2016年3月30日水曜日

2つの八所神社

その路は、琵琶湖のさざなみが寄せ波間の音が聞こえる足元から
一直線に西へと伸びている。国道を切り取るようにそのまま大きな
石の鳥居の下から数段の石段を駆け上がり拝殿へと続く。鳥居には
大きな注連縄がかかり、薄茶色に化した樒がそこに吊り下げられている。
鳥居の横の大きな石碑には、「八所神社」と深く刻まれ、こちらを
にらむかのように建っていた。横道の常夜灯と道端の羊歯、南天の赤い実、
風にさやぐ杉の木肌、がひそやかに彼を迎える。
地表に広がる無数の苔、その雑念とした空間を斑模様に拡がる水溜りの薄灰色の道が、
ゆくての拝殿のややくすんだ中へと紛れ入っていた。ゆっくりと小砂利の道を
踏みしめながら周りを見れば、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林や無造作に
打ち捨てられた朽木がさびしげに見られる。拝殿を回り込む形で、その先に進むと
小さな本殿が杉木立を後景にその華奢な姿を木漏れ日の中に浮き立たせている。
右手の社務所とある建物は、数十年という風雪がしみ込む形で杉陰の中に見えた。
石碑の横にある神社の由来によれば、
「祭神は、大己貴命、 白山菊理姫命の二座です。
織田信長が比叡山を焼き討ちした折り、日吉神社の禰宜祝部行丸が類焼を避けて
日吉七社の御神体をこの地に遷し日吉神社再興までこの地で奉祀したと伝えています。
日吉大社七座と地主神白山菊理姫神一座とを併せて八所神社と称するとしています。
日吉大社が再興されるまで日吉祭りはこの八所神社で実施されたため、現在、
日吉山王と書かれた菊入りの高張りがあり、五か祭には使用されます。
天正6年(1578)の再建とされました。例祭は、5月5日で木戸の樹下神社の例祭と
あわして行われ、湖岸を朝早く木戸の樹下神社に渡御し、夕方還御します。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りで、柱間を桁裄三間、梁間二間とした
木割の太い建物です」とある。
静けさの中に水音がわずかな動きを伝える。右横の竜神の口からは、幾筋かの水滴が
落ちている。神社の後ろには、隠れるように、祝部行丸の墓や愛宕さんの石灯篭、
山ノ神を祀る石像などがある。
拝殿から来た道を振り返れば、まっすぐ伸びた道は湖へと消えている。拝殿の柱間に
その碧き色が光をくねらすように見えていた。
更にここには、同じ名前の八所神社がもう一つある。
先ほどの八所神社の横の参道の少し先に同じ石の鳥居が建っている。
石段の手前には、神社由来の辻立てがある。
「祭神は八所大神 住吉大神の二座です。
創祀年代不詳ですが、神護景雲2年(768)に良弁(ろうべん 689~773)
によって創建されたと伝えられています。良弁は、奈良時代の学僧として
名高いが、南船路辺りの出身とする伝承があります。
斎明天皇5年比良行幸の際、当社にも臨幸ありと伝えられます。
又良弁僧正と深い関係があり、天平宝字6年(762)社宇を改造し社側に
一字一石経塚を建て(此経塚現存す)法楽を修しました。
又足利将軍が安産の神として崇め、和邇金蔵坊が郷の産土神と崇敬し
社領若干を寄進されたともあります。
拝殿は、間口二間 奥行二間 入母屋造りです。
中には、伝良弁納経の石塔があり、良弁が書いた経文を納めたものと伝えられます。
層塔の残欠で、厚さ6~7cmの自然石の上に三層の笠を置き、その上に宝珠形の石
をのせ、良弁が一石一字の法華経を納めた塚であると伝えます。
例祭は、5月5日、神輿二基が湖岸の御旅所へ渡御します」とある。くすんだ
杉板には黒い染みが点々とあり、年代を感じる。
社殿の西側に、タブイキの林が広がり、境内にその静けさをもたらしている。
中には、胸高周囲4メートル以上のタボノキ・コジイの巨木が深き境界を創りだし、
中央に鎮座する拝殿に千々たる光の葉影を落としていた。
拝殿から湖を見れば、柱のフレームに切り取られた碧い水模様が午後の光りの
中で絶えず変化するように煌めいている。この拝殿もその昔は、国道や湖西線の
無様な遮蔽物もなく、1つのつながりとして湖へ伸びていたのであろう。
静かに目を閉じれば、湖の小さきさえずりが聞こえ、幾重の葉影がこの身を
包みこんでいる。
良弁(689~773)については、奈良時代に活躍した僧。石山寺の建立に
尽力しました。出自について諸説ありますが、良弁は南船路辺りの出身とする伝承
があり、また近江国志賀里の百済氏とする説もあります。
残された伝承によると、良弁が2歳の頃、大きな鷹が良弁をつかんで飛び去り、
行方不明になり、奈良の春日社で義淵(ぎえん)という僧が鷹につかまった
子どもを見つけ自分の弟子とし、「良弁」と名づけ大切に育てたとのことです。
その後、良弁は成長して僧正にまでなり、母親は奈良まで出向き、30数年
ぶりに親子の再会がかないました。良弁の師匠の義淵は、飛鳥の岡寺の創健者
と知られる高僧で、弟子に行基や玄昉(げんぼう)などの著名人が多くいます。
良弁は聖武天皇や光明皇后とのつながりも深く、東大寺の初代別当にもなっています。
これは、地元の古老から聞いた話である。
この奥には、円墳横穴式石室の古墳があったが、今は見ることが出来ない。

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