やや黒味を帯びた松林の間には、白き碧さの湖が静かに横たわっている。 目を転じれば、東からの陽光を浴びる比良の山端の切れたあたりに 小さな湖がいた。 先ほど乗ってきた電車の去る音が静かな時の流れを引き裂いていく。 やや褐色の強くなった山肌に白き亀裂の目立ち始めた比良山の山並み に向かって緩やかに上る小道をたどり始めた。国道を横切り 更に小道を歩くと、石の道標が出迎えた。地元の古老の話では、 古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い神社まで数多くの 都人たちも参拝したという。その人たちを導くための道標が、街道の 随所に立てられたが、現在その存在が確認されているのは、七箇所 ほど(すべて大津市)。建てられた年代は天保七年で、どの道標も表に 「白鬚神社大明神」とその下に距離(土に埋まって見えないものが多い)、 左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に建てられた「天保七年」が刻まれている。 二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうが、 ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで 受け継がれてきたものだ。その最後の道標がここ、八幡神社の参道の 手前にある。 その道標の先にある家の庭には敷き詰められた石と淡然とした趣のある 石灯篭がこちらに向かってにこやかな笑いを帯びた風情で置かれていた。 横を手押しの車を押して白髪の髪を後ろでまとめ上げた女性が、ゆっくりとした テンポで通り過ぎていく。がたがたという音がやや朽ちた壁と石畳の道の間に 強く響いていゆく。その先には、八幡神社との刻銘がある常夜灯の大きな 石の影が参道を寸断するかのように、一直線に伸びていた。 その常夜灯の先に八幡神社があった。 古老の話と説明文から、 「南小松の山手にあり、京都の石清水八幡宮と同じ時代に建てられたとされます。 木村新太郎氏の古文書によれば、六十三代天皇冷泉院の時代に当地の夜民牧右馬 大師と言うものが八幡宮の霊夢を見たとのこと。そのお告げでは「我、機縁 によってこの地に棲まんと欲す」と語り、浜辺に珠を埋められる。 大師が直ぐに目を覚まし夢に出た浜辺に向うと大光が現れ、夢のとおり聖像があり、 水中に飛び込み引き上げ、この場所に祠を建てて祀ったのが始まりです。 祭神は応神天皇です。 創祀年代は不明ですが、古来、南小松の産土神であり、往古より日吉大神と 白鬚大神の両神使が往復ごとに当社の林中にて休憩したと云われ、当社と 日吉・白鬚三神の幽契のある所と畏敬されています」と説明する。 大きな狛犬が、本殿を守るかのように鎮座していた。 右のそれのタテガミは、やや逆立つように大きな目は怒りを含んで本殿に向かう ものへの畏敬を望んでいるようであり、左のそれは緩やかな鬣にあわすかのように 目や口の造作から穏やかな空気が流れ出てくるようだ。ともに180センチ ほどの大きな体を悠然と台座の上に横たえ、周囲を圧した情感を発している。 静かな空気を剥ぎ取るようにどこからか水音がした。 本殿の横、石の水路からその音は出ていた。水路は小さいものの、水しぶきが 水路にそって伸びる苔の帯に降り注いでいる。小さな光の筋がその緑に絡み つくように映え、水の強さをさらに深くしているように見えた。 水音をたどれば、後背の杉の群れの中に消え、念仏山といわれる比良の前面に ある小山へと続いているのであろう。また下へとたどれば、神社の石垣に沿って、 正面の鳥居の下へとそれは続いている。小さいながらも、まるでこの神社を 守るかのように水音が周囲を覆っている。 春の祭礼(四月下旬)には、神輿をお旅所まで担ぎ、野村太鼓奉納や子供神輿 がこの地域を巡るという。拝殿の前には、土俵の堤があり、八朔祭(9月1日) が行われ、夜七時ごろからは奉納相撲が開催される。子供たちが裸電燈の下で 勢いよくぶつかり合い、周囲からの声援で踏ん張り、そして投げを打つ。 そんな様が自身の少年時分の思い出と重なって古いトーキー映画のごとき 緩やかなモノクロの映像の流れにしばらく身を置く自分がいた。 昭和といわれた時代の名残香が一瞬鼻をつく、しかしそれは五十年以上の 古き香りなのであろう。 さらさらという水音に、沖天の光の中にいる自分、引き戻された。 狛犬の目が一瞬、お前はここで何してんねん、と言っているようでもある。 石と水の里、そんな想いがさらに強まった。
2016年3月23日水曜日
狛犬の南小松、八幡神社
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