2016年3月12日土曜日


水に守られていた、北小松と樹下神社周辺

国道にその長い影を横たえていた。比良の山並みにもすでに赤みを帯びた

雲がかかり始め、秋の涼しさが横たわり始めている。国道すぐ横にある

大きな石の鳥居が彼を見下ろすように建っていた。

そこから数百メートル先に社殿が松並木に囲まれるように佇んでいる。

小さな石橋を渡る。松並木と横に広がる田畑の間には、緩やかな水の流れが

あり、その橋を潜り抜けるように大きな溝へとそれをつなげていた。

松並木にそっては、四つほどの石灯篭が、交互に居並ぶように道を作っている。

ひりかえれば、その道は国道を横切り、一直線に光映えている琵琶湖へと

延び消えていた。その昔は湖北、敦賀へと海上をつなぐ湊として、また伊藤氏が作ったという城もあったという要害の地として、栄えたという残り香が

漂っているようでもある。

境内へは石の車止めを通るのだが、右手に瓦葺の大きな社務所が白壁に

囲まれるように建っている。その横には、龍の口から湧水が吐き出されるように湧き出ていた。この神社には、このような龍の湧水が三つほどあり、涸れることなく流れ出てきたという。

社務所の総代の話では、

「御祭神は、鴨玉依姫命です。水を守る神様です。

 創祀年代は不詳であるが、天元5年(982年)に佐々木成頼により日吉十禅師

 (現日吉大社摂社樹下宮)を勧請したのに創まるとの伝えがあります。

以来、近江国守護佐々木氏の崇敬を受け、社頭は発展しました。

元亀の争乱時(16世紀後葉)に、織田信長軍により壊滅的な打撃を受けたが、

続く天正年間に規模は小さくなったが再建されました。明治3年(1870年)

に十禅師社と称していた社号を、樹下神社に改め、明治9年には村社に列し、

41年には神饌幣帛料供進社に指定されました。

境内社には、比較的大きな社務所もあり、天滿宮、金比羅宮、大髭神社があります。」との説明がある。

本殿の前には、大きな石造りの社があり、精巧な作りを見せている。

また、天保時代の石燈籠があり、その造りは真っ直ぐといきり立つ宝珠、それを受ける見事な請花、露盤のくびれもその鋭い形を残したままで優雅に立っている。

本殿と社務所の丁度中頃には、大きな石をくり抜いたであろう石棺が古代の威容をそのままに鎮座していた。先ほどの龍の湧水とは別の水口があり、その横には緑の縞が明瞭に出ている2メートルほどの守山石が置かれていた。かっては、この石の上に楠正成の銅像があったというが、その雄姿は、写真でしか味わえない。

周辺の秋枯れた世界とは別の世界がここにある。

この神社を少し山側に行くと、修験堂の登り口の前に「生水(しょうず)」と

呼ばれている湧水の場所がある。

北小松の集落は、伊藤城(小松城跡)があったとされ、その石の水路の織り成す城下の面影が残っている。白壁と大きな松にかたどられた瓦屋根の家々がその姿をとどめている。戦国期の土豪である伊藤氏の館城、平地の城館であった。

北小松集落の中に位置し、「民部屋敷」「吉兵衛屋敷」「斎兵衛屋敷」と呼ばれる

伝承地がある。湖岸にほど近く、かっては水路が集落内をめぐりこの城館も直接水運を利用したであろうし、その水路が防御的な役割を演じていたであろう。街を歩くと、幾重のも伸びている溝や石垣の作りは堅牢で苔生したその姿からは、何百年の時を感じる。苔むした川は、三面水路で造られ、春ともなると、小鮎がいくつもの群を作り遊びに興じている様だ。また「かわと」の風情も残っている。

家の中に湧き水や琵琶湖の水、川の水を引き込み生活用水として利用していた。

山からの湧水が小川となり、それがこの街を幾重にも重なりながら静かな水の流れを作り上げている。彼方此方にその残滓は残っているが、多くは数段の石段が川に延びた状態で、今はほとんど使われていない。家々の間にそれとなく顔を出す湖の碧さと白地の強い砂浜がここが、かっては水運の街であったことをそれとなく教えてくれる。少し歩けば小松漁港に出るが、まだそこには石造りの防波堤や港周辺の様々な造りに石が上手く使われて、苔むした石垣は時代の長さを感じさせる。

今も残るその風情に遠くを見つめるように古老の姿が揺らいでいた。

静かな午後の日差しがその背を白くとらえていた。

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