすぐに、若い杉の木々の群れがいくつも彼の周りに現れた。
それらが織りなすまだら模様の光の影が時には明るい道筋となり、さらに
数歩先には光を強く拒絶するような一面黒色模様の帯となってその歩みに
逡巡の心地を湧きあがらせるような道ともなった。
比良は、他の地区でも見られたように、静かに彼を受け入れるかのように
淡然とその行く手に鎮座していた。しかしその光に映えた姿も、時に、
覆いかぶさるように繁茂した蔓草や見知らぬ木々の群れに遮られ、消えて
いた。やがて、太く重い音の響きとともに、目の前を一直線にその灰色の
無様な姿を横たえたコンクリートの塊が現れた。比良の山端を縫うように
走る高速道路がそこにいた。右手方向へは「志賀清林の墓」とある。
白く舗装された道と今まで通ってきた砂利の道が何の思いもなく単に
物理的にまじわった、そんな風情の出会いであった。
しかし、その砂利道は、舗装道路に分断されたものの、さらに山への力強く
続いているようであった。でも少し違うと彼は思った。
よく見れば、更なる道にはその横を細いながらもその力強さを映える光の中に
持っているような湧水からの一条の流れがあった。
草木の匂いがあたりに満ちている。道の両側に松が多くなり、見上げる空には、
日が強いので、松笠のその鱗の影も一つ一つが明確な意思を示しているように見えた。
左方には、荒れて褐色の形を成した蔓のいっぱい絡まった小さな空間があらわれた。
道の行く手を、なおいくつもの木陰が横切っている。あるものは崩れた簾の影のように
透き、別のそれは喪服の帯のように三、四本黒く濃厚に横たわっている。
身体の内を汗が数条流れるような感触が強まり、疲労が徐々に体全体を
覆っていくようだ。
あたりに幾つかの露草があるが、花は日差しの中で萎んでいる。若い燕の翼のように
躍動した葉の間で、ごく小さい青紫の花が萎えている。見上げた空には、掃き残した
ような雲の幾片も、ことごとく怖ろしいほどに乾いている。時折落ちる葉のかさりと
する音のほか、しんしんとした静寂が身の回りを包む。
左方に竹藪がはじまったのは、道がやや左へ迂回して間もなくである。
竹藪は、それ自体が人間世界のの聚楽のように、しなやかな繊細な若葉の
ものや悪意と意地を帯びた強い黒ずんだ緑まで、身を寄せ合って群がって繁っている。
松林がやがて杉林にその領域を譲るあたりに、一本孤立した合歓があった。
杉の強い葉の間に紛れ込んだ、午睡の夢のようにあえかな、そのやわらかい葉叢
そこからも一羽の白い蝶がたって、行く手へ導いた。
道はややその勾配を高めながらもまっすぐに林の奥へと消えている。
さざめく木の葉の音ずれとゆらゆらと飛ぶ蝶の白き影を追って、十分ほど経つ
のであろうか、突然それは表われた。三メートルほどの石垣が前を遮っていた。
それが右手の方に途切れた林にそって、さらに先へと延びている。
何処からか、力強い水音が彼を誘うかのように聞こえてきた。手作りの
階段を上がると、それは見えた。大きな石を何十となく積み上げた堤が川の
流れに沿って、数百メートルほど伸びている。百間堤であった。
比良の山並みを光背にして、十メートルほどの川幅の、その強い流れを音と
岸にそそぐしぶきの踊りで表した、四ツ子川があった。
堤と川の切れ目の間に、白く輝く琵琶湖の水面が陽光を見せながら、静かに見えた。
ここは石と水の戦いの場でもあったのであろう。
百間堤の説明があった。
「この周辺は、洪水ごとに何度も決壊した場所で、現在の石積は、嘉永5年
(1852)の洪水後、6年近い歳月を費やして完成したと伝えられます。
堤の上巾15m、長さ200mの堤です。
「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』
(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻
(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や
人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して
流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、
下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米
の減額をたびたび役所に願い出ていました。そこで、当時大物村を治めていた
宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大
石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて
棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。
1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、
天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月を
かけて完成させました。
下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の
強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)と
よばれ、女性でも運べる程度の石で造られています。」
この堤に立って、周囲の空気に交われば、自ずとこの石たちの持つ優しさを感じる。
対岸に若い二人連れがいた。この堤の上で見る風景とあちらから見るそれは、
大分違う、そんな思いが湧いてきた。多分それは、これを作り上げた人々の想いが
足元を通じて伝えてくるものと少し離れ、観察者として見ることの違いなのであろう。
四ツ子川から引き込んだ小川が堤の間を、それは苔むした石で覆われているが、
緩やかに流れていく。先ほどの小川の流れはここから出ていたのであろう。
そしてその水がさらに下り、大物の集落の水の恵みとなった。しかし、それは突然
神の顔から荒れ狂う風神、雷神の顔に一変し、その昔は集落を襲ったのだ。
人もこの自然の中の一員であることを知らしめるための神の仕業なのかもしれない。
この周辺は、その神への信仰もあるのか、弁天、金毘羅など水への畏敬を
表した神社が多い。

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